日本人の宗教観ーある観点ー

本覚思想の功罪
その1
日本では、寺と神社が同じ敷地内に置かれているケースを目にします。仏教と神道(しんとう)は、違う宗教なのに、何故だろうと疑問に感じた人もいることと思います。故司馬遼太郎は、ある対談でこう述べています。
 あの神仏混淆(こんこう)というのは、朝鮮人も中国人も笑いますね。あれだけはわからないという。だけど、ぼくはあれがいちばん自然じゃないかとつい思ってしまうくらい、われわれの生活に入っています。明治のときに神仏分離したやつはだれかと思って腹が立つくらいです。(司馬遼太郎・ドナルド・キーン『日本人と日本文化』昭和47年、p.162ルビ私)
このように指摘されていますが、実は、これを許容する根拠も本覚思想が与えたものなのです。本地(ほんち)垂迹説(すいじゃくせつ)と称する理論が広まるにつれ、神と仏は同一視されていきました。もともとは「インドの仏が、仮の姿をとって、日本の神として降臨(こうりん)した」という考え方に基づいているのです。これもすべてを仏の世界と見る本覚思想の応用に他なりません。いつものように、三崎氏の著書からの引用で始めましょう。
 鎌倉時代の本覚思想は、すべての現象の実情において真如(しんにょ)〔真理〕の開(かい)顕(けん)〔現す〕されていることを悟るべきだとして”事常住”〔事実ある現実世界が永遠の真理そのものである〕を説いた。「波立つ音、風吹く声」などの自然の風光そのままが仏のさとしであり、それを人は正しく悟って自分の道を開き進みうるというのである。こうした本覚思想は、…特に日本の神祇(じんぎ)を崇(すう)敬(けい)する場合の理論的根拠を説く文献に頻出(ひんしゅつ)している。日本人の神祇信仰は古来、生活風習の至るところに見られ、仏家(ぶっけ)も日本の風土の中で心願(しんがん)成就(じょうじゅ)の加護(かご)を神に祈った。しかし神の理論的根拠を説かねばならぬとなると、仏教的知識を借りた説明方法をするほかはなかった。なぜなら、日本人にとってすべての存在や行為の概念規定や理由・根拠などを精密に考える性能を養ってくれるような感化力は、仏教から強く与えられたものであり、神とは何か、なぜ神に祈るのか、というような設問そのものが仏教からの感化に属するからである。そして平安中期からしだいに本地垂迹論によって敬神(けいしん)と崇(す)仏(ぶつ)が習合され、やがて一元化されようとしたときに、この一元化を明快に解説するものとして本覚思想が利用されたのである。日本の仏教徒は、神信仰を捨てて仏教に回心するというのではなく、仏道を励むために神々の冥(めい)助(じょ)を祈るのであった。(三崎本、pp.513-514、〔 〕内、ルビは私、1部表現を易しくしている)
極端な言い方をすれば、仏教以前の神道は素朴な神信仰に止まり、何らの理論も持っていませんでした。理論的構築は、仏教という思想がもたらしたもので、神道はその理論を拝借(はいしゃく)して、共に生き残る道を模索(もさく)したのです。その時、出会ったのが本覚思想というわけです。
神道家の意見も紹介してみましょう。先だってサミットも開催された日本を代表する神社、伊勢(いせ)神宮(じんぐう)にまつわる話です。
 〔伊勢神宮の〕度会家(わたらいいえ)行(いき)の『類聚(るいじゅ)神祇(じんぎ)本源(ほんげん)』にも、「凡(およ)そ世界は本より本覚なり…」と記されて、神は仏であり法界(ほっかい)であり衆生(しゅじょう)であり法(ほう)爾(に)自然(じねん)であるという思想が見られ、〔また〕「神は則諸仏の魂、仏は則諸神の性質」という文句を挙げる…度会家行は〔密教を奉じる〕真言(しんごん)僧(そう)から教えられたようであるが、神仏関係を説いてその極地とも言われる思想が、このように本覚論から展開したのである。(三崎本、pp.526-527、〔 〕内私、ルビ私、1部表現をやさしくした)
やがて、神道側も、仏教に従うのに反発を覚え、神道がより根本的であると主張するようになりました。『徒然草(つれづれぐさ)』で知られる吉田(よしだ)兼好(けんこう)(1283-1352?)の親戚である、吉田兼倶(よしだかねとも)(1435-1511)は以下のように言っています。
 「仏教は万法(まんぽう)の花実(かじつ)たり。儒教は万法の枝葉(しよう)なり。神道は万法の根本たり。かの二教は皆神道の分化なり。枝葉・花実をもってその根源を顕(あら)はす。…」(三崎本、p.529、ルビ私、1部標記変更)
三崎氏は、こうした傾向を以下のようにまとめています。
 こうして本覚思想による神の説明はついに、”神本仏迹(しんぽんぶつじゃく)”に達したが、それは自然と人間とを肯定する事(じ)常住(じょうじゅう)の現実即応主義のゆえであった。そこに自然と人間の現実から正しい道理と清きおのずからな在り方とを求める近世儒学・国学の神道理論の礎地が築かれたのであるが、他方では、こうした本覚思想の動向は、仏教の日本的定着の最大理由を忘却していく過程をも示していないだろうか。(三崎本、pp.532-533、ルビ私)
多分、高校時代の日本史の授業で習ったと思いますが、明治には「廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)」という激しい仏教排斥運動が起こりました。もしも神道への本覚思想の影響の大きさを知っていれば、このような運動は起きなかったでしょう。今の我々が、本覚思想を忘れているのも当たり前で、
明治、いや江戸時代にも、忘れられた思想だったのです。

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