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あぶどぅるの世界史講義〜ローマ史編①〜

ローマの起源

・前7C末にラテン人(イタリア人)によってティベル河畔に建国。

・伝説ではロムレスとレムスの兄弟が建国←ウェルギリウス『アエネイス』

ローマ史理解のポイント

・ローマは大きく共和政と帝政に分かれる。

奴隷制と属州によって支えられた。→ラティフンディア

キリスト教との関連性も重要、当初は無関心→迫害。後に国教化して帝国統治にも利用。

・文化面では特に実用的なもの(アッピア街道、ガール水運橋)などに優れるが、芸術はギリシアの模倣と言われる。

ローマ共和政の仕組み

・王様は追放→100%貴族議員による共和政。

・指導するのは貴族で構成された元老院(セナトゥス)

平民(パトリキ)と貴族(プレブス)の身分差。

執政官(コンスル)が政治と軍事を統括。

・非常時には独裁官(ディクタトル)が置かれる。

貴族支配の状況から身分闘争を経て平民が政治的権利を確立。民主共和政へ。しかし貴族支配の性格は存続。

ローマ共和政の歴史

B.C.5C頃…エトルリア人の王を追放→共和政

B.C.494年…聖山事件→護民官設置

執政官・元老院・平民会の3つの権力機関という政治構造の完成。

B.C.450年頃十二表法最古の成文法、平民の権利を守る。

B.C.367年リキニウス・セクスティウス法→執政官の1名を平民に開放、貴族の公有地占有を制限。

B.C.287年ホルテンシウス法→平民会の決議は元老院の承認なしに国法となる。

しかし、この頃平民の有力者が新貴族(ノビレス)となって台頭。

身分闘争によって一応の政治的平等が確立したが、貴族寡頭政治は維持された。↔︎アテネ民主政との違い。

ポエニ戦争から「内乱の1世紀」へ

B.C.272年…ローマがイタリア半島を統一→海外侵略へ。

平民で構成される重装歩兵がローマの戦力。←武具は自弁。

B.C.264年〜146年…ポエニ戦争

・第1回…シチリアを獲得=属州の成立。

・第2回…カルタゴの名将ハンニバルとの戦い。

カンネーの戦いでカルタゴに敗れるもザマの戦いで大スキピオが勝利。

・第3回…カルタゴ滅亡→マケドニア・ギリシアを属州化。

ポエニ戦争を経てラティフンディア(奴隷制大農場経営)が成立。

→しかし、属州から安い穀物がローマ市場に流入する様になったため中小農民は没落→無産市民になる。

→ローマ市民軍の編成がうまくいかなくなってきた。各地で奴隷反乱が相次ぐ。

B.C.2C末…シチリアの奴隷反乱

B.C.133年〜グラックス兄弟の改革→リキニウス法復活で大土地所有を制限、無産市民に土地を配分しようとするも失敗…

無産市民は仕事を求めてローマに集まった。彼らは市民権自体(=投票権)は持っていたので政治家たちは無産市民を取り込もうと「パンとサーカス」を与えた。

→「内乱の1世紀」と呼ばれる国内混乱へ。

「内乱の1世紀」から三頭政治へ

B.C.1C…同盟市戦争→イタリア半島の全自由民に市民権を与える。

ローマは同盟市・自治市・植民市の3つに分けて都市を支配。名前とは裏腹に自由度は同盟市<自治市<植民市。同盟市は権利が著しく制限されており不満が高まっていた。

→平民派(マリウス)と閥族派(スラ)の対立と連動。

マリウスは無産市民を志願させ、私兵化の道を開いたが、将軍の権力闘争に拍車をかける事態に。

B.C.73年〜スパルタクスの反乱クラッスス・ポンペイウスの私兵団が鎮圧。

同時期、ユリウス=カエサルも軍人として台頭。

→3人は密約を結んで元老院に反発、国政を分担するように…第1回三頭政治

カエサルはガリア遠征に成功したことで更に名声を高めた。(『ガリア戦記』)

→ポンペイウスと元老院は結託してカエサルを打倒しようとするが失敗。

カエサルの独裁体制が完成(=共和政の崩壊)。終身独裁官に就き、インペラトル(事実上の初代皇帝)となった。

カエサルはユリウス暦の導入など様々な改革を実行したが、独裁を恐れたブルートゥスに暗殺された。

カエサルの死後は彼の養子のオクタウィアヌスが台頭。

→カエサルの部下アントニウス・レピドゥスと結んで第2回三頭政治が成立。

B.C.31年…アクティウムの海戦→アントニウスがクレオパトラと結んで反発したが鎮圧。

オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を受け、元首(プリンケプス)となる=ローマ帝政の開始

参考資料

・H22年実教出版『世界史B』新訂版 

・H18年浜島書店『世界史詳覧』

・H20年山川出版社『詳説世界史研究』改訂版

・H31年大和書房『2時間でおさらいできる世界史』