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ノイズ、が人を変えてゆく

学生時代は芸術系の専攻だった。

もちろん座学の講義もあったが、学校での大半の時間は、それぞれの自主制作に充てられる。好奇心だけだった「観客」の立場から、作品を「つくる」立場へ、テーマとかコンセプトとか考えながら、アイデアが出てくるのを待ちながら、講評会でのダメ出しを憂いながら、おのずと自分自身の過去とか未来に思いを馳せた。

その経験を通して分かったのは「自分はこう思っている、こう考えている、こう感じている」といった事柄というのは、予想以上に目まぐるしく変化していく、ということだ。それに合わせて、つくりたい作品、つくるべき作品、つくれる作品も勿論、変わってゆく。
映画好きである私自身の例で言えば、ある一本の映画を観るか観ないかで、次の日からの物の見え方とか感じ方がずいぶん変わってしまうことがある。まあ、そういうこともある程度は予感しながらDVDとか借りるわけだが。

だったら例えば、誰かと会うこと、とかはどうか。友達とか恋人が何気なく言ったことから、ばちんと何かが繋がったり、思いがけない落胆にとらわれる。出かけなくても、意外な人から突然の連絡が届くこともある。
それが「久しぶりー今度ご飯行こうよ」みたいな何気ない内容であっても、いやむしろそういう時ほど、私は「なにかが起こった」と感じる。友達や恋人が何気なく口にした一言、それは私と会うまでの時間の中から生まれたものだ。そしてそこには、頭では考えつかないくらいの巨大なものが関わっている。
その巨大なものは、私にその日、その映画を観せる。つまり、レンタル店にそのDVDを残しておいてくれたり、その日映画を観れる二時間を私に与えてくれたりする。私をその映画へと、更にはその映画の作り手たちをその映画へと、もっと言えば人類史を「映画」という文化へと、導いたりする。

現実は、1と1を足して2になった、みたいなふうには出来ていない。宇宙空間の引力と斥力みたいな、複雑で不可解な手繰り合いによって回っている。そう思うので『ノイズが人を変えてゆく』という歌詞には、とてもとても共感した。そしてこの共感自体もまた、長い時間で途方もなく積み重なった「ノイズ」に、またしても新たな「ノイズ」が放たれた、その結果だ。無限の可能性の中に、ただ一本の糸のように紡がれた、今この現実。その不可解さ。その素晴らしさ。

小沢健二は『柔らかさは 優しさはつづく 本当の傷をつける』と歌っている。傷つけるもの、としてよく思いつくのは「硬いもの」とか「断絶」とかだが、それとは異なるもの、受け入れたり分かり合ったりといったことが、誰かの人生を変えてしまうような「影響」を与え、響き合いながら、長く「跡」を残す「本当の傷」をもたらす、というふうに、個人的には読んだ。そういえば、過去の曲にも『本当の扉を開けよう』という歌詞があったはず。

最後に。この曲の音で個人的に一番好きなのは『でもすぐ暴風雨みたいにアナーキックな気持ちになる』のあとの、かき鳴らされるギターの音だ。


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