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曽祖父保次郎、42歳で日本に帰る(大正14年)

曽祖父保次郎のアメリカ生活はそれなりに豊かだったように思えますが、42歳の年に妻子を連れて日本へ帰りました。理由は、家が一度家事で焼けたことや曽祖母ヨキが病気を患ったことから、ヨキが「ホームシック」になったためだと生前の祖母から聞きました。

たった1人で船に乗ってアメリカへ嫁ぐほどタフだった曽祖母なので、よほどの心労があったのでしょう。曽祖父も帰国時にはそこそこお金を貯めていたようなので、日本に帰っても当面は暮らしていけると考えたのかもしれません。

そんなわけで、1925年(大正14年)3月17日にサンフランシスコ港を出て横浜港へ向かうシンヨウマルという船に乗って、保次郎一家は帰国しました。下の写真は、このときの船のチケットです(シンヨウマルというのは東洋汽船が運行していた船らしいですが、どういう漢字を書くのか分からなかったのでカタカナ表記にしています)。

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ただちょっと不思議なことがあって、私はこの時点で完全に引き上げて日本に帰ったと思っていたのですが、例のボストンバッグから出てきた書類の中に「Certificate for Aline Returning to United States」という証明書の写し(らしきもの)が残っていました。これによると、「一時的な海外訪問の目的は日本の義父を訪問することと旅行」であり「約12ヶ月以内にアメリカへ戻る」と書かれています。

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My temporary visit abroad is for the purpose of visiting father-in-law in Japan and travel.
and I intend to return to my permanent residence in the United States within about 12 months.

の部分がそれです。father-in-law(義父)とはヨキの父親のこと。この書類は、おそらく日本へ行く際に保次郎がアメリカに提出したのだと思います(保次郎の写真が貼られていないので、これは本人控え用のコピーと思われる。原本は今もアメリカのどこかにあるのかも……)。

ということは、もしかすると当初は完全帰国ではなく、ヨキのためのちょっとした里帰りのつもりだったのかもしれません。しかし結局日本に留まることになり、そのまま再渡米することはなかったのではないか?

最終的に新潟県と福島県の県境あたりにある山奥の村に落ち着いた保次郎一家の生活は、この後かなり苦しいものだったと祖母や伯母(保次郎の孫)などから聞いているので、このときは一時帰国のつもりで、生活の算段をあまりせずに帰ったと考えると、辻褄が合います。

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