「貝殻の歌」書籍化記念

「貝殻の歌」を書籍化することとなりました。
そこでちょっと手を加えたので、再度投稿。 
 1 イケメン

『ロナ~ねえ、めちゃくちゃ申し訳ないんだけどさ、ちょっとカレシ預かってくんない?』
 年末の大掃除のついでに、私はスマホ内も整理していた。不要なアプリを削除、不要な写真を削除、不要なメールを削除……そして迷惑メールボックスをチェックしていたら、そんな「不明な差出人」からのメールを発見した。「ロナ」と私に呼びかける人は、今は一人しかいない。だから差出人は明確に特定できる……のだが。
『ゆーたん。ごめん、メール二週間も前に来てたのに気づかなかった。だって私そのアドレス、登録してないよ? 迷惑メールになってたよ(笑)』
 私は、子供のころはロナと呼ばれていた。幼馴染はゆーたん。あと二週間もすれば成人式を迎える私たちだが、互いの呼び方は幼いころから変わっていない。きっとおばあちゃんになっても変わらないんだろうな、と思う。
 少し待ったが返信がないので、続けてメールを送ってみる。
『またLINEのときみたいにトラブルがあって、急にアドレス変えたの? まあそれはいいとして、カレシ預かる件、詳細不明だけど断る。当たり前でしょ』
 送信後、「女子が急にメールアドレスを変えた場合に考えられるトラブル」を検索していたら、優音から電話がかかってきた。
「ロナ! ごめん! メアド教えてなくて」
「どうせ男から着拒否でもされたんでしょ。で新しい電話番号が欲しくて、急いでスマホ変えて、アドレスの管理なんかほったらかし」
「なんでわかった」
「今ググった。女子が急にメアドを変えた場合のトラブル」
「まじで。さすがロナ。そんなロナに頼みがあんだけど」
「いやよ。いやな予感しかしないもん」
 
