新インド仏教史ー自己流ー

その3
仏教学、空思想の権威(けんい)だった、梶山(かじやま)雄一(ゆういち)氏の説明を引用しておきましょう。
 空とは、あらゆるものが、不変にして恒常(こうじょう)な本性(ほんしょう)をもたない、ということである。・・・空の思想は必然的に不二(ふじ)の思想に導いてゆく。もしAなるものに実体がなく、Bなるものも実体がなければ、AとBとは、ともに実体の空なるものとして、区別されず、分かつことのできないものとなる。すなわち、不二であることになる。(梶山雄一『「さとり」と「廻向」大乗仏教の成立』昭和58年、pp.18-19、ルビほぼ私)
自分と他人が空の思想によれば、同じとなるのです。かなり、危うい考え方であるように思います。空は宗教的な場面では、常識を超えた優れた教えに見えます。しかし、いったん普段の生活の中で空と向き合うと、非常に奇妙な気がします。「即非の論理」も常識に捕らわれない面で評価すれば、意味があることになるのでしょうか。私は、梶山氏の説明にも、「即非の論理」の非常識な解釈にも疑問を持っています。
 ともあれ『金剛般若経』と禅との関りは、深いようです。禅宗の祖師の1人、六(ろく)祖(そ)恵(え)能(のう)(638-713)は、『金剛般若経』の一節を耳にして、出家を決意したと伝えられていることからも、強い関係が伺(うかが)えます。
 次に、『般若経』の影響下にある『維摩経(ゆいまきょう)』について見ていきましょう。以下のように、説明されています。
 『維摩経(ゆいまきょう)』は、『般若経』をうけて、より般若経的にその精神を強調したものである。しかも『般若経』のどちらかといえばドライな表現とはちがって、文学的に非常にすぐれた作品であり、全体が一つのドラマを読む感がある。古来(こらい)、その羅什(らじゅう)の訳は、中国の文人(ぶんじん)の間にも非常にもてはやされ、また敦煌(とんこう)や雲崗(うんこう)などの石窟(せっくつ)の画題(がだい)となって、この経典の情景が残っている。(長尾雅人『世界の名著2 大乗仏典』昭和42年、p.39、ルビほぼ私)
大変文学的な経典であったので、おおいに読まれたようです。文学への影響については、次のような解説があります。
 逆説(ぎゃくせつ)と遊戯(ゆうぎ)を好む知識人の文学といった面を持つ『維摩経』が、アジア諸国の知識人たちに愛好され、文学にも影響を与えたこと、それも遊戯的な面で影響を与えたことは不思議でない。・・・『維摩経』は機知(きち)に富んだ清談(せいだん)が流行していた魏(ぎ)晋(しん)頃の中国において、知識人の間で歓迎され、居士(こじ)の維摩は理想の人物とみなされたのである。実際、その当時、絵に描かれた維摩についても、南朝の貴族風な様子であったことが推定できる。(石井公成「漢訳仏典と文学」『シリーズ大乗仏教10 大乗仏教のアジア』2013年所収、pp.218-227、ルビ私)
『維摩経』の主人公、維摩は文人達の憧(あこが)れであったようです。経ではその姿はこう描写(びょうしゃ)されています。
 〔維摩は〕俗人(ぞくじん)の白衣(はくい)を身につけながら、沙門(しゃもん)の行いをまっとうし、在家(ざいけ)でありながら、欲界(よくかい)とも色界(しきかい)とも無色界(むしきかい)ともまじり合わないで(超越して)いる。子どもや妻や召使いたちをもっていても、つねに清らかに身を処(しょ)し、一族にとりかこまれてはいるが、閑寂(かんじゃく)の中に身をおく。・・・賭博(とばく)やさいころ遊びをしている家にもあらわれるが、それはいつも賭博やさいころ遊びにふける人々を導きという、効果的なふるまいになる。(長尾雅人『世界の名著2 大乗仏典』昭和42年、pp.97-98、ルビほぼ私、〔 〕私)
こういう説明もあります。
