あぶどぅるの世界史講義〜中世ヨーロッパ編①〜
ゲルマン人の活動
大移動以前の古ゲルマンの資料としてカエサルの『ガリア戦記』とタキトゥスの『ゲルマニア』がある。
375年…ゲルマン民族の大移動
・フン族(Huns)の西進をきっかけとして東ゴート族を服属。→西ゴートはドナウ川を渡りローマに逃げた。
→これを契機としてゲルマン人の大移動が開始。
・フン族はアッティラ王が最盛期。→カタラウヌムの戦いで西ローマとゲルマンの連合軍に敗れる。
フン族は匈奴の末裔とされる。アッティラはイタリアまで手を伸ばしたが教皇レオ一世に説得されローマ侵入を諦めたと言われている。
・西ゴートはアラリックの下ローマ→イベリア半島まで進出して西ゴート王国を建国。
・476年…オドアケルによって西ローマが滅びる。→東ゴートのテオドリックに敗れ、イタリアに東ゴート王国が建国。
・北アフリカにはヴァンダルが建国。
後に東ゴートとヴァンダルはユスティニアヌス治下のビザンツ帝国に征服される。
・フランスにはブルグンド王国が建国。
・イタリアではランゴバルド王国が建国。
・アングロ・サクソン・ジュートがブリタニアに建国→七王国(ヘプターキー)の成立。
七王国はウェセックス王エグベルド(エグバード)によって統一されイングランドは1つにまとまる。しかし後にノルマン人の侵略を受けて征服されることに。
・フランクはライン川の左岸に拡大、西ヨーロッパ世界を牽引する存在になっていく。
西ローマ帝国の復活
フランク王国
・5C末…メロヴィング朝のクローヴィスがアタナシウス派に改宗。
クローヴィスはもともと西ローマ帝国支配下にあったガリアの人々の支持を得るためキリスト教に改宗した。
他のゲルマン人もキリスト教を受け入れていたがニケーア公会議で異端とされたアリウス派であった。
→王権は弱くなり、イスラーム勢力がイベリア半島に侵入。
・トゥール=ポワティエ間の戦い…宮宰カール=マルテルがウマイヤ朝を破る。
・カール=マルテルの子供ピピンがカロリング朝を開く。
カール=マルテルはメロヴィング朝を実質的に支配→その子ピピンがクーデターを起こして新王朝を建て、それをローマ教皇も承認した。
→ピピンの寄進…ラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進。…ローマ教皇領の始まり。
・ピピンの子供のカール大帝の下で西ヨーロッパの統一。
・カロリング=ルネサンス…学者を招いてラテン語や古典文化な研究など学芸復興に励む。
・800年カールの戴冠…教皇レオ3世によってローマ皇帝として認められる。
ピピンの寄進でフランク王国はローマ教皇と関係を深めた→カールの戴冠によりフランク王国はキリスト教の擁護者となった。
また、カール大帝の下で古代ギリシア・ローマの文化、ローマ=カトリックのキリスト教文化、そしてゲルマン文化の融合が果たされた。ex)クリスマス
カール大帝が教皇から戴冠を受けたことで、教皇>皇帝という力関係が暗黙のうちにできてしまった。(→中世ヨーロッパ②を参照)カールはそのことを気に病み、息子には教皇から冠を受けないことを強く言いつけたが、ルートヴィヒ1世はルイ敬虔王と呼ばれるように教会には従順だった。
・カール大帝の息子ルートヴィヒ1世がフランクの伝統に基づき領地を分割→ヴェルダン条約、メルセン条約で領土分割。
870年メルセン条約…今のフランス、ドイツ、イタリアの境界ができた。
東フランク王国
オットー1世がマジャール人をレヒフェルトの戦いで撃退。
962年…オットーの戴冠→神聖ローマ帝国の成立。
オットーの戴冠の意味…フランク王国に代わり神聖ローマ帝国がキリスト教の擁護者となったということ。
西フランク王国
パリ伯ユーグ=カペーのもとでカペー朝が成立。
これによって最初のフランス王朝が成立。ただし王権は非常に弱く実態は諸侯の連合に過ぎなかった。
ノルマン人の活動
ノルマン人(ヴァイキング)はスカンディナヴィア半島にスウェーデン王国・ノルウェー王国・デンマーク王国を建国。
→8C頃からヨーロッパ各地に移住を開始。
・ノルマンディー公国…10C初めロロによって率いられたノルマンの一派によってフランス北西部に建国。
→イングランドに侵入する様になりアングロ・サクソンと対立するがアルフレッド大王によって防がれる。
→1016年にノルマンのカヌートによってイングランドは征服される。(デーン朝の成立)
→1066年ノルマン=コンクェスト(ノルマンの征服)…一時アングロ・サクソンが盛り返すものの、ノルマンディー公ウィリアムがフランスから侵入。
→ヘースティングズの戦いで勝利しノルマン朝を創設。
ノルマンディー公ウィリアムはウィリアム1世としてイングランドを支配することになる。
・両シチリア王国…ノルマンディー公国がシチリアまで進出、ルッジェーロ2世が建国。
・ノヴゴロド国…ルーリックの率いたノルマン一派がロシアに建国、段々とスラブ化していった。→ロシアの起源に。
・キエフ公国…ノヴゴロド国から分かれたオレーグによって建国される。
キエフ公国はウラディミル一世の時にギリシア正教に改宗、婚姻政策を通じてビザンツ帝国と関係を深め発展していたが1243年から約250年間キプチャク=ハン国の支配を受けることに(タタールのくびき)
封建社会・荘園制の進展
封建制の背景と内容
・ローマ帝国が滅亡しフランク王国が発展していた頃はノルマン人、マジャール人、イスラーム勢力の侵入を受け王権は弱体化、貨幣経済も衰退した。
→この状況に対し諸侯は相互に防衛する契約を結び、騎士を養い戦力として保有した。これが封建社会成立の契機となった。
・諸侯は臣下の騎士に土地を与え(封土)、騎士はその見返りに諸侯に軍役の義務を負う=封建的主従関係。
・諸侯や騎士は領主として農民を保護する一方で彼らに賦役と貢納を課した。→こういった土地の単位を荘園という。(特にこの段階を古典的荘園という。)
荘園制はゲルマンの従士制とローマ末期の恩貸地制が合わさり成立したとされる。
・荘園の内部は農民保有地、領主直営地、入会地(共同利用地)の3つに分かれている。
・農民は農奴と呼ばれ移動できず、相続や結婚も制限された。領主の力は強大で様々な税を課したり、領主裁判権を行使した。
教会も荘園を持ち領主となった。教会は信者に収穫物の十分の一税を課した。
・11〜12Cには三圃制農業が普及、鉄製の有輪棃も開発され生産力は向上。→大開墾時代
→次第に賦役はなくなり、農民保有地が増え貢納(年貢)に依存するように。=純粋荘園の成立。