Why Do Lovers Break Each Other's Hearts?――『ブルックリンでオペラを』と『アバウト・ライフ 幸せの選択肢』

※初出/『週刊文春CINEMA!』(2024春号 3/6発売)  

 今回はコメディーをとりあげたいと希望し、担当編集者氏に近日公開作のなかからいくつか見つくろっていただいたところ、『ブルックリンでオペラを』と『アバウト・ライフ 幸せの選択肢』の二本が気になりオンライン試写で鑑賞してみた。
 興味ぶかいことに、各々おおきく異なるイメージ(たとえば配役の趣向や人物造形などに両者の相違点がはっきりと見てとれる)で構成されているにもかかわらず、メインプロットはどちらもおなじ物語(中年男女のもつれた関係性の行方とその子どもたちの婚姻成否をめぐるどたばたサスペンス)へとおさまってゆくのだが、それは連載初回で指摘したとおりさして驚くべき偶然ではない。かぎりあるパターンの組みかえをくりかえしつつ、尺の決まった話を一定の条件下で長らく量産しつづければ、筋だてはいつしか類型化せざるをえず、同一ジャンルの作品どうしであればなおのこと似かよったプロットになるのを避けられないからだ。
 そういう意味では(むろんヒット作の内容にねらって寄せる場合も多々ある)映画において、別作品どうしの物語がたまたま同期同調してしまう現象じたい今にはじまったことではないわけで、巨匠監督(たとえば小津、アルトマン、ゴダール等々)が後期の仕事で(それぞれの意図の濃淡はともかく)ほとんど自作リメークに近いセルフパロディーの試みへと向かいがちになる傾向もふくめ、映画史とはなにかと問われれば同一シチュエーションの語りなおしの歴史とする回答もなりたつだろう。あるいは一〇〇年超ものあいだ産業の中心をになってきたハリウッドは、慢性的なネタ不足という持病を克服するべく時代状況に応じてひたすら物語をアレンジし、バリエーションの工夫につぐ工夫(ないしは世界中からの輸血的な新鋭招集)でこれまでなんとか息をつないできたのだとも言える。
 ならば驚くほどのことでもないのになぜ、『ブルックリンでオペラを』と『アバウト・ライフ 幸せの選択肢』のストーリー上の類似性にわざわざ言及したのか。それはジャンルの問題を再考したり、そもそもわれわれは映画になにを見ているのか ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ という根本部分にあらためて意識を向けるきっかけをえたように見えたからだ。
 ちなみにジャンルの問題といえば、周知のとおりコメディーという領域それじたいも細分化されていくつかのサブジャンルが生まれている。『ブルックリンでオペラを』と『アバウト・ライフ 幸せの選択肢』に関しては、どちらもロマンチック・コメディーとして公式に宣伝されており、筆者の主観でもそのとおりの印象に映った。
 ロマンチック・コメディーというのは単に甘美なムードの喜劇を言いあらわす漠然たる名称ではなく、案外と厳密な映画の区分だったりするから注意が必要だ。つまりそこには特定の規則が存在し、長期にわたり業界ぜんたいで受けつがれてきたという歴史的事実もある。したがって『ブルックリンでオペラを』と『アバウト・ライフ 幸せの選択肢』は、どちらもそうした規則性をとりいれてつくられた作品と言いかえることもできる。ロマンチック・コメディーの定義や具体的な規則の中身については映画史研究者による詳細な分析が複数あるはずなのでそちらを参照してほしいが、ここであえて乱暴にひと言でまとめるなら、結婚を前提とした可能世界のスワッピング劇ということになる。
 Wikipediaにも書かれているとおり、その原型をかたちづくったのはかのシェイクスピアにちがいない。すなわち『夏の夜の夢』等々でくりひろげられるような立場交代や相手交換スワッピングにもとづくいっときのおもしろおかしい混乱模様が、ロマンチック・コメディーの主たる特徴となっている――また言うまでもなくロマコメにおけるロマンチックという語彙はラブストーリーの意味あいで使用されているので必然的に恋仲にある者どうしのくっついたり離れたりのなりゆきに焦点がしぼられ、当の顛末がメインプロットをかたちづくることになる。そんななか、主人公夫婦や婚約者たちは従来の関係に疑問を持ったり新しい刺激的な出会いにおよぶなどしてなんらかのスワッピング ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ 状況を経験し、最終的に元鞘にもどることもあれば、ハプニング的にむすばれたふたりのほうこそが真実の愛 ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ だと悟り仲を深める場合も間々あり、どうなるにしても閉幕時には混乱の収束が約束されている次第である。