 空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。この立場を徹底(てってい)させると、ついに出家生活を否定して在家の世俗(せぞく)生活の中に仏教の理想を実現しようとする宗教運動が起こるに至った。その所産としての代表的経典が、『維摩(ゆいま)詰所(きつしょ)説経(せつきょう)』である。そこにおいては維摩(ゆいま)詰(きつ)という在家の資産者(居士(こじ))が主人公となっていて、出家者たる釈尊(しゃくそん)の高足(こうそく)の弟子たちの思想あるいは実践修行を完膚(かんぷ)なきまでに論難(ろんなん)追求(ついきゅう)してかれらを委(い)縮(しゅく)せしめ、その後に真実の真理を明かしてかれらを指導するという筋書(すじが)きになっている。その究極(きゅうきょく)の境地(きょうち)はことばでは表示できない「不二(ふに)の法門(ほうもん)」であり、維摩はそれを沈黙(ちんもく)によって表現したという。(中村元『人類の知的遺産13 ナーガールジュナ』昭和55年、p.44、ルビほぼ私)
維摩は聖俗両方の世界を自由に行き来し、最後には仏教にいざなう理想像なのです。
 さて、これまでは、『般若経』とその周辺に焦点を当てて、大乗経典を見てきました。他に、『華厳経(けごんきょう)』、『浄土(じょうど)経(きょう)』、『法華経(ほっけきょう)』等様々な経典があります。どれもが、日本に関りは深いのですが、『法華経』には触れておかねばならないでしょう。日本仏教の専門家、末木(すえき)文(ふみ)美士(ひこ)氏は、次のように指摘します。
 『法華経』ほど日本で広く読まれ信仰された経典は他にないであろう。(末木文美士『日本仏教史』平成4年、p.72)
概説書ではこう述べています。
 インド仏教の展開のなかで、『法華経』の一乗(いちじょう)思想(しそう)は多くの経典に継承され、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)の成仏(じょうぶつ)という教義は如来蔵(にょらいぞう)思想(しそう)の根拠ともなった。しかし、ナーガールジュナ以後の大乗仏教は、仏を中心とする信の仏教というよりも、菩薩(ぼさつ)道(どう)の体系化や空(くう)の教理的展開が主流となっている。『法華経』を諸経の王と認め、所依(しょえ)の聖典とする宗派が成立するのは、中国・日本においてである。(岡田行弘『大乗経典の世界』『新アジア仏教史03インドIII 仏典からみた仏教世界』所収、pp.207-208、ルビほぼ私)
『法華経』を拠り所とする宗派とは、天台宗(てんだいしゅう)です。日本天台宗の総本山(そうほんざん)は、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)
です。最澄(さいちょう)(766-822)が創建しました。一乗思想とは、悟りを得る手段(乗)は、通常、3つがあるとして、三乗思想と呼ばれていましたが、それは仮の教えで、唯一の手段があるだけであるとする思想です。それが『法華経』に説かれているというわけです。さらに重要なのは、「一切(いっさい)衆生(しゅじょう)の成仏(じょうぶつ)という教義は如来蔵(にょらいぞう)思想(しそう)の根拠ともなった」という指摘です。「すべての人間が仏になる」という教えですが、これを「本覚(ほんがく)思想(しそう)」と呼んでいます。「人は本来悟っている」という意味です。日本仏教の極致(きょくち)と言われています。「如来蔵思想」は、「本覚思想」の別名です。「人は如来=仏を蔵している」という意味です。日本仏教は、このような思想に貫かれていました。その広がりは、すべての文芸や芸道にも及びました。華道、
茶道もその思想の下で盛んになっていきました。「芸術を極めることは仏教を極めることと同じである」という思想が、中世日本では一般化したのです。その思想とは言うまでもなく、「本(ほん)覚(がく)思想(しそう)」です。この芸術=本覚思想を高らかに宣言した、ある歌人がいました。その理
