Across The Universe――大江健三郎追悼

※初出/『文學界』(2023年5月号)

 大江健三郎はかっこいい。遅慢なわたしの読書歴にとって大江健三郎はだれよりもかっこいい文章を書く小説家として登場した。具体的にはどういうことか。それはすなわち「***の化粧部屋で、一発やりませんか? 一発やってみましょうよ!」とか「オジサン、オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!」というような言表の効果を最大限に発揮させるための方法を熟知している文筆家に、二〇歳かそこら当時のわたしが決定的なインパクトを受けてしまったことを物語っている。
 むろんのこと、「オマンコ一発」といった身も蓋もない卑語を堂々と書きつける文学的姿勢がいさましくて好印象だと言いたいのではない。そんな子どもにでもできるというかむしろ子どものほうが得意であるにちがいない下ねたの投入じたいにはさしたる価値はない。また、全作くまなくチェックしきったわけではないのでただの勘で言わせてもらうが、時代的限界を思わせる表現はまぬかれていないにしても、「有害な男性性」の積極的な誇示は大江作品においては稀ではなかろうかという気もする。しかしそうはいっても、そもそも「男性作家」が「オジサン、オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!」などと露悪的に記すことそのものが典型的な「男性原理」に即した「有害な男性性」の発露にほかならぬという観点もあろうから、この話題にはさらなる検証が必要かもしれない。
 いずれにせよ大江健三郎が熟知しているはずの、「***の化粧部屋で、一発やりませんか? 一発やってみましょうよ!」とか「オジサン、オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!」といった言表の効果を最大限に発揮させるための方法とはなにかを知りたければ、まずはその出典たる『洪水はわが魂に及び』を読みとおしてみなければならぬのは当然として、この場でたいへんざっくりとだけ説明すれば要するに、作中において当該台詞が放たれるまでの文脈形成﹅ ﹅ ﹅ ﹅がそれにあたるということになる。
 当該台詞が放たれるのは「第三章 見張りと威嚇」の後半だが、そこにいたるまでの過程を大江健三郎はスリラー色を強調するようにして慎重に組みたてている。加えて核時代の危機がもたらす終末感ただよう射程のひろい世界観を提示しつつ、出来事上で暴力性の高まりを演出し、それらの経緯を硬質な構文ながらときおり作者特有のユニークな比喩を混入させてカラフルな想像をかきたてもする文章でつづり、作品としてのキャパシティーのおおきさを随所で感じさせてゆく。作者ならではの表現としては台詞の語尾に「よ」を多用するきわめて印象的な言いまわしも見すごしてはならず、とりわけ「知恵遅れの幼児」ジンが「野鳥の声」を言いあてる際の「ですよ」の駆使が魔法めいた作用を生み、『洪水はわが魂に及び』という作品の魅力と固有性をいっそう色濃いものにしている――こうした創作上のひきだしの多さを目のあたりにするたび、『万延元年のフットボール』よりもこちらのほうがすぐれた小説であるという判断をわたしは強めている。
 かような文脈形成﹅ ﹅ ﹅ ﹅を経て、「***の化粧部屋で、一発やりませんか? 一発やってみましょうよ!」とか「オジサン、オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!」がついに放たれる。それは「犯罪少年ども」の襲撃に警戒する子づれ隠遁者たる主人公が、先ごろ刑事を美人局的な罠にかけて拳銃強奪を成功させている「小娘」とはじめて直接やりとりをかわすスリリングな場面なのだが、じゅうぶんな文脈形成﹅ ﹅ ﹅ ﹅の効力のもと、卑語と丁寧語をたくみに組みあわせつつ「!」つきで「オジサン、オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!」とパワフルに表現されたことにより、字義や字面からはるかに飛躍し未知との遭遇をも実感させてしまう最大級の異化を達成しているのである。
 こういうじつに手のこんだかっこよさもさることながら、大江健三郎は決め台詞的な効果をもって場面を締めるシンプルな一文にもしばしば絶妙な筆力を感じさせてくれる。自分にとってのファーストインパクトたる大江作品「不満足」(これについては『群像』掲載の追悼文に詳述した)を締めくくる「大人たちの朝だ」に接した瞬間にはふるえがきたものだが、『個人的な体験』終盤における名だかい一節「かつてあじわったことのない深甚な恐怖感がバードをとらえた」にも「かつてあじわったことのない深甚な」一撃を食らったわたしは長らくその影響下にあり、「鏖」という短篇の結末を書く際もお手本にしたほどだった。
 そういえば、新潮文庫版『個人的な体験』のあとがきにあたるのであろう「《かつてあじわったことのない深甚な恐怖感がバードをとらえた。》」のなかで「この小説を発表した当時、集中的に批判を受けたのが、終幕の部分についてであった」と大江健三郎は書き、「この小説が英訳された際にも、[……]ふたつのアステリスク以後を切りとってはどうかという申し入れがあり、僕は考えた末それを拒否した」と打ちあけているが、その選択はただしかったと一読者としては思う。仮に「かつてあじわったことのない深甚な恐怖感がバードをとらえた」のあとの、「ふたつのアステリスク以後を切りとって」いたら、『個人的な体験』における「多元的な宇宙」の主題があいまいに終わり、大江健三郎作品のマルチバース展開をせばめてしまっていたかもしれないからだ。該当箇所を引用しよう。
バードはちょっと眼をつむり、数日前アフリカのザンジバル行きの貨物船に乗りこんだ火見子の脇の、あの少年じみた男のかわりに、赤んぼうを殺したバード自身が乗りこんでいる、充分に誘惑的な地獄の眺めをえがいてみた。火見子のいわゆるもうひとつ別の宇宙ではそのような現実が展開しているわけなのかもしれない。それからバードは、かれ自身の選んだ、こちらがわの宇宙の問題にたちかえるべく、眼をひらいてこういった」
 ここは作中人物たる火見子の見解にならうかたちで締めくくりたい。すなわちこの「宇宙」において大江健三郎はつねに健在なのだから、今後われわれは長江古義人はじめ多様な変異体の動向を追いかけるマルチバース読解を推しすすめてゆくことになるだろう。「そのような現実が展開しているわけなの」だとすれば、大江健三郎はあらゆる時空間において「***の化粧部屋で、一発やりませんか? 一発やってみましょうよ!」とか「オジサン、オマンコ一発ヤッテミマショウヨ!」というような言表の効果を最大限に発揮させているにちがいなく、最高にかっこいい一文のバリエーションをさまざまに書きつづっているはずなのだ。

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