 親の職場が、同じA音楽高校の先生。私の両親はピアノ科の教師で、優音の父親は英語の教師だ。ちなみにA音楽院とは、私の祖父が経営している音楽学校で、高校、大学、大学院まである。
 私と優音は家族ぐるみで仲良くしていた。どちらも一人っ子だから、子供時代に一番よく話したのは、間違いなく優音だといえる。
 でも性格はまるで違う。幼稚園のころから、二つ用意された物を選ぶとき、好みがぶつかることはなかった。私は決まって黒や白、せいぜい青か緑を選び、優音はピンクとか赤。鮮やかなら鮮やかなほど、喜んでいた。私はズボン、彼女はスカート。私は眼鏡、彼女はカラコン。いつの時代も私はショートカットで、彼女は見るたびにヘアスタイルが変わる。
 というわけで、彼女は同時に五人の男と付き合っていることもある。私はその反対。初恋の人と付き合いはじめて、もうすぐ一年になる。
「自分で選んだ友達ではなく、あてがいぶちの友達。でも私にとっては、悪い人ではない」と冗談交じりに、優音のことを恋人には説明した。優音を知らなかったら私だって、そういう女を軽蔑する。
 私は、祖父が経営者ということもあり、最初からA音楽学校に入ることしか考えていなかった。一方、優音はピアノを一か月でやめた。バイオリンは買ってもらったあと一年近く放置されていたので、私がもらった。父親とは違って、彼女は英語も全くしゃべれない。
「ロナってさー、今でもテレビ見ない?」
「うん、生まれてから今までで、テレビ見た時間は、合計二十四時間に満たないと思う」
「紅白に出てる人、だれか知ってる?」
「たぶん知らない」
「よかった」
 彼女の音声が、スピーカーホンに変わった。グラスを置く音が聞こえてくる。
「お酒飲んでる?」
「さすがロナ! やっぱ音楽家は耳いい~」
 さすがという言葉がすでに二回。彼女のボキャブラリーが少ないのはよく知っているが、それにしても今日はひどい。
「でもあたしはシラフだよん。それでね~」
「隣にいるカレシが飲んでるんでしょ。分かった分かった。でも私その用件は断るから、何も話さなくていいよ。よいお年を」
「おい」
 慌てる男の声が聞こえた。
「ちょい待てよ。おい」
「ねえロナ。今も海の近くに住んでるんでしょ? カレも海が大好きでさ」
 優音は二週間、私からの返信がなくても、他の方法では連絡してこなかった。実家へ電話するなり、共通の知人を頼るなり、いくらでも方法はあるのに。おそらく私の精神状態を気遣っていたのだろう。
 でも頼み事をまた言い始めるところを見ると、二週間たっても事態が解決していないらしい。
「どんな理由であれ、ゆーたんの男を私が預かるなんてこと、ありえない」
「カレっていっても、十七歳なの。なんか気づいたら、あたしこいつと一緒に暮らしてて。でさ、ちょいトラブっちゃったからさ」
「おい、そこ言わねーのかよ」と男の声。
「だって話が長くなったら、ロナ電話切っちゃうじゃん。でさ、これ以上うちにいると、こいつの仕事がヤバくて」
「仕事? 高校生じゃないの?」
「あ、うん。ちょっと芸能人。だからさ、ほんと、田舎とかに身を隠しておきたいんだわ」
 メールの差出人はすぐ特定できたが、話は不明点だらけだった。
「あのさ、ゆーたん。そんな説明でOKする人いないよ。ゆーたんは仕事ちゃんとできてるの?」
「だよね、うん、わかる。でもごめん、今あんたのお説教聞いてるヒマなくて。あ、あたしの仕事? そーそー飲食店。うん、ちゃんと続いてるって。ただもう、困ったなあ。ロナがリンをかくまってくれないと、あたしも危ないんだよ」
「無理。私には西田さんという恋人がいるんだから、男を家にあげるとか無理。ゆーたんと一緒にしないで」
「わかってる、マジでごめん。ほんと、一瞬だけだから。なんなら西田さんにもあたしから説明しとくから。ご心配なく、絶対こいつ、ゆーたんの好きなタイプじゃないからって、幼馴染として保証するから」
「おい」
 男の声がする。基本「おい」の二文字で済ませているタイプ。文章をしゃべる能力はないらしい。つまり、私がかなり軽蔑しているタイプではある。優音もあながち間違ってはいない。
「ほんと、マジごめん。あと一時間半後に、そっち行かせて」
 私の返事を待たずに、電話が切れた。どれだけヘンな生活をしているのかと、心配になる。
 いたって常識的な両親に育てられたのに、なぜ優音はこんなにも非常識な人間になってしまったのだろう。中学の時に芸能界に憧れて、何かのオーディションに受かったとかで、高校入学と同時に、優音は事務所の寮に入った。
 そこで私たちの距離は大きく開いた。今の優音のことを、私はほとんど知らない。男に利用されているのだろうか。喜んで、男の面倒をみているのだろうか。どちらにしても、私とはやっぱり、全然違うタイプの人間だ。
 仕方がないので、慌てて部屋を片付けていると、20時過ぎにチャイムが鳴った。
「ローナー! 久しぶり~。マジごめん~。この家に来るの、一年ぶりくらい? 引っ越し祝い持ってきたとき以来だよ。相変わらず広いじゃん。これならあと一人くらい住めそうじゃない? ほらペット飼うような気分で。一泊一万円出すから。犬一匹引き取ったと思ってよ」
「無理。ゆーたんならまだ泊ってもいいけどさ……それでも本当はいやだし……」
「じゃ一泊二万円」
「そういう問題じゃない」
「三万。三日泊めてくれたら十万あげる」
「なにそれ。男、お金持ちなわけ?」
「違うよ、あたしからももちろん出すし。ただそれだけ切羽詰まってんだもん」
 優音の目が涙目になってきた。芝居だろう。もともと芸能人になりたかった子だし。
「切羽詰まってる理由、言わなくていいよ。絶対に断るからね」
「ロナ、一週間で、うん、二十五万に、する」
「やめなよ!」
 優音の声が涙ぐんできて、つられたのか、私の声も震えた。うっすら嗚咽交じりになってしまった。
「やめなよ、そんな、お金で解決しようなんて、その男の子に、あんまりだよ。ついでに、私にも失礼でしょう」
 彼女はきまり悪そうに、黙ったままうつむいた。
「玄関寒いからさ、ほんと早くホテル行きなよ」
「あのさ、あたしバカだからつい金でしか言えないんだよね。ガチだってこと。でもなんて言えばいいのかな、その、今回ロナに頼んだのは、ロナがいい人で、信用できて、頭よくて、で、ここが海の近くだからなんだよ。マジただそれだけなんだ」
