仏教余話

その31
もう1つだけ、仏教論理学、また、インド論理学の震源について、見解の相違について、簡単に紹介だけしておこう。まずは、仏教論理学のオーソリティーである、桂紹隆博士は、こう述べている。
 インド人の思考方法を考えるとき無視してはならないのは、彼らの発達させた論理学の伝統である。そこには神秘主義とは一線を画する合理的な思弁が見いだされる。本書は、インドにおいて、どのような論理的思考がいかにして発展していったを明らかにしようとするものである。著者は、インド人の思考法が観察から法則を導き出す帰納法にあり、そこにギリシャのアリストテレスが創造した演繹法的論理学との違いがあると考える。詳述することはできなかったが、インド人の帰納法的な思考の淵源は、インド文法学の伝統、さらにさかのぼって、ブッダの「縁起」の教えに在るのではないかと考えている。(桂紹隆『インド人の論理学』 問答法から帰納法へ まえがき、p.v)
桂博士は、インドの論理学の由来を、帰納法的な思考に見る。然るに、現代の学者の中には、これと真っ向から対立する見解を述べる人達もいるのである。インド思想の専門家、宮元啓一博士は、こう述べている。
  紀元前後には、〔インドでは〕厳密な、まごうことなき演繹論理学の体系が完成するにいたった。(宮元啓一『インド哲学七つの難問』2002,p.18、〔 〕内は私の補足)
また、それと呼応するように、石飛道子博士もこう明言する。
 ゴータマ・ブッダが、演繹的な論理体系を開発し、それを経典の中に示しながら、それを用いて自らの教説を展開していたことを証明した。(石飛道子『龍樹造「方便心論」の研究』、平成18年、はじめに、p.iv)
石飛博士の見解は、桂博士の真逆である。かたや、釈迦の縁起が基になって、帰納法的思考法が成立したとするし、かたや、同じ釈迦が、演繹的思考を作ったという。私に判断がつくものでもないので、この問題は保留とせざるを得ないのである。ただ、帰納と演繹は、どちらか一方と断定すること自体が、おかしなことだとは思うのである。


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