新インド仏教史ー自己流ー

その2
本番に入る前に、もう少し、事前情報を見ておきたいと存じます。
 仏教を含めた『インド哲学史』A History of Indian Philosophy 5巻を著した学者にダスグプタ(S.Dasgupta,1885-1952)がいます。彼は、宗教学の大権威エリアーデ(M.Eliade,1907-1986)を教えたことでも知られています。『インド哲学史』第4章「インド哲学体系に関する一般論」General Observation on the Systems of Indian Philosophyの冒頭でこう述べています。
ヨーロッパ哲学史が著されたやり方で、インド哲学史を試みようというのは、土台、無理である。ヨーロッパでは、最初期から、思索家が次ぎ次と現れ、哲学に対して独自の思弁を展開した。現代史家の著書は、それらの見解を時系列に並べたものであり、または、学派間の影響を論じたものであり、更には、哲学の傾向や潮流について、時代毎に流通した変化を論ずるものである。しかし、ここインドでは、哲学の基本体系は、その起源を、わずかな記録しかない時代においているに過ぎない。だから、それがいつ始まったかを正確に言うのは、ほぼ不可能である。どれほど初期に、どれほど多くの種々の体系の樹立をもたらしたというような影響を見積もるのは、本当に困難なのである。
It is hardly possible to attempt a history of Indian philosophy in the manner in which the histories of European philosophy have been written.In Europe from the earliest times,thinkers came one after another and offered their independent speculations on philosophy.The work of a modern historian consists in chronogically arranging these views and in commenting upon the influence of one school upon another or upon the general change from time to time in the tides and currents of philosophy.Here in India,however,the principal systems of philosophy had their begninngs in times of which we have but scanty record,and it is hardly possible to say correctly at what time they began,or to compute the influence that led to the foundation of so many divergent systems at so early a peiod,・・・
(S.Dasgupta;A History of Indian Philosophy、vol.I,1977,rep.of 1922,Cambrige,p.62)
このようにインド哲学史の困難さを伝えたのは、1922年当時の状況を踏まえてのことなのでしょうが、未だに、インド哲学の全貌がわかったとは言えません。他の情報で耳にしたかも知れませんけれど、実は、仏教の開祖、シャカの生没年さえまだはっきりしていません。ベッヒェルト(H.Bechert)という学者は、1991年に『歴史的ブッダの年代論』The Dating of the Historical Buddhaという著書で、以下のように現状を伝えています。
ブッダやその同時代人の年代論は、歴史家にとって、大事でないわけはない。インドの、そしてはっきり言えば、世界の歴史図には、相変わらず、必須の重要課題なのである。それ故、有効な意見の一致に辿りつかんとして、様々な試みがなされてきた。しかし、片や、東南アジアと西欧の学者の大部分、片や、日本人学者の大部分は、この問題で分かれたままなのである。
The question of the dates of the Buddha and his contemporaries is no less important for historians.It remains a matter of crucial importance for Indian and indeed worldhistoriography.Therefore various attempts have been made to reach a workableconsensus,but the majority of South Asian and Western scholars on the one handand that of Japanese scholars on the other remain divided over the issue.
( H.Bechert;The Dating of the Historical Buddha,pt.1,1991,p.1)

