アルフレッド・ヒッチコック試論

※初出/『文學界』(2021年9月号)

  イントロダクション

 この映画評論を筆者が書いたのはデビュー以前、およそ二八年前のことである。執筆時期や期間の詳細についてはもはやうろおぼえだが、テキストデータの末尾に「1993/1/13脱稿」と明記されていることは判断の頼りになる。
 おそらくは、一九九二年一一月ないしは一二月から当の脱稿日までのあいだの日々に書きすすめたのではないかと思われる。ちなみに小説デビュー作『アメリカの夜』に着手したのはそれから半年ほどのちの、一九九三年六月だったか七月だったかの頃であり、書きあげたのは同年九月末か(群像新人文学賞応募〆切月にあたる)一〇月初旬と記憶している。
 この未発表原稿が本誌に載せてもらえることになったのは、二〇一九年八月から二〇二〇年一二月に毎日新聞で連載され、本年六月に単行本化された長篇小説『ブラック・チェンバー・ミュージック』の内容が関係している。正体不明の書き手による謎の映画評論として本論は同作中に登場し、いくつかの箇所が引用されてもいる。筆者は当初、小説刊行を機に文書全文をウェブ上で公開するつもりだったが、先に誌上で発表してはどうかと本誌編集長よりありがたいお誘いをいただき、掲載が決まったという次第だ。ウェブ上での全文公開をやめたわけではないので後日、筆者のnoteアカウントに転載する予定でもあることを言いそえておく。
 できるかぎり原文のままで発表する意向だったが、なにしろ右も左もわからぬ素人たる二四歳のフリーターがただ初期衝動にうながされて綴った文章ゆえ、読みかえしてみると文意のとらえにくい構文や適当でない語彙が散見されたため、ぜんたいに修正をほどこした。できるかぎり原文のままで、という意向も捨てられぬなか、終盤部分などやや多めに加筆した箇所もあり、結果的には文章上ひどくむらのある読み物になってしまったかもしれない。議論内容や構成にはいっさい変更はない。

 『下宿人』〔26〕は、アルフレッド・ヒッチコックにとって監督第三作にあたり、「最初の真のヒッチコック映画」と見なされ、本人自身そう認めている。
「この映画でわたしが試みたことはほんとうに自分のなかから衝動的に湧き出てきたアイデアや感覚だった。わたし自身の表現スタイルを初めて思いのままに駆使した。その意味でこの映画をわたしは真の処女作とみなすことはできる」(『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』より)。
 「衝動的に湧き出てきたアイデアや感覚」と語られた中で、ヒッチコックが遺作に到るまでドラマの構成に取り入れ続けた要素と思われるもののひとつに、装置としての階段がある。
 『下宿人』には、アイヴァー・ノヴェロ演ずる主人公が下宿屋の二階の部屋へ案内されるや、金髪の美女が描かれたいくつかの絵画を見つけて動揺する場面がある。また、金髪女性の連続絞殺事件を捜査している刑事が、恋人を主人公に奪われた事実を思い知るのもその二階の部屋だ。さらに同じ部屋で、主人公の持ち物であり犯罪の証拠になるかもしれぬ拳銃や地図や新聞の切り抜きなどを刑事は発見することになる。そしてそこは、主人公が恋に落ちる場所でもあり、間違えられて《﹅﹅﹅﹅﹅﹅》連続殺人の罪をきせられる現場でもある。
 ここで要約した『下宿人』のドラマ展開において注目すべきは、登場人物が階段をのぼることによって直面するおそるべき事態であり、二階の部屋において起こったいくつかの例外的な出来事である。それらを整理してみると、「喪失」「発見」「変化」というみっつのキーワードで言いあらわすことができる。
 すなわちヒッチコック作品において、謎は二階にあり、階段はサスペンスを生む。ヒッチコック・タッチと呼ばれるスタイルの、最大の特徴のひとつがこれである。
 ヒッチコック作品のたいはんにおいて、階段はサスペンスの契機となる重要な装置として機能している。屋内外を問わず、ありふれた姿でヒッチコックの諸画面におさまる階段は、その昇降通路としての本分を決して逸脱することなく、いくつかの特異な効果を発揮してドラマの展開を活気づけていることが具体的に確認できるのである。それはイギリス時代の初期監督作から遺作となった『ファミリー・プロット』〔76〕にいたるまで一貫している。
 もっとも、ヒッチコックがスリラー、もしくはサスペンス映画を積極的に撮り続けたからといって、映画の中で階段じたいが人を襲ったりはしない。たしかに、ヒッチコック映画で描かれる階段では、登場人物が転げ落ちたり(『知りすぎていた男』〔56〕のバーナード・マイルズ、『サイコ』〔60〕のマーティン・バルサム、『引き裂かれたカーテン』〔66〕のポール・ニューマンなど)、固定されてあるはずの段そのものが外れて危うく人を死へと導きかけたり(『疑惑の影』〔43〕)、衆人環視の場で暗殺まで起きたりしている(『海外特派員』〔40〕)。
 だが、それらは階段そのものが働きかけた結果の出来事ではない。『疑惑の影』で板段が外れてテレサ・ライトが地面へ転落しかけたことにしても、彼女に秘密を握られていたジョゼフ・コットンがあらかじめ階段に細工をしていたからであり、『知りすぎていた男』にせよ、『サイコ』にせよ、『引き裂かれたカーテン』にせよ、人為的に起きた事態なのだから、装置としての階段は本来あるべき様相を少しも変えてはいない。
 つまり、階段は何もしない。ただそこにあるだけだ。『めまい』〔58〕での、トラック・バックとズーム・アップを同時に行うことで得られた撮影効果により、階段が引き伸ばされたように見えるショットにせよ、『映画術』でヒッチコック自身も説明しているとおり、急激な「めまい」に襲われた高所恐怖症の男ジェームズ・スチュアートの「見た目」(主観描写)であり、階段が自ら歪みを生じさせたわけではない。
 では階段はどのように、サスペンスの契機として機能しているのか。階段を介していかなる事態が生じたのかを、これから検証してみよう。

