今日のおやすみミュージック(2023年11月4日)

The Beach Boys "Forever"
(ブライアン・ウィルソンのドキュメンタリーを観た。この曲はデニスのほう。)

こう、純粋なまでに聴く人をハッピーな気持ちにする音楽というものは、本当に偉大だと改めて思う。その辺って結局、メソッドうんぬんの問題じゃなく、ひとりの人間の感性から生み出されるものなのではないか、という気がしている。

トリュフォー監督が、ヒッチコック監督に向けて「後進たちは、あなたが作るスペクタクルは模倣できても、あの繊細な不安や恐怖は真似できないだろう」と語っていたようなことだ。その繊細な不安や恐怖、つまり感性こそがヒッチコック・タッチの生まれる所以であって、それはまさしくヒッチコックという個人をヒッチコックたらしめているものであるわけで、模倣など不可能というわけだ。というか仮に上手く真似たところで、それは応用の効くやり方ではないし、観客に対しても本物と似非、つまりカニとカニカマを同じ値段で並べるようなもので、誰だってカニを選ぶだろう。ひと言で書けば、時間の無駄なのだ。

技術は良いものだし、あって困るものではないと思う。だが技術は時に、センスを誤魔化すために用いられたりもする。技術は道具なのだ。問題はセンスの方、想像力の方だ。それが欠けると、ぽっかり穴が空いたような空虚な作品になる。

創作とは、自分のセンス、想像力と正面から向き合う作業である。ある意味、感覚をシャットアウトするべき場面もあるかもしれない。目を閉じた時に何が見えてくるか、耳を塞いだ時に何が聴こえてくるか。とはいえ、目を耳を開いた途端、そこに濁流のように流れ込んでくる「外部」の存在もまた、ひとつの重要な要素であることも無論、疑いようがない。

己のセンスや想像力と向き合って、それが大したものでなかったらどうしよう。カニでなく、小エビ程度のものだったらどうすればいい。とはいえ、小エビで何が悪い。カニは小エビよりも偉い、なんて誰が決めたのか。大したものでない、なんて私はいつから考えるようになったのか。そこに根拠はあるのか、ないのか。本当にそれは「大したことない」のか。いっそ、そういう視点でいろいろ考えるのも、面白いかもしれないのである。

今日も今日とて、この後は映画。たぶん『ゆれる』を観る。ちなみに昨日は久しぶりに『模倣犯』を観た。けっこう面白かった。あれは元祖『ハウス・ジャック・ビルト』ですね。森田監督はピースを、エンタメ作家の自分自身と半ば重ね合わせて描いていた(と、私は受け取った)が、宮部さんはどう描いたのだろう。近いうちに原作も読まなくてはならない。それを読めば、宮部さんが直々に森田監督を指名した理由もわかる、ような予感がしている。そして明日は『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を観に行く。久々のひとり映画である。

ちなみにこの曲は、いちばん最後の「So, I'm going away…」のところが好きだ。

それでは、おやすみなさい。
11月4日

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?