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あぶどぅるの世界史講義~中世ヨーロッパ編②~

東西教会の分裂

・ペテロを祖とする教皇がトップという組織構成。

・封建社会の進展とともにキリスト教も普及し、教会の地位は向上。

・カトリック(=普遍的)と名乗り、教義統一を進めた。

・しかし、古代ローマ帝国が分裂→ビザンツ教会とローマ教会は対立

726年…聖像禁止令

・ビザンツ皇帝のレオ3世が発布。→聖像崇拝論争へ。

ビザンツ帝国はイスラームとの接触の中で偶像崇拝を排撃するようになっていった。一方でローマ教会はゲルマン人への布教などから聖像を使うことを容認していた。
この結果、ローマ教会はビザンツ帝国を見限り、あらたな世俗権力を探す→白羽の矢が立ったのがフランク王国である。(前回を参照)

1054年…教会の東西分裂

・東西教会(ローマとビザンツ)は最終的に分裂。

・ローマ教会=カトリック、ビザンツ教会=ギリシア正教という名称。

修道院運動

・ギリシア正教と分裂したローマ=カトリック教会では聖職階級制度(ヒエラルヒー)を導入→しかし世俗権力との癒着、腐敗が進む。

教会勢力は王や諸侯から寄進を受け、荘園領主化した。彼らは次第に政治的な権力を持つようになり、世俗諸侯に対して聖界諸侯と呼ばれた。

・6cごろにはベネディクトゥスが世俗を離れて信仰を深め労働にいそしむ場所=修道院をモンテ=カッシーノに建てた。(「祈り、働け」)

→10c頃には南フランスにクリュニー修道院が開かれベネディクトゥスの戒律への立ち返りをはかる。

他にもフランスではシトー派ドミニコ修道会が生まれ、イタリアではフランチェスコ修道会が生まれた。

グレゴリウス7世

・クリュニーの精神をもとにローマ教会ではグレゴリウス7世が聖職売買や妻帯を禁じる種々の改革を進めた。=グレゴリウス改革

叙任権闘争とは何か

・聖職叙任権とは司長や修道院長など聖職者の任命権のこと。

・聖職叙任権をめぐって教皇と皇帝は対立を深めた。叙任権闘争とはどちらが聖職者の役職を決めることができるかという権力争い。

グレゴリウス7世とハインリヒ4世の対立

・カノッサの屈辱…グレゴリウス7世は「叙任権は教会のみにある!」と主張したが、ハインリヒ4世はそれに反対し教皇の廃位を決議。

→しかし逆にグレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門してしまい、困り果ててたハインリヒ4世は北イタリアのカノッサで許しを請う。

結果として教皇>皇帝という構図ができた。

・カノッサの屈辱の後も教皇と皇帝はしばしば対立し、叙任権闘争は1122年のヴォルムス協約で妥協が成立した。

叙任権闘争の間には教皇ウルバヌス2世が現れ十字軍を提唱したことで教皇権は強化、その後13cのインノケンティウス3世のもとで教皇権は絶頂期を迎えるが、1303年にはアナーニ事件が起き教皇と皇帝のパワーバランスは逆転した。

ビザンツ帝国の成立と発展

・330年…ローマ帝国がビザンティウム(コンスタンティノープル)に遷都。

395年…ローマ帝国の東西分裂=東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の誕生。

・ギリシアの文化を継承し、ローマの皇帝専制を引き継いだ。

・教会を皇帝の支配下に入れた(=皇帝教皇主義)というのも大きな特徴。

・軍管区制(テマ制)と屯田兵制を導入、のちにはプロノイア制に移行。

ユスティニアヌス帝

・6c頃の人物で東ゴートとヴァンダルを滅ぼし旧ローマの領土を回復

トリボニアヌス『ローマ法大全』の編纂をさせる。

ハギア=ソフィア大聖堂ビザンツ様式)を建設。

ヘラクレイオス1世

・7c頃の人物で軍管区制(テマ制)屯田兵制を採用。

大土地所有を抑制し、封建制への移行を阻止するという目論見

軍管区というものをいくつか設けてそこに行政と軍事を担う司令官を派遣し統治、世襲の兵役義務を持つ屯田兵を各地に入植させた。

→しかし、11cには有力者に土地管理を委ねるプロノイア制が進行し帝国は衰退していく。

ビザンツ帝国のその後

・1054年…東西教会の分裂(前述)

・1204年…ラテン帝国が建てられる。(後述)

・1453年…オスマン帝国のメフメト2世により滅ぼされる。

十字軍の進展と影響

十字軍の背景

・11~12cに聖地巡礼の熱がヨーロッパで高まる。→ローマ・イェルサレム・サンチャゴ=デ=コンポステラが三大巡礼地。

セルジューク朝が小アジアへ進出→ビザンツ皇帝がローマ教会に助けを求める。

1095年…クレルモン公会議

ウルバヌス2世が十字軍の派遣を決定。聖地イェルサレムをイスラーム勢力から奪還しようという機運が高まった。

十字軍に際してはローマ教皇、諸侯、商人らがそれぞれの思惑で動いていた。ローマ教皇は東ローマ教会を自分たちの下に置きたい、諸侯は東方の領土を得たい。商人たちはアジアとの東方貿易を独占したい…といった具合。
同時期にサンチャゴ=デ=コンポステラがあるイベリア半島でも国土回復運動(レコンキスタ)が行われるようになった。

十字軍の内容

第一回十字軍…聖地奪還に成功、イェルサレム王国を建てる。

→しかし、100年もしないうちにアイユーブ朝のサラディンに奪還されてしまう…

第三回十字軍…サラディンの聖地占有を受けて神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世(赤髭王)、イングランド王リチャード1世(獅子心王)、フランス王フィリップ2世が派兵→イェルサレムの奪還はできず。

第四回十字軍…資金を提供したヴェネツィア商人の利権に引きずられて、コンスタンティノープルを占領→ラテン帝国を建てる。

・第七回十字軍…ルイ9世が組織するも失敗、十字軍は終わりを迎える。

十字軍は聖地奪還を目的としていたが失敗。出費がかさみ資金源としてヴェネツィア商人を頼るものの、彼らは交易の拠点を拡大することを優先し、第四回十字軍は本来の目的から外れてしまった。
中には少年少女で構成された少年十字軍も行われたが、多くが途中で奴隷として売り飛ばされる悲劇も起きた。

十字軍の影響

・十字軍をきっかけにローマ教皇権は高まっていったが、度重なる失敗の中で教皇の権威は失墜していく。

・経費がかさみ諸侯や騎士の力は衰え、変わって国王が領地を没収し力を蓄えた。

・北イタリアの諸都市は東方貿易に乗り出した結果、大陸内部でも商業活動が盛んにおこなわれた。→封建社会の変質

イスラーム世界やノルマン人の商業ネットワークと結びつき、盛んに遠隔地貿易が行われるようになった。これを「商業ルネサンス」と呼ぶ。

・十字軍に際し宗教騎士団が結成された。特にドイツ騎士団は盛んに東方植民運動を行い、これがプロイセン公国につながった。