 装置としての階段、と書いたが、『三十九夜』〔35〕では「39階段」という謎めいた言葉として、階段は物語のサスペンス化に貢献している。原題でもある謎の言葉「39階段」とは何を意味するのかを巡って物語は展開してゆくわけだが、それがスパイ組織の名であることを口走りそうになった「ミスター・メモリー」役のウィリー・ワトスンはどうなったか。彼はスパイ組織のボスに撃たれ、最後に軍の極秘情報を明かしたあとに死んでしまうだろう。
 では、装置としての階段じたいは、『三十九夜』においてどのような役割を果たしていただろうか。ヒッチコック作品において、登場人物たちが階段を降りる際、彼らは決まってある種の緊張状態に置かれている。『三十九夜』においてもそれは同様だ。
 たとえば物語の前半、ロバート・ドーナット演ずるリチャード・ハネイはスパイどうしの争いに巻きこまれ、敵役に見はられている共同住宅から逃げだそうとする。
 だが、二階の部屋から階段を降りて外へ出ようとするハネイは、最後の段へと足を運ぼうとしたとき、通りをうろつく敵のスパイをドアのガラス窓ごしに見つけたことにより、その場で動きをとめられてしまうのだ。
 つまりハネイは、一時的に逃げ道を失い、階段の途中にとどまらざるをえなくなったわけであり、ここで彼は、文字どおりの宙づり《サスペンス》状態に陥ってしまったと見ることができるのである。
 彼はその後、機転を利かせて脱出に成功するわけだが、そこで見逃せないのは、ハネイはすでに部屋の窓を介して張りこみ中の敵スパイの存在を確認しているにもかかわらず、建物の裏から逃げ出そうとはせず、あえて正面の出入口を通って外へ出ることを選び、階段を降りている点である。というよりもそれは、窮地からの脱出というひとつの試練として、階段を降りる行為を監督ヒッチコックがわざわざ主人公に選ばせているのだ。ハネイはいわば、階段を降りてしまったがために宙吊り=サスペンス状態に陥る羽目となったわけだ。
 『三十九夜』に限らず、ヒッチコックは多くの作品で、登場人物たちに階段を降りさせることにより画面に緊迫した雰囲気を漂わせる。とはいえそれは必ずしも、「嘘つきフラッシュ・バック」とヒッチコック自身が語った『舞台恐怖症』〔50〕の一場面にある、家政婦に死体を見つけられたためにリチャード・トッドが急いで二階から階段を駆け降りてゆく、といったような慌ただしい状況を指しているのではない。
 たとえば『汚名』〔46〕の有名な、終盤の場面で描かれた状況がその代表的な例といえる。毒を飲まされ体の弱ったイングリッド・バーグマンと彼女を抱きささえるケイリー・グラント、その二人に付き添い、ナチスの同志らに見つめられながら歩を進めるクロード・レインズとレオポルディン・コンスタンティンの四人が、ゆっくりと階段を降りてゆく緊張感に満ちた場面。緊迫した状況下での階段を降りる行為は、多くの場合、急がずゆっくりと演じられている。張りつめた空気が時間をかけて描かれることにより、宙吊りの感覚がひときわ強まるわけだ。
 そうした、何らかの緊張状態にある人物たちがゆっくりと階段を降りてゆく場面をヒッチコックは自作において何度も反復させている。初期の非サスペンス映画『農夫の妻』〔28〕にさえ同種の場面がある。
 たとえばハリウッドでの第一作『レベッカ』〔40〕。仮装舞踏会の衣装を身にまとったジョーン・フォンテーンは、それが夫の前夫人《レベッカ》が愛用したドレスとそっくりであることを知らずに階段をゆっくりと降り、まだ客のいない広間で二階へ背を向けて姉夫婦とおしゃべりをしている夫ローレンス・オリヴィエのもとへ近づいてゆく。夫に気に入られようと着飾った彼女は、階段を降りた直後、義姉の口から思わぬ名を聞くことになる。
 ヒッチコックはその後『断崖』〔41〕でも、厳格な家庭に育った娘が親に内緒で結婚を決意し身支度を整え、家を出るため二階から階段を降りてゆく場面を同じ俳優に演じさせている。また、『逃走迷路』〔42〕ではファシストたちの巣窟である屋敷から逃げ出そうとするロバート・カミングスとプリシラ・レインに、パーティが行われている一階へと階段を降りてゆかせる。
 さらに『疑惑の影』では、命を狙われたテレサ・ライトが、その犯人であるジョゼフ・コットンが起こした殺人事件の証拠となる指輪をはめて無言の抗議をするようにコットンや家族の視線を集めながら階段を降り、『白い恐怖』〔45〕では、精神に異常をきたしたグレゴリー・ペックが剃刀をもってミケル・チェーホフのいる一階へ向かい、『私は告白する』〔52〕では、裁判の結果が無罪となったものの当の判決に不服な民衆に罵声を浴びせられながら無実の神父モンゴメリー・クリフトが裁判所の階段を降りてゆき、『北北西に進路を取れ』〔59〕では、エヴァ・マリー・セイントを助けるために忍びこんでいたスパイの隠れ家から脱け出ようとしたケイリー・グラントが、階段を降りる途中で銃口を向けられて足どめされ、『サイコ』では、失踪した姉や消えた私立探偵の行方を探るためにモーテルを経営する青年の家へ忍びこんだヴェラ・マイルズが、死んだといわれている青年の母親の姿を追って地下室への階段を降りてゆき、『マーニー』〔64〕でも、会社の金庫から現金を奪った女泥棒ティッピ・ヘドレンが掃除婦に見つからぬように忍び足で階段を降りていった。
 こうした、階段を「降りる」場面の数々において最高度の緊張感をもたらすのが『汚名』のエンディングであると言える。そして『汚名』を反復しながらも、緊張感とは異質の不条理劇的なサスペンスの感覚で画面を満たすのが『鳥』〔63〕のラストシーンにほかならない。あまたの鳥による襲撃を受け、ついに家を明けわたしてその土地からの脱出を決めたロッド・テイラーの家族とティッピ・ヘドレンが、玄関先に停めた車に乗りこむべく屋外へ出てくる早朝の場面がそれである。
 開かれたドアの向こうでは、無数の鳥の群れが静かに世界をうめつくしている。二階の部屋で鳥に襲われて傷を負い、呆然自失の状態に陥ったヘドレン、彼女を抱きささえるテイラー、その母親ジェシカ・タンディの三人が、足もとでうろつく鳥たちに気づかれぬようにして、玄関口に設置されたちいさな階段をおそるおそる降りてゆく。
 その途中、ヘドレンが我にかえり、夥しい数の鳥を目の当たりにして叫び声をあげ、状況をより緊迫させる。三人のほか、テイラーの妹ヴェロニカ・カートライトが車に乗りこみ、皆が席におさまった車が出発したところで、映画は嘘のような静かさに包まれながら終わりを迎える。
 『汚名』での、毒を飲まされて弱りきったバーグマンの役が、鳥に襲われて呆然自失となったヘドレンの役に移しかえられ、ナチスのスパイの役割を鳥の群れが果たし、最後はどちらの作品も自動車が走り去って終わっている。『鳥』のラストは、物語内容のまったく異なる『汚名』のそれを反復しているわけだが、そこで描写された状況はほとんど荒唐無稽の域に達してしまっている。
 では、『暗殺者の家』〔34〕とそのリメイク『知りすぎていた男』の場合はどうか。これらの、同じ物語を扱う二作品における明確な演出上の差異は、たとえばラストのクライマックス的な場面に認められる。つまり暗殺の舞台となるアルバート・ホールの場面以後の展開だ。
 違いを要約するとまず、『暗殺者の家』のエドナ・ベストの射撃が、『知りすぎていた男』のドリス・デイの歌になる。さらに、旧作ではレスリー・バンクスが暗殺者グループの一人に階段の途中で足を撃たれるが、リメイクでは立場が逆転し、バンクスと同役を演ずるジェームズ・スチュアートが、銃で脅す暗殺者グループの首謀者を階段の途中から突き落とす。
 やはりどちらも階段を介した事態が描かれているが、旧作での派手な撃ち合いを排除し、リメイクでは階段の機能にすべてを集約させている点が興味ぶかい。階段で撃たれた男が、リメイクにおいて階段で復讐する。ここでもやはり、ヒッチコックは強く意図して、階段に重要な役割を担わせていたかのように見える。
 反復は、同時に更新としての意味をもち、複雑さから単純さへ、つまりわかりやすさへと移行している。ヒッチコックが何よりも「わかりやすさ」を重要視していたことを考えれば、それは当然の変更(リメイク)だったのだと理解できる。もっともその結果、役割の重要性が増したことで、階段という単なるひとつの装置にすぎぬものがますます奇怪に映ることになったわけだ。

 ヒッチコックの諸作における階段の降下場面が、ひじょうな緊迫状況を浮かびあがらせることになるのはこれまでに見てきたとおりだ。しかしだからといって、階段を降りる描写にヒッチコックが象徴的な意味をふくませていると結論づけたいわけではない。加えてまた、階段を降りる行為が「転落への誘惑」の主題につながるとするクロード・シャブロルの主張をこの場でくりかえすつもりもない。
 とはいえ、階段を降りる行為は浮きしずみの人生のひとコマたる「転落」を暗示していると理解することじたい断固まちがっていると断定したいわけでもない。そうではなく、ここで訴えておきたいのは、頻出する表現の隠喩的解釈にばかりかまけていては、ヒッチコックの階段に認められるきわめて具体的な別の側面、ある構造的な機能をとらえそこねかねないという危惧なのだ。
 ヒッチコック映画において階段の降下場面が高度な緊迫感を生むのはたしかだが、それが多くの作品で採用されているからといって降りる行為そのものが特別あつかいされているわけではない。事実、降りる描写の特権化はヒッチコック自身の手によって無効化されている。
 というのも、降下場面は結局のところ、階段を介した出来事を表現するうえでのひとつの様相にすぎないと断言できるからだ。なぜならヒッチコックは、階段を降りる過程よりもむしろのぼる行為の結果《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》を描きだすことのほうに強くこだわっていたと考えられるのだ。
 ヒッチコック映画において階段をのぼるという行為は何を意味するか。それを解きあかす前にあらためてことわっておくが、階段をのぼることじたいに何らかの象徴的な意味を見出そうというつもりはない。
 むろんそれは階段そのものについても同様である。たとえばドナルド・スポトーは、ヒッチコック映画の階段は「道徳的かつ神学的意味に満ちている。階段はなによりも曖昧さという主題にかなっている」と分析している。続いてさらに、「つまり昇り降り、なしとげるとし損じるあともどり、正義の力と悪の力、上向きと下向きなどが渾然としている」とスポトーは続けているのだが、果たしてそのようなものとしてヒッチコック映画の階段は示されていたであろうか。
 アルフレッド・ヒッチコックが階段という装置に少なからず執着していたことは間違いないが、それが「道徳的」であったり「神学的意味」を備えたものであったかどうかは疑わしい。というか、ヒッチコック映画の階段は、そのような言葉で容易に説明のつく装置なのだろうか。「曖昧さ」? しかしヒッチコック映画の階段が示す役割は、どの作品においても見事なまでに具体的であり、明快な規則性がある。
 ならばそれがどのような役割なのかを明確にせねばなるまい。登場人物たちが階段をのぼったとき、いったい何が起こるのかをこれから明らかにする。
 ヒッチコック映画において何者かが階段をのぼった際、ある三つの出来事がほぼ確実に起こる。その三つの出来事とは、本論冒頭で挙げたキーワード、すなわち「喪失」「発見」「変化」という言葉に要約できる。誰かが階段をのぼれば決まってこれらのうちいずれかの事態が発生するのだ。中でも「発見」の場合、ヒッチコック映画では階段に限らず、どこかを誰かがのぼることにより必ず何かが発見されると断言してもいいほどだ。
 「喪失」と記したが、たとえばそれは人の死を意味する。『海外特派員』の暗殺の場面では、老政治家アルバート・バッサーマンのニセモノが、オランダでの平和会議会場前で階段をのぼったときに殺されている。『殺人!』〔30〕においても、真犯人のエスメ・パーシーは階段というか空中ブランコへ通ずるハシゴをのぼって自ら転落死しており、『三十九夜』では、ロバート・ドーナットの住む共同住宅の一室に匿われた女スパイのルッチー・マンハイムが、ドーナットが寝ている間に敵のスパイにナイフで刺されてしまう。『逃走迷路』では、自由の女神像内の階段をロバート・カミングスが破壊工作員ノーマン・ロイドを追ってのぼってゆくが、その末にロイドは女神像の右手部分から転落死し、『めまい』のジェームズ・スチュアートは、キム・ノヴァクを追って教会の階段をのぼったために彼女を二度も失うことになる。
 これらの死は、いずれも誰かにとっての喪失を意味している。追う者は追われる者を失う。そこで失う相手は事件の犯人であったり恋人であったりと様々だが、いずれにせよ誰かが階段をのぼってしまうことにより、その先の死が用意される。
 『めまい』により、ヒッチコック映画の描く上昇運動後の喪失感はピークに達するが、前作『間違えられた男』〔57〕において、『めまい』のジェームズ・スチュアートが抱く喪失感は準備されていたといえる。つまり『間違えられた男』も『めまい』と同様、まさに階段をのぼることによって誰かを失う映画なのだ。
 実話の映画化であり、ヒッチコックの重要な主題のひとつがタイトルにもなっているこの『間違えられた男』でも、サスペンスを生む装置として階段が周到に扱われている。同作では、階段をのぼってしまったことで主人公の日常がそれまでと大きく一変してしまう。
 「間違えられた男」ヘンリー・フォンダは、自分の無実を立証するためアリバイの証人になるはずの男女のもとを妻ヴェラ・マイルズとともに訪ねる。それは事件の犯行時に同じホテルに宿泊していた人々だが、共同住宅の階段をのぼり、各部屋のドアをノックして知らされるのは、その証人たちがすでに死んでしまっているという事実ばかりだ。
 フォンダはそのまま不安な毎日をすごした後、いちおうは身の潔白が認められはする。だが、夫が事件の容疑者となって暮らした日々が抑圧となり精神に異常をきたしたマイルズは、病院から帰ることはない。「間違えられた男」は最終的に妻を失い映画は終わるのだ。
 紛れもなく、階段をのぼってしまったがためにフォンダは「喪失」を経験している。そもそもフォンダは、共同住宅の玄関口階段をのぼったところで強盗事件の容疑者だと見なされ、張りこみ中の刑事たちに連行されているわけだが、これじたいも社会的立場の「喪失」といえるだろう。また前述のとおり、アリバイの証人たちの死を知るのも階段をのぼった直後であり、強盗に「間違えられた」容疑は最後に無実が証明されるとはいえ、それまでの過程でフォンダはあまりに多くのものを失ってしまっている。
 ちなみに、ここで重要視すべきは、階段をのぼるフォンダの行為が数々の「喪失」を彼自身に経験させることになるという顚末だけではない。階段をのぼった瞬間、フォンダは強盗事件の容疑者になってしまった《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》というなりゆきにも同時に注目しなければならないのだが、それについてはのちに詳述する。

