神社の目的
「神社とは」と検索すると、神道の説明が出てきたり、神社の建物について解説しているものがヒットしたり、お寺との違いが出てきたりと検索結果は実に様々です。
そのなかでも最もシンプルな「神社とは」の解は
「神道の神々を祀る宗教施設」
が一番しっくりきました。
なにしろ「神」の「社(やしろ)」ですからね。
では、どうして神社が存在するのか。
昔からあるから?
神様がいたから?
だれかが建てたから?
私の答えはただひとつ。
必要だったから。
だったんじゃないでしょうか。
人はなぜお家を建てるのでしょうか。
なぜビルを建てるのでしょう。
それは必要だから建てるのだと思います。
神社も必要だったから建てたのです。
さて。
現在宗教法人を有する神社は現在8万5千社、登録されていない神社をふくめると10万社以上が全国に鎮座しているそうです。
学校やコンビニの数が約5万くらいあることを考えると、神社の数ってめっちゃ多いですね。
では今の世の中、学校やコンビニと同じくらい神社が必要とされているか。
神職である私が言うのもなんですが…
学校やコンビニと同じくらい必要とは思われていない、のではないでしょうか。私が言うのもなんですが…
学校やコンビニに行く頻度と神社に行く人数や頻度を比較すれば一目瞭然です。
学校やコンビニを近くに建ててほしい人はたくさんいても、神社を建ててほしいと思っている人はごくわずかででしょう。
ですが、このような時代でも10万社近くの神社が日本に存在しているのは事実です。
ということは昔の人々が、神社を必要としたからこれほどまでにたくさんの神社を建てたのです。
では一体なぜこれほどの神社が必要だったのか。
宗教はもともと人間にはどうにもならないことが起きたとき、それを説明するために、生まれたものとされています。
地震や風水害、津波、日照り、水不足…
これらは今でも人間のチカラではどうにもなりません。
予測や防災は出来ても発生自体をなくすことはできません。
そこで昔の人間は、これらの原因は「神」によるものだと信じるようになります。
その神さまに対して、自然の災害が起こらないよう、また、なるべく例年同様の自然の恵みをもたらしてもらえるよう、お供えものをしたり、お祈りをしたり、時には神さまを楽しませるために踊りや音楽を奏でたり、いろいろ試行錯誤をして神さまのご機嫌を取ってきました。
これらのことがやがて儀礼や神事となって継承され、今の祭事に至っています。
しかし、17世紀ごろより科学が進歩し、少しずつ自然災害の原因が判明してきました。
例えば地震。
地震はナマズが起こしているからタケミカヅチの神さまがナマズの頭を押さえてたんじゃなくて、プレートの摩擦で起きていたのか!
と判明し、多くの人々の考えが変わっていきます。
そうなってくると、多くの人々は自然災害の原因は神さまではないことがわかってきたので、宗教よりも科学を信じるようになります。
そうなると必要なものは時代とともに変化していきます。
神社よりも、科学を研究する施設や学校などのほうが必要だと感じるようになっていきます。
よって、新しい神社をどんどん作っていこう、という現象はおのずと衰退していきます。
では神社にとって科学は相容れないものなのか。
科学は人類の英知の結晶であり、いくつもの困難と犠牲の上に今があります。人類がこれからも発展していくためには絶対に必要なものです。
また、神社関係者も今の世を生きる人間ですので、その科学の恩恵を多分に受けています。我々に限らずほとんどの人間は科学なしでは生きられないでしょう。
よって科学は必要。
ここまでくると神社、はたまた宗教は今の世の中にもう必要ないんじゃないか?となってきます。かく言う私もそう思っていた時期もありました(笑)
でも、必要のないものならとっくに廃れてなくなっているはずです。
少なくとも20世紀までには、簡単な科学の仕組みは多くの人々に浸透していました。
実際、明治時代には20万社近くの神社があったと言われていますので、現在は半分以上に減少していますから、神社の必要性は薄れてきた=不要だと思われてきたことは事実です。
ですが、AIや自動運転の普及、5Gのサービス開始など通信技術の発達、はやぶさ2の小惑星からサンプル採取など宇宙開発など、輝かしい人類の進歩の結果である現在と、自然災害を神のなす業と考えていた時代とはまったく違う世の中になっています。
それほど異なる時代でもなお、神社は確かに現存しています。
それはなぜなのか。
それは神社が必要だからです。