世界中の学者が同意するような確実な生没年は、20世紀の終わりでも、はっきりしていないことがわかると思います。別な研究者の見解も付しておきましょう。梶山雄一氏によれば、仏滅年代論は、以下のようなものです。かなり詳しい解説ですので、事の経緯がよくわかると思います。
一般にインド史における諸年代はきわめて不正確なものであるが、例外的に、マウリア王朝のアショーカ王の在位年代は、世紀前二六八―二三二と、ほぼ異論なく認められている。幸いに、王は多くの碑文(ひぶん)を残し、その中には年代の明らかなものも少なくない。またアレクサンドロス大王の東征(とうせい)、セレウコス朝シリア王国、バクトリア王国などのギリシャ人とインド人との交渉(こうしょう)の結果として、ギリシャ史における諸年代がインド史の諸年代の決定に寄与(きよ)することが多いからである。このアショーカ王の年代を基準として、ゴータマ・ブッダ(釈迦牟(しゃかむ)尼(に))の年代をはじめ、古代仏教史の年代が定められるが、こちらの方は残念ながら、一つの定説は得られていない。ブッダの逝去(せいきょ)の年代は日本において有力な意見に従えば、世紀前三八三年であり、欧米・インド・スリランカなどの学者の計算によれば、前四八六年である。ブッダの生涯は八十年であったと一般に認められているから、その生年は前四六三年、あるいは、前五六六年ということになる。このようにブッダの年代に相違があり、しかも、きわだった考古学的発見でもないかぎり、将来においてもその相違が調整されそうもない。ということは、日本の学者と外国の学者とが年代計算に用いる基本資料が異なっているからである。北インドから中央アジアを経て中国に伝わった伝承(北伝(ほくでん))によれば、アショーカ王の即位(そくい)はブッダの滅(めつ)後(ご)一一六年と考えることができる。北伝の諸書には多くの異なった年代が見られるが、いずれも、一〇〇年ないし一六〇年の間に収まり、そのうち最も信頼しうるものが、『部執(べしゅう)異論(いろん)』『十八部論』などのいう一一六年説である。かくて、アショーカ王の即位年代二六八年に一一五年を加えたもの、前三八三年がブッダの没年として計算される。他方、スリランカの史書の伝承(南伝(なんでん))によれば、アショーカ王の出現はブッダの滅後二一八年と記されている。したがってブッダの没年は、単純に加算すれば、前四八六年となる。(梶山雄一『仏教における存在と知識』1983,pp.i-ii、ルビ私)
ところで、ブッダとはシャカの別な呼び名です。すでに知っている方もいるとは思いますが、その違いについてごく簡単に触れておきましょう。ブッダはサンスクリット語と いうインドの言葉√Budhブッドゥに由来します。「悟った者」という意味です。ブッダは、仏教の開祖を示すものですが、もともとは一般的な名詞で、他の宗派でも、あるいは弟子でも「悟った者」であれば、ブッダと呼んでもかまいません。しかし、仏教の開祖を指す場合が多いようです。インドでも仏教徒のことをバウッダBauddhaと呼びます。「ブッダの弟子」という意味です。一方のシャカは、部族名です。つまりシャカ族の人という意味です。よく釈尊(しゃくそん)と言いますが、これはシャカ族の尊者を意味します。
 さて、ではこのシャカは、どのようにして仏教の開祖となったのでしょうか?すべてがシャカのオリジナルではありません。いきなり、仏教がインドに誕生したわけではないのです。先ほど触れたダスグプタは、こう述べています。
多くの学者の意見では、サーンキャとヨーガが、インドにおける最初期の体系的思弁を表明している、という。それは、仏教がその着想の多くをそこから拝借したということも、暗に示している。そのような見解にも、ある程度の真実はあるのかもしれない。
Many scholars are of opinion that the Samkya and the Yoga represent the earliest systematic speculations of India.It is also suggested that Buddhism drew much of its inspiration from them.It may be that there is some truth in such a view,・・・
 (S.Dasgupta;A History of Indian Philosophy、vol.I,1977,rep.of 1922,Cambrige,p.78)
最後は明言を避けていますが、「仏教はサーンキャ等の影響の下で生まれた」という説を紹介しています。聞きなれないサーンキャとは、インドでは正統派を代表する宗派の名です。これも日本人にはよくある思い込みですが、インドでも仏教はメジャーな宗派だったと考える傾向があります。しかし、実情はまるで違います。仏教は下から2番目くらいの位置づけでした。それに比べ、サーンキャ派は、古代からインド思想界の中心を占めていました。そういう事実があるものですから、学者の中には、ダスグプタの紹介するような意見を持つ人も沢山いたのです。日本を代表するインド学者、中村元(なかむらはじめ)氏は、こう述べています。
 仏教の起源をサーンキヤ哲学のうちに求めようとした学者が西洋には多数いたが、日本のほとんどすべての学者はこの見解に反対して、文献について立証されていないものだと批判している。(中村元『中村元選集[決定版]第24巻ヨーガとサーンキヤの思想 インド六派哲学I』1996,p.535)
古い文章ですが、その辺りの経緯(けいい)を扱ったものを紹介してみましょう。
 西洋並びに印度(いんど)の学者の大半は、数論(すろん)派〔=サーンキャ学派〕が仏教より古るいと考えている。特に〔西欧の有名な学者〕ヤコビの如きは、「仏陀(ぶっだ)が瑜伽〔ヨーガ〕を修したとすれば、〔ヨーガの姉妹学派とされる〕哲学派たる数論を通過しなければならぬ」とか、「仏教哲学は数論の上に建設されている」と主張して、仏教が教理の上では数論のそれから発生し、従属的関係にあるかの如く解している。〔やはり、西欧の著名な学者〕ガルベもこの立場を取つて、「仏教の無我論は数論教義の最後の結論を越えて進んだのである」とさえ云(い)つている。・・・要するに数論を仏教より古く見る根本理由は、数論が婆(ば)羅門(らもん)思想に起源を有し、それから発展したと云う点に存する。果して然(しか)るか。この問題を明らかにするのが、仏教と数論派の前後及び影響問題を解く根本基底である。(山本快竜「仏教と数論派」『清水竜山先生古希記念論文集』1940,pp.622-623,ルビ・〔 〕内私の補足、1部現代語標記に改めた)
古めかしい文を読んでもらいました。こうして見ると、西欧の学者達は、仏教の成り立ちをサーンキャの影響と見ていることがわかります。日本の学者は、これに異論を唱えます。理由は単純です。仏教を信仰する人が多い日本人学者は、仏教のオリジナリティーを守りたいのです。一方の西欧学者は、仏教信者ではない分、信仰に左右されません。
でも、どちらが正しいのか、決着はまだついていないのです。

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