 文字どおり、鍵が事件を解決へと到らしめるカギとなっている『ダイヤルMを廻せ!』〔54〕。同作において、妻殺しの完全犯罪をもくろむレイ・ミランドの計画が、達成間近で暴かれることとなる決定的な証拠として用いられた小道具の鍵は、どこに隠されていただろうか。
 この映画は戯曲が原作であり、物語はほぼ事件の起こった共同住宅の一室で進行する。ミランドの留守中、ジョン・ウィリアムズ演ずる警部と何人かの警官たちが事件解決のカギ=鍵を探し出すべくかなりの時間をかけてその部屋の出入口付近を調べるわけだが、当の過程は直接には描かれない。
 そのことは警部自身が説明する。死をまぬかれたグレース・ケリーと彼女の恋人ロバート・カミングスを前にして、警部はある場所へ手をやり、問題の鍵をさっと呈示する。
 その、ある場所とは、事件の起こった部屋を出てすぐに位置する階段の五段目である。階段の五段目に、敷物に覆われて隠されていたのだ。
 このことは、ヒッチコック映画の謎を解くうえで見逃せないひとつの事例である。ドラマの構成上、事件解決のカギは、基本的にどこに隠されていようと構わないはずだ。けれどもヒッチコック映画においては、それはどうしても階段上でなくてはならなかった。階段こそが発見の場所でなくてはならない。ヒッチコック映画において、その点は常に守られなければならぬ規則なのだ。
 そう断言したくなるほどに、ヒッチコック映画において階段は人を「発見」へも《﹅﹅》導く。そしてその「発見」は、ほとんどの場合、階段をのぼる行為を介している。
 ヒッチコックにとってのトーキー第一作『恐喝』〔29〕の冒頭では、警察の特捜隊がある共同住宅の階段をのぼってゆき、二階の一室でベッドに横になっていた容疑者を見つけて捕まえている。また『三十九夜』では、知りあったばかりのルッチー・マンハイムが追われる身のスパイであることを知らされたロバート・ドーナットが、外の通りで敵が張りこんでいるのを見つけたのは、共同住宅の階段をのぼったあとの室内でのことだった。
 『レベッカ』では、夫の前夫人レベッカがすごした部屋の内部をジョーン・フォンテーンが初めて見わたせたのは屋敷の大きな階段をのぼってからであり、その後にレベッカの肖像画を目にするのもやはり階段をのぼったあとだった。さらに『海外特派員』では、暗殺者を追うジョエル・マックリーが風車小屋の中へ忍びこみ、階段をのぼって小屋の屋根裏に辿り着いたところで拉致されていた老政治家アルバート・バッサーマンを発見しており、のちに再び姿を消した老政治家が見つかるのもレストランの二階だった。
 類例はつきない。『疑惑の影』において、殺人事件の犯人が叔父であることを決定づける証拠の指輪をテレサ・ライトが見つけたのは二階の部屋であり、『汚名』で毒を飲まされ寝かされているイングリッド・バーグマンをケイリー・グラントが見つけるのも二階の部屋である。『舞台恐怖症』の「嘘つきフラッシュ・バック」と呼ばれる場面でリチャード・トッドが死体を見つけたのも二階の部屋であり、『見知らぬ乗客』〔51〕のファーリー・グレンジャーが、待ち伏せていたロバート・ウォーカーに出くわすのも二階にある父親の寝室だった。
 『知りすぎていた男』のジェームズ・スチュアートが誘拐された息子と再会するのも二階であり、『北北西に進路を取れ』において、二重スパイのエヴァ・マリー・セイントを救出するために敵の隠れ家に潜入したケイリー・グラントが、陰から合図を送って彼女と会うのも二階の部屋だ。『鳥』のティッピ・ヘドレンが鳥の群れの襲撃に遭い、体中を傷だらけにされたのも二階の部屋であり、同じくヘドレンが『マーニー』において、ショーン・コネリーとの結婚後、嫁いだ家の金庫の鍵を見つけるのも二階だ。そしてこれらのことはいずれも画面のなかで登場人物たちが階段をのぼった直後に起きている。
 これだけ多くの例に触れると、人が階段をのぼる行為は何らかの「発見」へと結びつくというヒッチコック映画の規則が本当に存在するのかもしれないとさえ思えてくる。
 たしかに、例外もないではない。たとえば『サイコ』のヴェラ・マイルズは、アンソニー・パーキンス演ずるノーマン・ベイツの母親がミイラ化している姿を発見する直前、階段を降りている。
 だがそれ以前、母親の剥製はずっと二階の寝室に置かれていたのではなかったか。私立探偵の訪問や保安官からの電話に危険を感じ、死んだはずの母親を見つけられることをノーマンが恐れた結果として、二階にあった母親の剥製は地下室へと移されているのである。そのことは、「二階の部屋」がヒッチコック映画にとっては習慣的に「発見」の場として設定されている事実を逆説的に裏づけているともいえる。
 いずれにせよ観客に向けて、あるいは作中人物たるモーテルの宿泊客ジャネット・リーに対し、ノーマンの母親の存在が初めて知らされたとき、母親=剥製は屋敷の二階窓に浮かぶ影として示されていたのであり、「発見」はこの時点ですでに成立していたとも考えられる。ちなみに、マイルズは地下室へ降りる前にいったん二階へ向かっているのだが、彼女が階段をのぼる過程は周到にカットされている。だとすれば、ここでヒッチコックは「発見」という「サプライズ」よりも、老婆の剥製が待ち受ける地下室への階段をマイルズが降りてゆくことで得られる「サスペンス」のほうを選んだのかもしれない。
 これら以外にも、階段をのぼり「発見」へと及ぶ場面はいくつもある。『裏窓』〔54〕の場合、ふたつの共同住宅に挟まれた中庭の隅にある階段を、一匹の猫がのぼっていく様子を俯瞰で捉えたショットから映画が始まる。これにより、『裏窓』の物語がまさに「発見」によって進展してゆくことが予告されているのだ。
 『裏窓』の舞台となる共同住宅や中庭のオープン・セットには、ハシゴをふくめて階段が数多く存在している。そうした環境下、左足の骨折により自由を奪われたカメラマンのジェームズ・スチュアートは、まるで何かを「発見」することを義務づけられてでもいるかのように、一日中向かいの共同住宅の各部屋の様子を眺めてすごしている。そして当然のごとく、彼が生活している部屋も二階に位置しているのだ。
 やがてスチュアートは、一人の不審な人物を見つけるのだが、動けない彼の代わりに恋人のグレース・ケリーが階段ののぼり役をつとめることになる。不審人物を探るべくハシゴをのぼり、向かいの共同住宅のこれまた二階にある部屋へと忍びこんだケリーは、そこで住人のレイモンド・バーが自身の妻を殺害したことを裏づける結婚指輪を発見するに到るわけだ。
 ちなみに、二階の部屋で事件の証拠となる指輪を発見するといった展開は、すでに『疑惑の影』で採用されている。それを踏まえつつも、『裏窓』で描かれたシチュエーションが特に重要視されるべきなのは、不審人物の発見者スチュアートの部屋が二階にあり、殺人犯バーの部屋も同じく二階に位置しているということなのだが、その点についてものちに詳しく触れるつもりである。
 階段をのぼることが何らかの「発見」へと物語を移行させてゆくという、ヒッチコック映画の特徴のひとつをこれでほぼ見わたせたといえるが、議論を精緻にするためにもここであらためて例外場面に注目し、その意味を考えておきたい。
 たしかに、『泥棒成金』〔55〕でケイリー・グラントが真犯人のニセ「怪盗キャット」を捕まえた際、階段をのぼった場面は示されていない。加えて翌年に発表された『ハリーの災難』〔56〕において最初に子供がハリーの死体を見つけたときも、階段をのぼったわけではなかった。
 だが、『泥棒成金』のグラントが真犯人を見つけ、格闘を演じたのは地上ではなく建物の屋根の上ではなかったか。『ハリーの災難』では、仰向けに横たわったまま動かないハリーを見つける直前、発見者の少年はゆるやかな勾配の丘をのぼっていたはずであり、ほぼ全篇にわたって海で漂流する船上を舞台としている『救命艇』〔44〕においてすら、遭難者たちが海から船に乗りこむ際にのぼる行為《﹅﹅﹅﹅﹅》が撮られている。さらには一度も登場人物が階段などをのぼる様子が描かれない『ロープ』〔48〕でさえ、殺人事件が起き、その真相をジェームズ・スチュアートが暴いた場も一階には設定されていなかった《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》のだ。これらもやはり、ヒッチコック映画の規則のひとつが守られた結果だとはいえまいか。