論的提唱者は、藤原(ふじわら)定家(ていか)の父、藤原(ふじわら)俊(しゅん)成(ぜい)(1114-1204)です。それは1197年の『古来風躰抄(こらいふうたいしょう)』において表明されました。こうして、インド発の『法華経』という大乗経典が日本で花開いたのです。上の概説書ではそれとなく指摘するだけですが、中国・日本仏教とインド仏教は、同じ仏教とはいえ、随分異なる宗教だったと記憶しておいてもらえばよいと思います。始めの方で引用した、高崎直道氏は、論をこう締めくくっています。
 大乗経典の制作はなお後までありつづけたが、その数はといみに少なくなる。代って密教経典がその姿を現すようになる。それは六五〇年前後の『大日経(だいにちきょう)』成立をもって大乗顕教からの独立を達成し、さらに『金剛(こんごう)頂(ちょう)経(きょう)』によってその教理が確立したものと推定されている。高崎直道「大乗経典発達史」『講座・大乗仏教1 大乗仏教とは何か』昭和56年、所収、p.84、ルビ私)
最後に、大乗仏教の担い手、菩薩(ぼさつ)について触れておかねばなりません。こういう説明があります。
 「燃灯仏授記(ねんとうぶつじゅき)」物語はジャータカの一種でもあり、仏伝(ふつでん)文学(ぶんがく)の発端(ほったん)ともなった物語と考えられている。遠い過去(かこ)世(せ)において、ゴータマ・ブッダはメーガ(スメーダ、あるいはスマティ)と呼ばれる青年であった。彼はディーパンカラ(燃灯)仏を見て、五(ご)茎(けい)の花をささげ、髪(かみ)を泥土(でいど)の上に敷(し)いてその上を仏陀(ぶっだ)に歩ませ、自分も未来にかならず一切(いっさい)知(ち)を得て仏陀になろうという請願(せいがん)を起こした。これに対しディーパンカラ仏は、汝(なんじ)は未来においてシャーキャ・ムニと名づける仏陀となるであろう、という予言を与えた。この物語は前二世紀に発生したものであろうが、「ボーディサットヴァ」(ボサツ、菩薩)という言葉と思想の起源をなすものとして注目される。この物語で予言を得たメーガは、「ブッダたることに決定(けっじょう)した有情(うじょう)(意識ある生きもの)」となり、その後、一切知を得てブッダとなるための修行に励(はげ)む。おそらく、この物語を契機(けいき)として、「ブッダのさとりを求める有情」という「ボーディサットヴァ」という言葉と思想が生まれたのであろう。こうしてボサツ(ボーディサットヴァの略)という言葉は、この世において成道(じょうどう)する以前、無数の前世(ぜんせ)において修行していたときのゴータマ・ブッダの異名としてまず登場した。・・・現在にも十方(じゅっほう)に無量(むりょう)の仏陀がいる、ということになると、それらの仏陀たちも、修行中には菩薩であったにちがいない。・・・大乗仏教に入信(にゅうしん)したものはだれでも仏陀になろうとしているのだから、大乗教徒はみな菩薩と呼ばなければならない。こうして大乗仏教が始まるとともに、その修行者はみな菩薩といわれるものになる。(梶山雄一『「さとり」と「廻向」大乗仏教の成立』昭和58年、pp.135-136,ルビほぼ私)
別な説明にはこうあります。
 菩薩には、自己が仏陀となるうる素質(仏性(ぶっしょう))を備えているとの信念がなければならない。・・・小乗と異なる点は、小乗すなわち部派仏教は、阿羅漢(あらかん)(arhat)になることを目標として、教理を組織している。弟子が、仏陀と同じ悟りをうるということは、小乗仏教では考えない。当然のごとく、そこには自己に仏陀たりうる素質が備わっているという認識もない。成仏(じょうぶつ)できるのは、釈尊(しゃくそん)のごとく偉大な人のみであると考えていた。この自己認識の相違が、大乗仏教と部派仏教との根本的な違いである。(平川彰『インド仏教史』上、1974年、p.380、ルビほぼ私)
菩薩についても、大乗経典についてもまだまだ語るべきことはありますが、ほんのさわりだけ説明してみました。関心のある方は、引用した書物を各自読んで、知見を広げて下さい。


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