 ならばなぜ、ロマンチック・コメディーにおいては疑似的であれ実践的であれスワッピングのシチュエーションが採用されるのだろうか。結論から言えば、結婚という制度を再検証するためだと考えられるのだが――とはいえ今回のこれは、ロマコメ作品の帯びうる政治性や社会学的主張の解釈を披露する趣旨の時評ではないことを付記しておこう。
 先述のとおり、ロマンチック・コメディーにはジャンルとしての規則があるし映画制作じたいも一定の条件にしばられている。その最たるひとつは尺だ。長尺作品は内容上の要請など製作・配給・興行関係者の納得できるそうおうの根拠をそなえているわけであり、通例はだいたい二時間くらいの長さにまとめておかねば劇場公開への道が遠のいてしまう。
 ラブストーリーというのは原則的にわかれるかくっつくかしか展開はありえない。そしてハッピーエンディングにいたる場合、適切に話を終わらせるにはいちばんわかりやすくドラマチックで見栄えもよく客受けも悪くない結婚 ﹅ ﹅ がベストの選択ということになる。
 が、結婚がどういうものかだれもが知っているとしても個別の内実を描かねば独自の物語が成立しえない。とすると、成婚にいたる過程ふくめ二時間くらいの尺内でおもしろおかしいドラマに仕あげるには、ひと組のカップルだけでは当然ながらバリエーションの幅がせまく工夫の限界も早いので現代映画にとってはものたりないとなる。ゆえに並行して複数カップルの諸事情へ焦点をあててゆき、ときに相手や立場を入れかえるなどして各自の問題を相対化するドラマを展開させ、対比的かつ多面的に関係性を描けば結婚とはいかなるものかがより明確化し、効率的な物語を組みたてられるようになるわけだ。
 かくしてスワッピングが採用され、さまざまな混乱模様シミュレーションを通じて結婚という制度が再検証されることになる。その混乱模様シミュレーションは結婚生活のバリエーションとして若いカップルにとっての判断材料として機能し、問題点ばかりが目だつようなら迷いを強め婚姻成否のサスペンスを盛りあげるだろう。また時代状況に応じメインに位置づけられるカップルのかたちも同郷婚から国際結婚、異人種婚、同性婚、等々と少数者へ焦点が移りかわり、混乱模様シミュレーションにもいろいろな変化が加えられジャンルの延命措置がはかられてもいる。
 ロマンチック・コメディーの基本はこんな感じであり、ここまで型がかたまっているのだからプロットが似ないことのほうがむしろめずらしいくらいではないか、とも思える。客の側も、なにがどうなるかほぼ予測できるほどにジャンルの規則が共有されていると言えるかもしれないが――ならばなぜ、そんなわかりきった映画をわれわれはなおも観つづけてしまうのだろうか。
 むろんそれは、物語展開の規則性など映画を構成する一部分にすぎないからだ。たとえば筆者が『ブルックリンでオペラを』に惹かれた最大の理由はピーター・ディンクレイジの主演作だったからだ。ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』をこよなく愛するわたくしとしては、現代劇を演ずるディンクレイジの姿に触れる機会をえたかった。『アバウト・ライフ 幸せの選択肢』は筆者にとってひさしぶりのダイアン・キートン主演作だったが、リチャード・ギアがいつもと変わらずリチャード・ギアであることを確認できるという醍醐味も大いに味わえた。結局のところわれわれは映画をそんなふうにも観ているはずであり、そういう文脈や身体性は、AIにはどうがんばっても創造できない部分だろうと見とおしている次第だ。

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