 ヒッチコック映画においては、階段をのぼることによって人は「変化」にも《﹅﹅》導かれてしまう。「喪失」「発見」につづくこの第三の規則は、何も姿形のさまがわりを意味しているわけではない。
 ここでいう「変化」とは、当事者の立場や役割が変わることを指している。たとえば物語展開上の要請により、「間違えられ」て無実の罪をきせられてしまう、というような境遇の一変だ。あるいは二人の人物間で役割の交代劇が演じられることもあり得る。
 そうした「変化」がどこでどのように起きていたのかをこれから確認したい。それにより、まだ一度も言及していないアルフレッド・ヒッチコック最後の作品『ファミリー・プロット』とその前作『フレンジー』〔71〕において描かれた階段の機能を検証するための準備が整えられるだろう。
 たとえば『恐喝』。同作では平凡な町娘が殺人者へと「変化」する過程が極めて明快に描かれているが、ここでも階段が効果的に機能している。アニー・オンドラ演ずる雑貨屋の娘は、レストランで些細なことから恋人(刑事)と喧嘩になった直後、画家の男と知りあう。そして彼女はその画家に犯されそうになり、結果的に相手を刺し殺してしまうのだ。
 事件は共同住宅の最上階にある画家のアトリエで起きたが、そこへ行き着くための長い階段を娘と画家がのぼってゆく姿がはっきりと映し出されている。つまりヒッチコックは、階段をのぼる様子を描いたあとに画家を強姦者に、娘を殺人者に「変化」させているのだ。この注目すべき『恐喝』のエピソードは、その後のヒッチコック映画において幾度も変奏されることになる。
 『裏窓』において、不審人物の発見者ジェームズ・スチュアートの部屋と殺人犯レイモンド・バーの部屋がいずれも二階に設定されていたことが重要であると先に指摘した。事件は二階の部屋で起きており、妻殺しの犯人バーはやはり階段をのぼって殺人者になっている。犯行の直前にバーが階段をのぼっている様子じたいを見ることはできないものの、当の描写の不在を補ってあまりある場面をヒッチコックは用意している。向かいの住人スチュアートに殺しがばれたと知ってしまったバーの、その後の行動を描くシーンだ。
 口封じをもくろむ殺人犯バーが、自由に身動きのとれないスチュアートのいる部屋へ侵入し襲いにくるまでの過程。それを監督ヒッチコックは、足音の響きによって侵入者の接近を示し、不安をかき立てる演出を施している。まさに殺人者に成ろうとしている男の、階段をのぼってくる様子が、音によって鮮明に描きだされていたわけだ。室内に現れたバーは、二度目の殺人者への「変化」を遂げるべく、車椅子に腰をおろした状態のスチュアートに襲いかかろうとして近寄ってゆく。
 この場面のほかにも、証拠の指輪を見つけるためにグレース・ケリーがハシゴをのぼってバーの部屋へ入りこんでいる、ということはすでに述べたが、そのあと彼女は不法侵入者として警官に連行されてもいる。つまり同場面では、「発見」のあとに「変化」までもがさりげなく描かれていたわけだ。階段をのぼったあとに「発見」と「変化」に加えて「喪失」さえもが同時に起きる展開は、これ以外のヒッチコック映画でも見られるが、それについてここでは触れずに議論を進めることにする。
 階段をのぼることによって別人格に変わり、殺人鬼と化してしまう登場人物、それが『サイコ』のノーマン・ベイツだ。アンソニー・パーキンス演じるノーマンが自分の母親に成り代わり、殺人者へと「変化」するに際して具体的にどんな行動をとっていたか。それを知るには物語後半、地元の保安官からの電話により母親の存在を探られる危機を感じたノーマンが、モーテルを出て屋敷へ入ったあとの驚くべきワンショットをたしかめてみればよい。
 フランソワ・トリュフォーも賛嘆するそのショットとは、まずパーキンスが階段をのぼる様子を背後から煽りでカメラは捉え、次第にその視線の位置を上昇させてゆく。当の過程でパーキンスは二階の寝室へ入り、フレームから姿を消すのだが、ここまでの彼はノーマン・ベイツの人格のみを演じている。
 次にカメラが完全に階段の真上でとどまろうとするときに、寝室からノーマンと母親の話し声が聞こえてきて、真下を見下ろす構図をとって画面の動きはとまる。以後、当の俯瞰ショットにおさめられているのは、母親(ミイラ)を抱きかかえたパーキンスが部屋を出て地下室へ向かうべく階段を降りてゆく光景であり、その間も母子の会話は続いている。以上の過程が終始ワンショットで撮られているのだ。
 ノーマン・ベイツが抱えていたのはすでに死亡しミイラ化した母親の剥製であり、ベイツ・モーテルでのすべての殺人は、自身の中に宿った母親の人格に支配されたノーマンが犯していたというのが、『サイコ』における事件の真相だった。その真相は、物語上においては最後に明らかにされている。
 しかし上述した階段のショットは、当の真相を視覚的に裏づける、決定的なひとつの事実をすでに物語っていたといえる。それは、ノーマン・ベイツという登場人物は、階段をのぼることによって母親の人格と入れ替わり、殺人者に「変化」するというメカニズムである。しかもそのときノーマンは、事実上の心神喪失状態に陥っているのだろうから、「変化」と同時にそこでは「喪失」までもが起きてしまっているわけだ。
 たとえばジャネット・リーが、モーテルのシャワー・ルームで殺害された場面。リーの入浴を覗き穴からそっと見ていたパーキンスは、その後に屋敷へいったん戻ってから母親の扮装をして再び室内に現れ、犯行に及んでいる。さらにはリーの妹役ヴェラ・マイルズが屋敷へ忍びこみ、地下室でミイラ化した母親を発見した際、母親の扮装をしたパーキンスに襲われそうになるが、パーキンスはそれ以前の場面で階段をのぼって二階へ向かっている。
 また、私立探偵役のマーティン・バルサムが襲われた状況においてもやはり、母親の人格に支配されたノーマンを演ずるパーキンスは、二階の寝室から現れている。ノーマン・ベイツが母親の人格と入れ替わる際、同時に彼は変装しておく必要が――逮捕に到るまでは――あったわけだが、それはいつも二階の寝室で行われていたのだ。
 つまりノーマンは、階段をのぼらなければ母親に成れない。というかヒッチコックは、ノーマン・ベイツという登場人物が母親の扮装をして連続殺人犯と化すに到るまでの過程を、あらゆる場面において、手はじめにノーマンが二階へ向かい階段をのぼる様子を示すことによってしか描こうとはしなかった、かのごとくに思えてしまう。まるで「最初の真のヒッチコック映画」『下宿人』において定められた、自作の規則に絶えず忠実であろうとしていたかのように。
 この『サイコ』で演じられた「変化」=「喪失」をひとつの交代劇として見ることも可能だろう。ノーマン・ベイツという器の中で、母親の人格とノーマン自身の人格が入れ替わることにより可能となる、「変化」=「喪失」の同時発現。とはいえ、「変化」における行動に実際の母親の意志は介在しておらず、ノーマン自身も心神喪失状態にあるわけだから、それは単にノーマンの無意識が顕在化した状態なのだと見なすべきかもしれない。
 いずれにせよこうした、階段をのぼることによって起こる交代劇としての「変化」=「喪失」が、より完璧なかたちで演じられた映画が『めまい』である。『めまい』は、ヒッチコックが階段をのぼることを主題として描いた最高度の達成といえる。その根拠を解きあかすためには、ジェームズ・スチュアートとキム・ノヴァクが教会の階段をのぼったあと、いったいどのような出来事が起きていたのかをたしかめてみなくてはならない。

