仏教余話

その163
さて、インドでは、「仏教論理学」は、中核的学問として、繁栄を誇った。しかし、それを代表する学僧ダルマキールティ(Darmakirti)の著作は、遂に、1つも漢訳されるに至らなかった。結局、中国や日本では、インド張りの「仏教論理学」が、花開くことはなかったのである。とはいえ、中国や日本の仏教者が、その分野に全く無関心であったわけではない。夥しい研究が残されている。ただ、限られたテキストを用い、少ない情報を基に展開された研究は、いびつな発展を遂げたと、言わざるを得ない。日本的展開がいびつな理解を生むことには、他に例もある。即ち、特殊な時間論として、古来から着目されてきた説一切有部の説を、日本では、「三世実有法体恒有」のフレーズで表すが、加藤宏道氏は,これを評して「有部理解の日本的屈折である」(「三世実有法体恒有の呼称のおこり」(『印度学仏教学研究』22-1,1973,pp.345)と断じたのである。つまり、サンスクリット原典を参照しない日本の研究のあり方に、一石を投じたわけである。同じような事態が「仏教論理学」においても予想されるはずだ。いや、寧ろ、文献的情報量を考慮すれば、説一切有部以上のいびつさがあって当然であろう。中国や日本で行われた「仏教論理学」研究を検討することが、果たして、どれだけの意味を持つのか、正直いって、判然とはしない。無意味で、マニアックな考察と見られても仕方のない面は、否定出来ないだろう。私自身、不毛さを感じるが、以下に、この特殊なテーマを扱った著書があるので、その内容を、かいつまんで、紹介してみよう。あまり知られることのない知的営みの1つであることは確かである。しかし、そのような日の当らない分野を瞥見することも、決して、無駄ではないだろう。案外、そこからインスピレーションを得て、新たな研究につながることもあるのだ。

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