我々神職が必要だと思っているだけでは神社の存続はとても難しいと思います。なんせ神職は全国に2万人ほどしかいません。2万人のニーズはあまりにも小さい。
と、言うことは、多くの日本人、現在は外国人も神社が必要だと思っているからではないでしょうか。
ではなぜこのような時代に神社がなぜ必要なのか。
それはどれだけ科学が進歩した今の世の中でも、人類にはわからないことがあるからです。いや、むしろわからないことだらけです。
科学の進歩にたくさんのものが「どうあるか」は判明しましたが、「どうあるべきか」はだれにも分かりません。
人体の仕組みは日々解明されていますが、どういった目的で人体がこういう構造なのかはだれにもわかりません。
生命の進歩の過程でそれぞれの生き物が現在の構造になったのですが、それはいったいなぜなのか。なんの目的があるのか。
自然災害のメカニズムは分かりましたが、どのような目的で発生するのかはわかりません。
太陽は核融合反応で光や熱を発していることは分かったが、太陽の目的は何なのか。
ハッブルにより地球から遠い銀河ほど早い速度で地球から離れていることが分かりビッグバン理論に辿りついたが、そもそもビッグバンの目的は何のか。
なんで空気があるのか、なんで水があるのか、なんで人間が誕生したのか。
仕組みはわかってきたが目的が分からない。
究極的には人生の目的、人が生きる意味など、だれにもわからないのです。
そこで哲学が登場します。
哲学は「幸せになるため」こそが人類の究極目的なんじゃないか?と問います。
しかし、その「幸せ」も一体何なのかわかりません。
人によって「幸せ」であることが、別の人は「不幸」であることもあります。
戦後生活が貧しかった時代よりはるかに豊かになったはずなのに、なぜか不幸と感じてしまう。
頑張って所得を増やしたのに、出費も増えて一向に余裕を感じられない。
たくさん友達が出来たのに、今度はその友達といるとなぜ息苦しい。
念願の恋人が出来たけど、別れが来るかもしれない気持ちで不安でいっぱいになり幸せだとは思えない。
このように「幸せ」という概念が主観すぎて「幸せ」とはいったい何なのかは誰にもわからないのです。
この世界、実にわからないことだらけ。
しかし、なぜかは分からないけど、うれしいと思うことや、悲しいと思うこと、楽しいことや辛いことがあるのは紛れもない事実です。
答えはないけど、つまるところ、人生ってこういったイベントの集合体なんだろうな、と思うようにしています。
そして死の間際に「まったくいい人生だった」と言いながら人生を閉じることが現時点での最適解なのではないかと私は考えています。
さて、ここでようやく今回のお題に戻るわけですが(笑)
神社、というか宗教の究極目的はつまるところ「幸せの追求」をする場所だと思っています。
「人生儀礼」という言葉があります。
人生の節目節目に、神様にこれまでの無事を感謝し、家族で祝う儀礼のことです。
母親に命を宿したときに行う「安産祈願」
誕生した後に氏神様にご挨拶する「お宮参り」
子供の成長を願う「七五三参り」
元服などが由来になっている成人を祝う「成人式」
その他、結婚式・長寿の祝いなどたくさんの人生儀礼があります。
これらの儀礼は決して形式的に淡々と行うものではなく、子の幸せを願い、自分や人の幸福を追求する極めて原理的な行事であり、その時その時の最適解として先人たちが残してくれたものです。
そしてこういった古い儀礼が、これだけ科学が進歩した世の中であるにもかかわらず継承されている、ということは、これらの儀礼の目的が幸せを追求する手段のひとつであると、多くの日本人が意図せずとも本能でそう感じているとしか考えられません。
でなければ神社も儀礼もとっくに廃れてなくなっているはずです。
よって、神社の目的は
人を幸せにするためにある
なのではないでしょうか。
そしてもう一つ。
私は日々撮った写真をGoogleフォトで見返しています。
ただ、あまりにも便利なためたくさんの写真がたまってしまいます。
それはいいのですが、特定の写真を探したりするのがとても大変です。
そこで検索機能を使って探したりするのですが、先日ふと、検索欄に「幸せ」と打ち込んでみました。
すると…
「幸せ」と打ち込んでヒットした写真の全ては家族や友達と笑っている写真ばかりでした。
もしかしたら、Googleは「幸せ」とは何なのかをもう知っているのかもしれません。
科学ってすごい(笑)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?