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○○の親

よくSNSなどで「私は『不登校の親』です」という自己紹介を見かけます。
「不登校の親です」
「不登校の親になりました」
「不登校の親を脱出したい」などなど。

たしかに、それはそうなんだろうと思います。
事実、子どもが不登校であれば、親は「不登校の親」ですしね。

「不登校の親」は、
子どもが学校へ戻れば「不登校の親」ではなくなって、
だけどその後、
また不登校になったら、また「不登校の親」になるのでしょうか。

たしかに、それはそうなんだろうと思いますけど、
ちょっと肩書きがコロコロと忙しいですね。

仮に、
子どもが「無理をして学校へ行って、つらい思いをしている」場合だと、
親は「不登校の親」ではない、ということですよね。

けど、つらい思いをしているならば
それに合った対応を子どもにはしてあげたいところ。
その対応は「不登校の親」に近いか同等のものになるはずです。

けど、「不登校の親」を脱出したいという気持ちが強すぎると
子どもが無理をして学校へ行って、つらい思いをしていても
そのサインを見落としかねません。
だって親は「不登校の親」から脱出してホッとしているかもしれませんし。

そもそも、
不登校であっても、そうではなくても、
子どもに対する親の愛情は変わらないはずです。

不登校だから愛せない、
そんなわけないですよね。

子どもが不登校になり、
悩んで、悩んで、迷って、焦って
どうしたらいいのかわからなくなって
本当はあるはずの愛情が見えなくなっているだけの親は多いはずです。

不登校であっても、そうではなくても
子どもに対する親の愛情は変わらないはずです。

むしろ子どもを心配するからこそ、
愛情は深くなっていることもあるでしょう。
けど、見えづらくなっているのかもしれません。

そして、自分を責めてしまったりするのかもしれません。
「私は不登校生の親になってしまった、ダメな親だ」などと。
本当は深い愛情があるはずなのに。

「不登校」とは、現象です。
親子関係が変わるわけではありません。

不登校だからダメ、学校へ戻ったからOK、
ということもありません。
ただの現象ですから。

「不登校」でも、子どもへの愛情は変わらない。
「不登校」でも、私の子どもであることは変わらない。

「不登校の親」である方々へは
その愛情を再確認して欲しいとともに、
その愛情こそ、子どもへ確実に伝えたいことでもあります。

「不登校でも、私の子だ」

つらい子どもの立場から言い換えると
「不登校でも、この家の子でいていいんだ、この親の子でいいんだ」です。

なによりも子どもに必要な“安心安全”の感覚です。

それを伝えるために
「不登校の親」という“肩書き”は、時おりジャマになる気がします。

「不登校の親」よりも
「我が子の親」であることを、その愛情と共に再確認してみて下さい。



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