Tips of Buddhism

No.10
The election of Grand lamas by reincarnation is unique feature of Tibetan Buddhism,although the idea of reincarnation is clearly of Indian origin.Dharmakirti’s treatise Pramanavarttika,a principal text used in Tibetan monastic training in logic,is a major source of Tibetan Buddhist logical arguments for rebirth.
( Xiangyan,Wang,Tibetan Buddhism at the Court of Qing:The Life and Work of lCang-skya Rol-pa’i-rdo-rje(1717-86)、pp.33-34)(hints,lamasラマ、Dharmakirtiダルマキールティ、Pramanavarttika量評釈,logic因明)

(訳)
転生(てんしょう)によって、大ラマを選出するのは、チベット仏教独特の特徴である。転生観は明らかに、インド由来であるとしてもだ。ダルマキールティの論書『量(りょう)評釈(ひょうしゃく)』は、チベット僧院の因(いん)明(みょう)の訓練で使用されている基本テキストであるが、生まれ変わりに関するチベット仏教の論理的議論の主たる源泉である。
(解説)
Wang,X氏の博士論文『清王朝におけるチベット仏教』から引用した。清王朝で活躍したチベット人学僧チャンキャ(1717-1786)の事績を扱っている。有名な活仏ラマに触れた下りである。偉大な僧は生まれ変わって、人々のために尽くすと信じられてきた。ちなみに、ダライ・ラマは、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の転生とされる。このような考え方は、そもそもはインド発で、輪廻(りんね)(samsara,サンサーラ)と言われる。インドでは、生きとし生けるものは、様々な生き物となり、生死を繰り返すと信じられていた。現代人から見れば、輪廻などは荒唐無稽(こうとうむけい)だろう。しかし、上で述べられているように、インド仏教では輪廻の証明をなしたとされる。行ったのはダルマキールティという6世紀頃の学僧である。当時は、今風に言えば「論理学」に相当する学問が隆盛(りゅうせい)を極めていた。古来「因(いん)明(みょう)」(hetuvidya,ヘートゥ・ヴィドゥヤー、論証学)と呼ばれ、インド思想界全体、そしてチベットでは盛んに学ばれた。輪廻は、特にダルマキールティの『量(りょう)評釈(ひょうしゃく)』という書で論じられた。『量評釈』は、古くからの漢訳を使った書名で、『論理学に関する批判的考察』というように訳せるだろう。この『量評釈』は、4章から成り、そのうちの1章が、「量(りょう)成就(じょうじゅ)」章と名付けられている。「量」とは、文字通り、「はかり」「ものさし」のことだが、この時代になると「ある事柄に関する基準」あるいは「権威」という意味合いに使われる。ダルマキールティは、釈迦ブッダが、「悟りに関する基準であり、権威である」と「量成就」章で論証した。その方法は、一般人の認識の中で、「量」とするものを探り、それと釈迦ブッダを比較し、両者をアナロジーとしたのである。それを発端として、輪廻等を論証した。決して、荒唐無稽な自説を説くのではなく、あくまでも他人に理解出来るように論証したと言われている。言われていると表現を押さえたのには理由がある。実は、ダルマキールティの思想自体、未解明な部分が多いからである。
ただ、チベットでは、その証明が受け入れられ、大層重んじられた。しかし、面白いことに、中国仏教界では完全に無視された。ダルマキールティには7作品あるが、漢訳されたものは1つもない。因明をめぐる両国の対応には、その仏教観が鮮明に現れている。チベットでは、最初に学ぶのが因明であり、そこでディベートの技術を磨き、中観や唯識に進む。因明はすべての基礎なのである。一方、中国や日本では、悟りとは本質的に関係のないものと位置付けられ、単なる論争の道具としてしか見なされなかった。このことからも、同じ仏教とはいえ、全く姿の違うものであることがわかると思う。
 
 


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