 『めまい』において、ジェームズ・スチュアート演ずる元刑事は、友人(トム・ヘルモア)が企む妻殺害の偽装工作に知らぬまま関与させられる。挙動不審で自殺志向のある妻の見張りを友人に依頼された元刑事は、尾行を続けているうちに当の女性を愛してしまう。しかし女性の正体は、友人の情婦(キム・ノヴァク)が元刑事を偽装工作に巻きこむために装ったニセの妻なのだ。彼女は高所恐怖症の元刑事を誘うように自殺するふりをして教会の階段をのぼってゆくわけだが、その後に何が起こっただろうか。
 まず、スチュアートはノヴァクを追って階段をのぼるが急激な「めまい」に襲われて最上段まであがることができない。つまり元刑事はここで、自分が高所恐怖症であることを再「発見」する。と同時に、彼は愛する女性が叫び声をあげて地上へ落下してゆく場面を目撃し、彼女を「喪失」したことを知る。
 注目すべき点はまだある。教会の階段をのぼりきった場所、鐘楼での出来事だ。そこでは本物の妻の死体を抱えたヘルモアが待機している。ニセの妻を演ずる情婦がその場に辿り着いたのと同時にヘルモアが妻の死体を突き落とし、偽装殺人が成し遂げられるという寸法だ。つまり情婦役のノヴァクが階段をのぼりきった瞬間、ニセの妻と本物の妻との交代劇=「変化」が、まるで機械仕掛けのように滞りなく簡潔に達成されていたのである。
 さらに重要なのはその後の展開だ。再び出会ったスチュアートと――装いを変えた――ノヴァクが、物語前半で辿った過程を同様のかたちでくりかえし演じてしまうのだ。
 スチュアート演ずる元刑事は失ったものをとり戻すため、自分が愛した本人とも知らずにジュディという女性(ノヴァク)の容姿を友人(ヘルモア)の妻そっくり(かつて自分が目にしたニセの妻の姿)に仕立てあげてゆき、「変化」をいっそう推し進める。ここでノヴァクは、殺された本物の妻のコピーとして存在するべく「変化」を強いられるわけだが、そもそも元刑事が「喪失」した対象はニセの妻を演ずるジュディその人なのだ。
 すなわちジュディは、もともと自分自身がコピーして演じた姿を再度コピーせねばならなくなる。しかもその虚像は、本物の容姿を正確に模したものなのかすらさだかでない。いわばオリジナル不明のコピーのコピーと化してしまったジュディは、反復の連続に身を投ずることでしか存在を許されていないかのように、物語後半でさらなる反復へと向かわねばならない。
 騙されていたと知った元刑事は、愛する彼のために姿を変えることを受け入れたジュディを連れて、再び教会の階段をのぼる。階段は二人を新たな反復へと導く。結果的に、階段をのぼった元刑事は高所恐怖症を乗りこえることで「変化」を遂げるのみならず、同時に事件の真相を「発見」するのだ。
 そしてジュディは、またしても誰かと交代劇を演ずることになるだろう。陽が陰る中、鐘楼にいたジュディは、人気のない階段からの物音に驚いたはずみで足を滑らせ転落してしまう。階段をのぼって鐘楼へ見まわりにきた尼僧と入れ替わり、殺された本物の妻のようにジュディは地上へ落ちてゆくのだ。つまり、キム・ノヴァク演ずるジュディという登場人物は、オリジナル不明のコピーのコピーとして自らを反復しつつ、ついに本物になりきれぬまま死んでしまうわけだ。
 ヒッチコック後期の代表作と目されている『めまい』は、ジェームズ・スチュアート演ずる元刑事が二度目の「喪失」に直面するところで終わる。元刑事は、「喪失」「発見」「変化」のすべてを同じひとつの階段をのぼることによって続けざまに体験させられてしまう、ヒッチコック映画ならではの悲劇的人物といえる。あるいはヒッチコックは、『めまい』とは階段をのぼる行為のもたらす結果の総称なのだと謳っているのだろうか。
 いずれにせよ、こうした事例の数々に触れるにつれて浮かんでくるのが、次の興味だ。ヒッチコック映画の階段は、「喪失」「発見」「変化」を体験させることにより、登場人物たちをいかなる領域へと招きよせようとしているのか。
 そのことを明らかにする前に、「変化」に関わる諸作品の細部をさらに明示しておかなければならない。
 たとえば『暗殺者の家』においてレスリー・バンクスが階段をのぼったあとに起きた、交代劇としての「変化」。それは暗殺者グループに娘を誘拐されたバンクスが、暗殺者らの情報交換場らしき歯科医の診療所へ潜入する場面での出来事だ。患者を装って訪れたバンクスは、診療用の椅子に坐らせられ、治療を受けはじめてすぐに正体がばれてしまい、麻酔で眠らされそうになるのだが、逆に麻酔を奪って暗殺者一味の歯科医を眠らせて、白衣を着こんで歯科医に成りすまし、隣室にいる暗殺者たちの会話を盗み聞きするのである。診療所は建物の二階にあり、バンクスは階段をのぼってそこへ入りこんでいるということは、いうまでもない。
 こうした交代劇もまた、それ以後のヒッチコック映画において幾度も変奏されている。たとえば『鳥』の冒頭のシーンでも、交代劇としての「変化」は演じられているわけだが、ここではより複雑に事態は進行し、階段の及ぼす効果がドラマの展開に深い影響を与えている。
 物語の主人公、ティッピ・ヘドレンとロッド・テイラーはまず、ペット・ショップの小鳥売り場で出会っている。遅れて姿をあらわしたテイラーを、ヘドレンは店員のふりをしてからかってみせるのだが、初めから彼女の正体を見ぬいていたテイラーに逆にやりかえされてしまう。いかにも軽く演じられるこの、登場人物紹介のために設けられた導入部以上の役割をもたぬような場面が、実際はひじょうに重要なことを物語っている。
 小鳥売り場があるのはペット・ショップの二階であり、階段をのぼるそれぞれの姿は直接に示されている。したがって、ヘドレンがニセ店員を演じて「変化」を示すのは必然といえる。また、若手弁護士テイラーと金持ちの放蕩娘ヘドレンが、その場での出会いをきっかけとしてたがいに恋愛感情を抱くことになるのもごく自然な流れだ。
 加えてこの場面は、あるおおがかりな交代劇としての「変化」へと到るための契機にもなっている。へドレンとテイラーはそこで知りあい、さらにその後に体験するおそろしい出来事に関わるなにものか、つまり籠に入った何羽もの鳥たちに出会っていたはずだ。翌々日、鳥とふたりの立場は逆転することになる。人間たちは家の中に閉じこめられ、攻撃的になった鳥の群れに脅えることしかできなくなってしまうのだ。
 ヘドレンとテイラーが初めて顔をあわせるペット・ショップ二階の小鳥売り場の場面は、『鳥』という映画の物語を完璧に予告している。ふたりは階段をのぼってしまったがゆえに鳥の群れから襲われることを運命づけられていたのだ。物語の後半、立てこもった家の階段をのぼった直後にヘドレンが鳥の襲撃を受けてしまう事実が、そのことをさらに強く裏づけてもいる。
 ヒッチコックは、「ここでは人間と鳥との旧来の関係が逆転する」と自作を解説している。だとすれば、登場人物が階段をのぼる行為を介したヒッチコック的「変化」のドラマ=交代劇として、その「旧来の関係が逆転する」展開は組みたてられていたことになる。

 階段をのぼり、何らかの「変化」に到る過程にこれまで注目してきたが、そこにヒッチコック映画の重要な主題のひとつを結びつけてみると、実態はさらに鮮明に浮かびあがる。その重要な主題のひとつとは端的に、「人違い」だ。
 ヒッチコック映画において、人は間違えられる。ある偶発した出来事により、無実の人物が罪をきせられ、様々な困難に直面してゆくことになる。
 そうした事態が、イギリス時代の『殺人!』でも起きた。さらには『三十九夜』や『第3逃亡者』〔37〕でも起きた。ハリウッドへ渡ってからは、『断崖』でも起きたといえるだろうし、『逃走迷路』『白い恐怖』『見知らぬ乗客』『私は告白する』『ダイヤルMを廻せ!』『泥棒成金』『北北西に進路を取れ』等でも、登場人物たちは「間違えられ」ていた。いうまでもなく『間違えられた男』でも「人違い」は起きている。しかも『間違えられた男』において「間違えられた」人物は、階段をのぼったその場で事件の犯人にされていたのだ。
 ヘンリー・フォンダは、階段をのぼったことによって強盗事件の容疑者へと「変化」する。そもそもの「間違い」は、保険会社の事務所へ金を借りにきたフォンダの顔が、同所へ押し入った強盗犯とそっくりだったために女性事務員たちが騒ぎだし、警察に通報したところで生じていたのだが、その時点ではまだ逮捕には及ばない。
 前述したとおり、自身の住まいである共同住宅の玄関口に設けられたちいさな階段をのぼったことにより、フォンダは容疑者として認定されてしまう。物語上でも、階段をのぼったことそれじたいがフォンダ逮捕のきっかけとなっているのだ。というのも、フォンダの帰宅を待って張りこみを行なう刑事の一人が、通行人と容疑者を見分けるための合図として、「階段をあがったら奴だ」と同僚刑事に対しはっきりと告げているのだから。
 「階段をあがったら奴だ」という刑事らの行動開始の合図は、ヒッチコック映画における階段と「変化」の因果関係に着目する、私たちの言葉でもあるだろう。ヒッチコック映画の登場人物たちは、「階段をあがったら」誰かに「間違えられ」てしまう宿命に置かれている。事実、フォンダ演ずるバンドマンは、生命保険会社を訪れたあとに母親宅へ寄り、その後に帰宅し共同住宅の玄関口階段をのぼっただけにもかかわらず、強盗事件の容疑者へと「変化」している。同時にフォンダは「喪失」をも経験してしまうということは、先に指摘したとおりである。
 『間違えられた男』の場合とはやや異なるが、『断崖』でも、階段をのぼった人物が犯罪の嫌疑をかけられる状況を目にすることができる。階段をのぼったケイリー・グラントを疑うのは、ジョーン・フォンテーン演ずる妻だ。あるいは映画を見ている観客らもまた、グラントに疑いの視線を向けていたのではないか。
 結婚してはみたものの、まともに仕事もせずギャンブルで負け続けて借金を増やす夫が、推理小説を熱心に読み殺害方法に強い関心を示している姿に接し、保険金目当てに自分を殺そうと企んでいるのではないかとフォンテーンは疑惑を抱く。何しろ夫グラントは友人の不審死について警察に事情を聞かれたばかりでもある。加えて知人の推理小説作家に対し、証拠を残さず人を殺すのが可能な薬物の名前を執拗にたずねていたりもすることから、深まる夫への疑念でフォンテーンは精神不安定に陥り寝こんでしまう。
 グラントは階段をのぼり、二階の寝室で寝こんでいる妻のもとへ一杯のミルクを届ける。その場面は、ミルクの中に光る豆電球を入れておき、観客の視線がグラスに集まるように工夫をこらして撮影されたのだという。撮影効果によって際だった白い液体には、恐らく例の薬物が混入しているのだろうと観客の誰もが想像したに違いない。
 そのショットにおいて、階段をのぼるグラントは、誰の目にも殺人者として映っていたのではなかろうか。最終的にグラントへの疑いは解消されるものの、ヒッチコックが当初構想した『断崖』の物語では夫は殺人者であり、妻殺しは実行されるはずだったのだという。当の構想は製作者側の反対によって葬られたようだが、結果的には無実の男が「間違えられ」て罪をきせられるというヒッチコック映画の重要な主題の追求につながったのだから、有意義な変更だったとも考えられる。
 それにしても、「間違えられ」てばかりいるヒッチコック映画の登場人物たちが最後まで「変化」の状態を維持し、誰かと交代した立場を貫いたことなどあったのだろうか。ヒッチコック映画において、「間違えられた」人物たちが物語上の要請により担わされた役割を「間違えられた」まま全うし、終幕を迎えるというケースは、果たしてあり得るのだろうか。

