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北上川から隅田川

 少しずつ時間をかけて日に焼けてしまった印刷物みたいに我が家の親戚付き合いは消滅していたし、いったんそうなると日々の生活の中で元々なかったものとして上手く人生に溶け込んでしまう。

 だから「お墓参りに行こう」と提案したのは僕ではなく妻だった。

 新幹線から見える北上川はずっと見えてる訳ではなくて途切れ途切れで、何かしっくりとこない。しっくりとこない余韻をぶら下げながら目的地に向かった。

 東北の某県の山中にある曹洞宗のお寺に到着すると天気予報通り雨が降り始め、静けさの中で雨だけが何かを主張しているようだった。

 三十年以上ぶりに訪れた墓地を見ても特に何も思わなかった。近所をうろつく黒猫がよく見たら錆猫だったと気づいた時や、何年も手入れされずに放置されたテニスコートを見た時に生じる感情の揺れよりもわずかに大きな揺れはあったかもしれないけれど、際立った感情はなく、ただなんとなく申し訳ないような心持ちでしばらくぼうっとしていた。

 震災の痕がまだ少し残っているなあ。シーズンではないせいかどのお墓もお供えの花が枯れているなあ。いつの間にかカラスが鳴いているなあ。辺りをぐるっと見回した瞬間にそんな事を考えた。

 このお墓に眠る人達は果たして僕らの来訪を良しとしているのか、と考えながらお線香を焚いてお墓の前で手を合わせた。

 お寺を辞する頃には雨が上がって日が差してきたので「山の天気は変わりやすいというけれど」と節をつけて言いながら妻の方を見たが特に反応らしい反応はなかった。

 父は十三人兄姉の末っ子。幼くして亡くなった兄姉を除くと、二人の兄と三人の姉がいるらしい。僕は幼い時に伯父達と会っている。でも父の上の兄とだけは会っていない。

 法名碑にはこの人の名前が書かれていないので東京に帰ってから父に理由を尋ねると、別の場所にお墓があるとのことだった。

 父が生まれたのは終戦の前年なので、海軍兵として戦地に赴き、大怪我をして命からがら帰還した長兄と父はけっこう歳が離れている。

 その怪我のせいで家業が継げず、次兄に家督が譲られたそうだ。

 幼い頃から父はきっと長兄が好きだったのだと思う。

 父は「戦争の恩給を貰うための証人を探して欲しい」と頼まれたが「自分は頭が悪いから探して上げられなかった」といつも後悔していた。

 そして、その長兄は家督を譲った後、浪曲師になるのだけど、父はいつも誇らしげにその話をしていた。(浪曲とはいわゆる浪花節と呼ばれるもので三味線を伴奏に語ったりうなったりしながら物語を進行する話芸。今、人気を博している浪曲師と言えば玉川大福さんあたりだろうか。)

 浅草に行って浪曲師になり、三味線を弾く連れ合いとドサ周りをしていたらしい。その頃の話を父は長兄から聞いて覚えていた。

 僕は父からその伯父の話を聞くたびに会ってみたかったなあと常々思っていた。

 家督を譲って上京し、浪曲師の道を歩んだ伯父。

 その伯父の影を追うように腕一本で上京し、東京の下町に暮らした父。

 伯父はいったいどんな人物だっただろうか。

 僕という人間が浅草や錦糸町といった場所と馴染み深くなったのはごく自然な事なのかもしれないなと心でつぶやきながら隅田川に映る雲の行方をじっと見つめていた。

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↑noteを始めて間もなく家督を継いだ方の伯父さんについて書いた事がありました。


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