 『めまい』のキム・ノヴァクが演じた役柄とは、オリジナル不明のコピーのコピーだと、すでに指摘した。それはあのジュディというキャラクターが、トム・ヘルモア演じる偽装殺人の実行者、ギャヴィン・エルスターの本物の妻マデリンの代役としてしか、またはその代役の代役としてしか生きられない、ニセモノでしかあり得ない存在であることを意味しているといっていい。
 つまり『めまい』とは、どこまでもニセモノでしかないジュディを、ジェームズ・スチュアート演ずる元刑事が本物と「間違え」てしまったことで起きた悲劇だ。ノヴァクが演じたジュディという役は、ヒッチコック映画ならではの「間違えられた」人物なのだ。それが何を物語っているのかといえば、ヒッチコック映画において「間違えられた」者たちとは、本物には決して成りきれなかったニセモノ的存在ということである。
 現に、ヒッチコック映画の「間違えられた」登場人物たちは、最終的にはほぼ確実にその間違いを訂正されている。誤って事件の容疑者とされた者たちはいずれ無実が認められているのだ。『第3逃亡者』のデリック・デ・マーニーにせよ、『私は告白する』のモンゴメリー・クリフトにせよ、『間違えられた男』のヘンリー・フォンダにせよ、殺人や強盗事件の真犯人として受刑者にはならなかったし、階段をのぼって起きたはずの「変化」は終幕まで貫かれたわけではなかった。
 それは、必ずしも無実の罪をきせられた人物の物語ではない『スミス夫妻』〔41〕や、実際に殺人を犯してしまった『恐喝』のアニー・オンドラの場合にしても同様である。『スミス夫妻』におけるキャロル・ロンバードとロバート・モンゴメリーの夫婦はもとの鞘へ戻り、『恐喝』のアニー・オンドラは逮捕されずに映画は終わっている(画家刺殺は正当防衛の範囲内と判断され、彼女は本物の犯罪者とは見なされない)。ということは、階段をのぼって何らかの「変化」を体験したヒッチコック映画的キャラクターとは、本物に成ることに挫折した「変化」の失敗者たちなのだと、ここで見方をあらためなければならないのだろうか。
 ならば『泥棒成金』でケイリー・グラントが演じた「怪盗キャット」までもがニセモノなのだろうか。たしかに、グラントこそ本物の「怪盗キャット」であり、ニセモノの「キャット」がブリジット・オーベールだったことは物語上の事実だ。しかし作中、本物は泥棒稼業から引退した身として登場していたのであり、盗みを働いていたのはニセモノのほうであったことも物語上の事実だ。加えて「間違えられた男」グラントは、ニセの「怪盗キャット」を捕まえはしたが、以前の仕事を再開することもなかった。
 では、『裏窓』のレイモンド・バーの場合はどうか。彼はたしかに、妻殺しの犯人だったし逮捕もされている。ところが彼もまた、失敗者の一員であることに変わりはない。映画の終盤、バーは足音を響かせながら階段をのぼり、二度目の殺人者への「変化」を遂げつつあるかに見えた。だが、殺害対象のスチュアートは二階から地面へ落下して脚の骨を折っただけであり、階段をのぼったあとのバーの「変化」は失敗に終わっている。不法侵入者として警察に連行されたグレース・ケリーにしても、その後すぐに放免されているのである。
 ならば『白い恐怖』のイングリッド・バーグマンはどうか。彼女に関しては、階段をのぼったことにより精神科医から一人の恋する女へと役柄を「変化」させ、最後までそれを貫徹したキャラクターであるという解釈が可能ではないのか。
 どうやら可能ではないようだ。なぜなら、バーグマンがグレゴリー・ペックに恋愛感情を抱いたのは階段をのぼってからのことではない。二人の出会いは食事の場面であり、すでにその場で彼女の恋心の芽生えが描かれていたはずだ。
 ちなみにバーグマンにとって、その後に彼女がのぼった階段は「変化」というよりむしろ「発見」へと導く装置として機能している。ラストで殺人事件の真犯人を「発見」することの予告として、バーグマンは階段をのぼらされていたといえるのだ。
 ではペックの場合はどうか。やはり彼も一人の「間違えられた男」であると同時に「変化」の失敗者なのである。精神病患者ペックは、バーグマンが勤務している精神病院に新院長として赴任するが、自分自身が別人に成りすましていたことに気づいてしまう。病院を逃げだした彼は殺人事件の容疑者として追われ、バーグマンとともに彼女の恩師ミケル・チェーホフの家に身を隠すことになる。二人は夫婦だと偽るが、あっさりその嘘は見破られ、ペックの病までばれてしまうものの、最終的に彼は記憶をとり戻し、「間違えられ」てきせられた罪は取り消されるというのが、『白い恐怖』の顚末だ。
 このように、「変化」の失敗者たちは絶えることがない。それがあの『サイコ』であっても事情は変わらない。
 逮捕後、母親の人格に完全に支配され、すっかり自己をなくしてしまったかに映るノーマン・ベイツというキャラクターを「変化」の成功者と見なすのは間違いだ。映画のラストシーンにおけるノーマンは、なるほど母親そのものと化し、カメラに向かって語りかけているようにも見える。だが前述したとおり、当の人格はあくまでノーマン自身の無意識の顕在化したものでしかないのだと捉えざるを得ず、亡くなって相当の年月が経っているであろう母親の考えを彼が代弁できるはずがない。結局ノーマン・ベイツとは、母親そのものになど成ることはできず、本物をただそれらしく演じきるだけのニセモノとして自らの姿をさらしているにすぎない存在なのである。
 あるいは『レベッカ』のジョーン・フォンテーン演ずるド・ウィンター夫人。このキャラクターもまた、死者による束縛に悩まされ続ける。彼女が知らぬまに死者レベッカのドレスと同デザインの衣装に身を包み、夫の前に現れたとき、その姿を見た義姉は「レベッカ」と口に出してしまう。皮肉にも、ド・ウィンター夫人として振舞おうとすればするほど、前夫人レベッカのニセモノでしかないのだと思い知らされてしまうわけだ。
 ニセモノであることはヒッチコック映画の登場人物たちを苦しめる。『山羊座のもとに』〔49〕のジョゼフ・コットン演ずる大地主は、それなりの地位を得ながらも、自身が本物の貴族ではなく流刑者だった事実に強い苛立ちを見せていた。ヒッチコック映画においては、階段をのぼって「変化」を経ても確実な結果にはつながらず、よくも悪くももとの状態に引き戻されてしまうという現実があるためだ。「変化」は常に未遂で終わるほかないのがヒッチコックの世界なのだ。
 しかし本当にそうなのか。ヒッチコック映画の階段とは、漏れなく人を「変化」へと導く装置でありながらも、その上階ではただ失敗のみが待ちうけるばかりなのだろうか。ヒッチコック的キャラクターとは、「変化」の失敗者としてしか記憶されない負け犬の集団なのだろうか。そして本論は、それを最終的な結論にしてしまってよいのか。
 最後に、それについてはっきりさせておく必要がある。ヒッチコック最晩年の二作品、『フレンジー』と『ファミリー・プロット』の中にその答えがある。

 『フレンジー』とは復讐の映画だ。「間違えられた男」であり、「喪失」し「発見」し「変化」に失敗したニセモノ的存在が、本物に対して復讐を企て、立場の逆転を試みようとする映画だ。ジョン・フィンチ演じるリチャード・ブラニーというキャラクターは、ヒッチコック映画の階段をのぼった者たちがことごとく失敗した「変化」を確実に遂げようと誓う、最も大胆な野望を抱いた男だ。そのために彼もまた、階段をのぼる。
 『フレンジー』は以前にもまして、物語の展開に階段が深く関わるヒッチコック映画だ。そんなことに無自覚なリチャード・ブラニーは、階段をのぼらされているうちに自分が物語に操られていると悟り、何か得体の知れない奇怪な存在に「間違えられ」ていることに気づいたかのように、あからさまに苛立ってみせる。リチャード・ブラニーは、虚構内の一登場人物でありながら、作品の成り立ちに手を貸すことが我慢ならないとでもいいたげに、苛立ちの感情を少しも隠そうとはしない。じつはその苛立ちさえもが、物語の進展に役立ってしまうことに、彼はまったくといっていいほど無防備なのだ。
 では、物語上のリチャード・ブラニーはどのような男として描かれていたであろうか。彼はまず、職場で雇い主と喧嘩して仕事を失う。ふて腐れて通りをぶらついていると、友人に競馬の勝ち馬予想を教わるも馬券を買う気にはならず、のちにその予想が当たっていたと知らされて再び腹を立て、友人から貰った葡萄の房を地面に叩きつけるような男だ。
 このようにブラニーは、タイトルが示しているとおりの逆上しやすい凶暴な男として描かれている。元妻(バーバラ・リー・ハント)との離婚は彼の暴力性が原因らしく、久しぶりに会った彼女とも口論となり、怒鳴り声をあげてしまうほどだ。
 こうした、露骨に感情の起伏が激しく短気で暴力的な男がヒッチコック映画の主人公として選ばれたのは例外的なことだ。『フレンジー』が復讐の物語として展開してゆくことから判断すると、それは妥当な選択だったといえる。ではその例外的な人物が、階段をのぼったあとに経験することになる出来事の内容を、これからたしかめてみよう。
 『フレンジー』においても、階段をのぼったあとに「喪失」「発見」「変化」の三現象が同時に起きている。しかもそうした状況が、『裏窓』や『めまい』と同様に機械的な正確性でもって速やかに組みたてられている。
 ちなみに、作品の完成度も興行的にも失敗作と見なされている『トパーズ』〔69〕にも、見逃せない場面がある。フレデリック・スタフォードが階段をのぼったあとに発見したスケッチ・ブックに、事件の核心に関わる男の顔が描かれていたわけだが、その直後に彼は当人の死体をも見つけてしまう。『トパーズ』におけるこの見事なまでに簡潔な描写は、同作よりもずっと少ない予算で撮られた次作の『フレンジー』においては作品全域にわたって試みられることになる。
 ヒッチコック映画の規則に無自覚な男リチャード・ブラニーは、まさか階段をのぼることで自身が「喪失」や「発見」や「変化」へと導かれるなどとは知るよしもない。いつのまにか上着のポケットにいくらかの現金が入れられていることに気づき、失業し住まいもない自分に元妻が情けをかけてくれたのだと理解したブラニーは、彼女の職場を訪れる。階段をのぼり、元妻が営む結婚相談所のドアをノックするが、返事がないため仕方なく彼は立ち去る。外へ出たブラニーは、普段と変わらぬ様子で通りを歩いてゆく。
 リチャード・ブラニーは同場面において、階段をのぼったあとに起こる三つの結果を自覚することなく経験してしまっている《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》。果たして彼の元妻は、結婚相談所を本当に留守にしていたのだろうか。それは違う。彼女は不在ではなかった。返事がないのは殺されてしまっていたためだ。結婚相談所のドアをノックしたが返事がないため不在だと判断したブラニーはこのとき、自覚せぬまま元妻の死を「発見」しており、同時に彼女を「喪失」しているのである。
 さらにその後、通りへ出た自分の姿を元妻の秘書が見かけていたことにブラニーは気づいていない。ゆえに彼は、雇い主の死体を見つけて警察に通報した秘書に、元妻殺しの犯人だと決めつけられていることなど知り得ようもない。
 こうして無自覚な「間違えられた男」が誕生する。むろんいずれは彼も自分が「間違えられた男」であることを悟るだろう。すぐに警察は、ブラニーを元妻殺害犯ならびに「ネクタイ絞殺魔」として指名手配することになるからだ。一時的にではあれ金が手に入り、機嫌がよくなっていたはずのブラニーは、いつしか自分がヒッチコック映画の中に迷いこみ、「間違えられた男」の役目を背負わされていることを意識させられてまたしても苛立つのである。
 一方、バリー・フォスター演ずる本物の「ネクタイ絞殺魔」ボブ・ラスクもまた、ブラニーの元妻を強姦殺人する直前に階段をのぼっている。むろん彼が階段をのぼる様子も殺人の場面も、直接に描かれている。ボブ・ラスクは、いかにもヒッチコック映画のキャラクターにふさわしく、階段をのぼることによって「ネクタイ絞殺魔」への変貌を遂げる。
 では、彼が次の犯行に及ぶ場面はどうか。今度の犠牲者は、「間違えられた男」ブラニーのガール・フレンドであるバーバラ(アンナ・マッセイ)だ。いうまでもなくこの一件により、ブラニーはいっそう窮地に立たされることになる。
 犯行は、共同住宅の二階に位置するラスクの自室で行われる。したがって当然、ラスクもバーバラも階段をのぼる。とはいえ階段をのぼるのは彼らのみではない。二人を捉えるカメラじたいもまた階段をのぼり、そしてさらに降りる。いったいどういうことか。
 その場面では、二人の登場人物が階段をのぼり、室内に入るところを捉えたあと、カメラはゆっくりと階段を降りながら後方へ退いていって屋外へと出て、最終的には車道を渡りきってしまう。階段での様子から共同住宅の全景がおさまる位置でカメラが停止するまでの過程が、切れ目なく撮られているのだ。実際は『ロープ』での試みのように、ふたつのショットを巧みに編集してひとつのカットに見せているのだが、いずれにせよこのショットは極めて見事というほかない。
 忘れてならないのは、ヒッチコック映画において誰かが階段を降りるとき、その場は常に緊迫した状況にあるということだ。つまりここでは、カメラじたいがゆっくりと階段を降り、異様な緊張感で画面を満たすことで共同住宅の一室で起こるであろう惨劇を示唆しているのである。直接的な描写を介さず、登場人物とカメラがともに階段をのぼり降りすることのみにより、やがて起こる出来事の内実をも示してしまうこの場面は、階段を描き続けたヒッチコック映画におけるひとつの到達点と見るべきだろう。
 リチャード・ブラニーに葡萄をくれて競馬の勝ち馬予想を教えてくれた友人とは、ボブ・ラスクだ。ラスクが本物の「ネクタイ絞殺魔」である以上、ニセモノのブラニーに対して彼が常に優位に立つ存在として描かれるのは必然的といえよう。警察に追われる身となったブラニーは、別の友人にいっとき匿ってもらえたものの見はなされてしまい、ラスクのもとを訪れる。何も知らぬブラニーは、ラスクこそ頼るべき真の友と判断したのだ。
 結局ブラニーは、ラスクの罠にはまってあっさり警察に逮捕され、裁判で終身刑を言い渡されてしまう。だとすれば『フレンジー』は、ヒッチコック映画においてついに初めて「間違えられた男」が「間違えられた」まま階段をのぼった結果の「変化」を全うし、本物に成りきって物語を終えようとしているのだろうか。
 そうではない。ブラニーは、たしかに「間違えられた」ままではあるが、だからといって本物の「ネクタイ絞殺魔」に成りおおせたわけではないのだ。あまりに不条理な現実に直面したブラニーは、そこへ到ってようやく、すべてにおいて自分が無自覚すぎたことを痛切に実感する。裁判で判決を告げられた直後にブラニーが叫ぶ言葉が、そのことを明確に告げている。まるでヒッチコック映画の規則を作中にいながら完全に見抜いてしまったかのように彼は表明するだろう。自分を罠にはめた本物の「ネクタイ絞殺魔」ボブ・ラスクへの復讐を誓った彼は、こう叫ぶのだ、「本物の殺人者に成ってやる」と。
 つまりブラニーは、確実な「変化」を受け入れると宣言したのだ。間もなく監獄へ送られようとしている男が、およそ不可能な復讐を世間に公表するという、荒唐無稽な意志の発露。あるいはこれ以上に、自身の無実を訴える言葉はないともいえよう。
 いずれにせよ、「本物の殺人者に成ってやる」というあまりに具体的な台詞は、その後のドラマの展開を大胆なまでに予告してしまっている。これは端的に過剰な台詞であり、ゆえに感動的だ。なぜなら当の言葉は、物語内容を超えて、ヒッチコック映画の枠組みをも逸脱し得るような台詞だからである。しかもそれは、虚構の秩序を乱すことなく作中で振舞ってきた一人の登場人物によって唐突に口にされている。ゆえに過剰で感動的に響くのだ。
 では、そんな台詞を堂々と叫んでしまったリチャード・ブラニーは、自らの予告どおり「本物の殺人者」に成れたのだろうか。果たして彼は、決定的な「変化」を遂げられたのか。
 結果は誰もが知るとおりだ。刑務所を脱け出すつもりでわざと階段から転げ落ちて《﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅》入院したブラニーは、囚人仲間の協力を得て病院をも脱走し、ボブ・ラスクの住む共同住宅に辿り着く。鉄パイプを持ち、ニセモノが本物に復讐することで決定的な「変化」を遂げるべく、ブラニーは階段をのぼる。
 ドアを開けて室内に入った彼は、シーツで全身を覆われた誰かが横になっているベッドへゆっくりと近づいてゆく。その人物をラスクだと判断したらしいブラニーは、両手で握り締めた鉄パイプを何度もベッドめがけて振り下ろし、復讐の感触を味わう。息をきらし、シーツに手をかけてそれを捲ると、ベッドのうえには絞殺された女の死体が横たわっている。ブラニーは唖然とするほかない。
 そこへ一人の男がやってくる。現れたのは、ブラニーの裁判後、判決に疑念をもち、捜査を再開してみたところボブ・ラスクこそが本物の「ネクタイ絞殺魔」であると突き止めた刑事(アレック・マッコーウェン)だ。
 二人は顔を見合わせ、ブラニーが何か言おうとするや、階段のほうから不審な物音が聞こえてくる。死体を詰めるための大きなトランクを引きずりながら、ラスクが階段をのぼってきていたのだ。思わぬ状況で出くわした三人は声も出ず、ラスクが運んできた大きなトランクが音をたてて床に倒れた映像がそのままラストショットとなり、映画は終わる。つまりリチャード・ブラニーは、決定的な「変化」を遂げて本物に成ることに失敗したのだ。
 『フレンジー』は、またしても一人の失敗者を生みだしてしまった。だがこの失敗は、過去のヒッチコック映画における「変化」の失敗とは明らかに異質だ。そこに到る過程には、確実な「変化」へ向かう者の強い意志がはっきりと認められる。リチャード・ブラニーが叫んだあの過剰な台詞がそれを裏づけている。そしてその、ニセモノが本物への「変化」を遂げようとする強固な意志は、次の作品『ファミリー・プロット』へとたしかに受け継がれているのだ。
 あるいは『フレンジー』とは、「変化」の失敗者たちを封印する、墓標を意味していたのかもしれない。ラストショットに映された大きなトランクは、死体を詰めるために用意されたものであり、床に倒れた長方形のそれはまさに墓石のように見えぬでもない。階段をのぼることにより、トランクは墓と化し、ヒッチコック映画のキャラクターたちが辿った「変化」失敗の歴史をその中に閉じこめる。そんな解釈も、あながち間違ってはいないのかもしれない。

 『ファミリー・プロット』ではふたつのプロットが並行して語られ、次第にそれらが交錯していって最後にひとつにまとまる。一方が、インチキ霊媒師ブランチ・タイラー(バーバラ・ハリス)と彼女の情夫であるタクシー運転手ジョージ・ラムリー(ブルース・ダーン)の物語。他方が、誘拐犯アーサー・アダムソン(ウィリアム・ディヴェイン)とその情婦フラン(カレン・ブラック)の物語。表の顔は宝石商である誘拐犯アダムソンは、身代金として手に入れたダイヤモンドをコレクションしている。
 いうまでもなく、インチキ霊媒師ブランチが『ファミリー・プロット』におけるニセモノ的存在である。彼女はいわば自ら積極的にニセモノである状態に身を置き、人を騙して商売するしたたかなキャラクターだ。では本物は誰なのかといえば、誘拐犯アダムソンが当てはまる。犯罪者だから本物であることに自覚的なのかといえば、そうではない。ここでアダムソンを本物と見なすのは、彼が犯罪者として設定されているからではないのだ。
 ふたつのプロットは、遺産相続の必要があるため消息不明の甥を捜しだしてほしいと、富豪の老婦人より依頼されたインチキ霊媒師ブランチが、その居所を突き止めたところで重なり合う仕掛けになっている。なぜそうなるのかといえば、老婦人の亡き妹が生んだ私生児とされる甥の正体は、誘拐犯アダムソンだからだ。ここで彼こそ本物と認めて議論を進めねばならぬのは、それが理由なのである。アダムソン自身は自らの出自を無視したまま物語のたいはんをすごしている。アーサー・アダムソンという登場人物は、いわば無自覚な本物なのである。
 老婦人の親族アダムソンを捜しだしたブランチは、彼に遺産相続の権利があることを直接伝える。ところがブランチはその場で、身代金の宝石を受け取りに出かける間際だったアダムソンと情婦のフランが誘拐犯だと知ってしまい、薬で眠らされて屋敷の地下室に監禁される。
 アダムソンらの留守中、ブランチを迎えにきたジョージ・ラムリーは、彼女の車が屋敷の前に停められているにもかかわらず、どこにも本人の姿が見えないことに不審を抱き、屋内に入りこむ。しかしラムリーは、ブランチのバッグと血のついた衣服を見つけたものの、彼女の行方をつかめない。
 ラムリーが二階を捜そうとして階段をのぼりかけたとき、折悪しくアダムソンとフランが仕事を果たして帰ってくる。ここでようやく主な登場人物たちが一堂に会し、ニセモノ対本物の直接対決へと到ることになるのだが、それはじつにあっけなく収束する。ニセモノの力は、いとも簡単に本物を凌駕してしまうのだ。
 アダムソンとフランは、秘密を知ったブランチを自殺に偽装して殺すしかないともくろむ。二人はまず、眠ったままベッドに横になっているブランチを地下室の外へ運び出そうとするのだが、その前に事態は急展開を見せる。アダムソンとフランが地下へやってくるより先にブランチは目をさまし、ちょうどそこへラムリーが現れる。ブランチとラムリーは即座にある計略を企て、アダムソンとフランをまんまと陥れて地下室内に閉じこめることに成功し、難なく危機を脱するのだ。
 それがどういった作戦かといえば、まったく単純なものだ。寝たふりをしたブランチは、アダムソンに抱き起こされそうになったところで突然ベッドに強くしがみつく。アダムソン一人では彼女を連れ出せそうにないと見て、手を貸さねばならなくなったフランが部屋の奥まで進み入ったタイミングで、ブランチは二人を押しのけて急いで室内から出てゆく。と同時に、隠れて待機していたラムリーが素早くドアを閉めて鍵をかけ、誘拐犯の二人組を閉じこめる。たったこれだけのことだ。
 たったこれだけのこととはいえ、この逆転劇には重要視すべき点がある。自ら積極的にニセモノ的立場を選択したブランチが、ここでも偽るという行為に徹したことだ。そんなブランチに向かって、ラムリーは「うまくだましたな」と声をかける。たしかにこの逆転劇は、「うまくだました」結果といえる。ニセモノ的存在による徹底した偽りの姿勢が、本物に対する完全な勝利をもたらしたのだ。
 すなわちバーバラ・ハリス演ずるインチキ霊媒師ブランチとは、積極的かつ戦略的に自身をニセモノとして仕立てあげ、最後までそれを貫いたキャラクターなのである。本物であることに無自覚だったアーサー・アダムソンが彼女の単純な計略に引っかかってしまうのも、アダムソンがひたすらに無自覚な本物にすぎなかったためだろう。事実、アダムソンは富豪の親族として生まれた過去を一度は捨てた男なのであり、本物であることをあらかじめ放棄しているのだ。
 誘拐犯を捕まえたことにより報奨金を得られると喜ぶブランチとラムリーは、強奪されたダイヤモンドを見つければさらに大金が手に入ると気づく。興奮の醒めないブランチとラムリーの二人はその直後、何を経験することになるのだろうか。
 突如意識が朦朧となり、ふらふらと歩きはじめたブランチは、心配そうに声をかけるラムリーのことは気にもとめず、地下から一階へあがる階段をのぼってゆく。仕方なくラムリーは彼女を追いながら呼びかけ続けるが、ブランチはなおも無言で階段をのぼる足をとめず、そのまま二階へ向かおうとする。
 そして彼女は階段の中途で立ちどまり、視線の高さに位置するシャンデリアの一部分を指さすのだ。するとその先には本物の大きなダイヤモンドがぶらさがっていて光を放っており、再び興奮したラムリーが「すごいぞ、本当の霊能者だ」と叫ぶ。そこでブランチは我にかえり、特に取り乱しもせずにこの超常現象をすんなり受け入れてしまう。
 これが、『ファミリー・プロット』における決定的な「変化」の場面だ。ヒッチコック作品にくりかえし登場するニセモノ的存在がかつて一度も果たしえなかった、階段をのぼることによる「変化」が、「発見」とともにここでたしかに遂げられたわけだ。
 自ら積極的かつ戦略的にニセモノであろうとし、偽りの行為に徹したキャラクターにより実現された掟やぶりの瞬間。それを目にするや、ここに到る失敗の歴史に注目してきた論者の中に、えもいわれぬ感動がこみあげてきたことを正直に告白しなければなるまい。
 いずれにせよ、この場におけるバーバラ・ハリス演ずるブランチの奇妙なほどの落ちつきぶりには狐につままれたような心地にもさせられる。ニセモノに徹したブランチは、不徹底な本物を葬り去り、自分自身の身にいきなり生じた超常現象にもまったくたじろがず、真の「変化」を体現する。平然と微笑みすら浮かべてみせる彼女は、それが異例な態度だとも思っていない様子だ。
 『ファミリー・プロット』が、最後のヒッチコック映画であることは周知のとおりだ。だが、製作準備段階で心臓発作を患い、ペース・メーカーまで移植したという七七歳の巨匠監督が、これほど楽天的で出鱈目なラストシーンを演出し、しかもそれを遺作としている事実にただ驚かずにはいられない。また、そこで描かれた出来事の舞台が階段上だったことをあわせて考えると、感動はひときわ深まる。
 ヒッチコックの階段は、どれも特別な装飾が施されているわけではなく、どんな映画でも見かけるようなセットの一部にすぎない。しかしそうした、ごく普通の舞台装置である階段が作中で担う役割は、これまで見てきたとおり極めて重要で必要不可欠なものであり、厳密な規則性を帯びている。加えてその、階段というひとつの舞台装置を介して起こる出来事の数々が、結果的には巨匠の作品歴を通して展開される長大な物語として再構成し得るほどの一貫性を備え、クライマックスと呼べる瞬間さえ用意していたわけだ。まさに驚嘆するほかない作家性の刻印である。
 その意味で、『ファミリー・プロット』の結末は階段という影の主役が生みだした美しく見事なハッピーエンディングだといえよう。そこではもはや、ニセモノであることも本物であることも問題にはならない。これはそう、映画というジャンルならではの快い感触をもたらす、真贋の二項対立を超えた飛躍の体験なのだ。

参考文献
アルフレッド・ヒッチコック/フランソワ・トリュフォー『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』(山田宏一・蓮實重彦訳 晶文社 一九九○年)
『やっぱりサスペンスの神様! ヒッチコックを読む』(筈見有弘編 フィルムアート社 一九八○年)

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