 今度は私がうつむく番だった。彼女が本気で困っていて、絶体絶命ということは、分かる。
「お商売する気はないから、お金のことはあとでいいよ。じゃその男の顔、一瞬見てみるわ」
 私は玄関を出て、駐車場にとまっている優音の車に向かった。
 優音は過去に何度も私を助けてくれた。小学校時代、ピアノの練習に忙しくて、放課後に友達と遊べなかった私。流行をほとんど知らずに、こっそり友達の話を聞いていただけの私を、優音はいつも気にかけてくれていた。優音は学校内で強い存在だった。優音に守られていたおかげで、私は安心して学校に通うことができた。
 そんな優音に、頼み事をされたのは、今回が初めてだ。
「あ、ちょっとだけ待って」
 優音が慌てていたが、私は勝手に車の中を覗き込んだ。後部座席の窓は真っ黒だが、フロントガラスから車内が見える。
「……無理。なにあれ、チンピラじゃない」
 助手席を倒してほぼ仰向けになり、足を前に伸ばしてくつろいでいる男の姿が、そこにはあったのだ。
「ちがうの、ごめん、なんていうか、まあそうなんだけど、ちょっとリン、出てきて」
 キャップを後ろにかぶり、だぼだぼのジャケットを着て、車から出てきた男は「うぃーっす」といった。
「最悪」
 私は遠慮なく、優音に軽蔑のまなざしを向ける。
「ロナちゃん? ヤバーイ、超スタイルいいじゃん」
 男はいきなり私を指さした。手には優音のバッグ。ぶしつけな視線と、下品な口調に、私は吐き気を催す。男の姿をなるべく視界に入れないようにして、「悪いけど私、あなたたちと住む世界が違うから」と、急いで家に戻った。
 だが。
「ねえロナ。あんYouTubeチャンネル、再生回数多いよね?」
 私はYouTubeにピアノ演奏動画のチャンネルを持っている。その再生回数が最近急激に増えていて、大学の友達にも驚かれていたところだ。
「うん、え? もしかしてゆーたんが?」
 思い返せば、優音から迷惑メールが来た十二月上旬から、YouTubeの再生回数が飛躍的にアップしたように思う。
「なんだ、ゆーたんったら、そんなことまでしてたの。ギブアンドテイクというわけか」
「そうだよ、うちら、ダチは多いから。友達百人くらいに、毎日この動画三回ずつ再生させてって言っただけ。大金稼いでるYouTuberも友達にいるし」
 友達百人とか、優音にとっては普通のことなのだろう。私からすると、百人分の名前と顔を一致させることすら、想像できない。
「しかもさ、この男は私の何倍も友達多いかんね。とりあえずちょっとだけでも恩を売っておけば、今後コンサート開くときとか、CD売るときとか、いっくらでも協力してもらえるよ」
「何勝手に話進めて、恩着せがましくしてんの」
 思わず笑ってしまった。私は現在、摂食障害の療養中だ。コンサートどころではない。人に食べている姿を見られたくないと言ったら、祖父が持つ別荘でひとり暮らしをすることになった。大学も休んでいる。食事は毎日配達されているが、こっそり処分していることも多い。
 私は大きくため息をついて「そんなに友達いるなら、他行けば?」と言った。
「ううん、ロナの家が、いいの」
「なんで? 他の友達には断られたとか? なら余計にいやよ」
 私はやや小声で言ったのだが、
「わりぃけど、オレ、ここやめとくわ」急に男が後ろを向いた。
「はあ? 何言ってんの?」優音がキレる。「お前なあ、ここ以外どこに行くんだよ、自分の立場わかってんのかよ」
 ドスのきいた低い声で優音が怒鳴っている。私の知らない一面だ。昔から柄は悪かったが、ここまでだとは思わなかった。
 男は唇をかむ。そしてもごもごと話した。
「いーよ、優音は帰れよ。オレはどっか探すから」
「どっかってどこ」
「これから探すんだよ」
「探して探して、ここを思いついたんじゃない。これ以上いい場所ねーだろ。ホテルは絶対ダメだかんね」
 目の前に広がる男女の険悪な雰囲気。私は見て見ぬふりをしたかったが、ここまで近くで繰り広げられると、さすがに無視もできない。
「ねえ、どうして、ホテルはだめなの?」
 さりげなく口をはさんでみた。
「こいつ、ちょっと芸能人だから」
「ゆーたんの名前でホテルとればいいじゃない」
「あたしもこいつのせいで、ちょっとは有名人だからさ、念のためホテルはやめてくれって言われてんのよ。こいつのマネージャーに」
「いいってば。オレは海で寝るよ」彼はバッグとコートを優音に渡してから、歩き出した。
「バカ。いま真冬だよ。死ぬ気?」
 コートを着ながら、優音は怒っている。
 ふてくされたように歩き出す男の後ろ姿が、夜風に吹かれて、頼りなく見えた。背が高く、けっこう鍛えている身体ではあるが、若さゆえ線が細い。推定178㎝で60㎏弱。髪がさらさら。
「リンー!! リン、戻りなよー!!」
 男が一瞬振り返った。夜闇の中では、声も聞こえず、身のこなしも見えない。街灯が照らしていたのは、彼の顔だけだった。
 ドキッとした。その顔に。
 あまりにも軽率な自分が恥ずかしくて恥ずかしくて、絶対に認めたくないのだが、でもその時私の心に浮かんだのは「うわ、イケメン」ってこと。ただただ単純に、イケメンをもっと近くで見てみたくなった。
「ねえゆーたん。久しぶりだし、ちょっと、家の中に入って話す?」
「え、だって、リンが」
「まあ、しょうがないかな」
「リンも入っていいの?」
「ちょっとだけね」
「リンー! ロナがOKしてくれたよー!!」
「家に入るのだけね」
 私は、渋々といった表情で彼らを招き入れた。
 

 2 芸能人

 三人で玄関に入った途端。
「ゴメン! もうこんな時間! あたし仕事行かなきゃっ今ちょっと抜け出してただけなんだよね、マジでごめん! あとはよろしくー」
 信じられないスピードで、優音が消えた。一瞬で車に戻り、エンジン音は走り去り、私は唖然とした。
「なにあれ」
 リンは苦笑してから、「オレもわかんねー」と遠くを見た。
 ふわりと空気が動く。リンから発する香水のにおいが、そのシルエットを浮き立たせている。この男が自ら、よい香りを発しているとしか思えないほど、香水が似合っていた。
「ロナちゃん、オレと一緒とか、無理っしょ。大丈夫大丈夫、オレも秒で消えるから」
 イケメンはやたらと軽いノリ。私もつられて、初対面なのにため口になってしまう。
「まあでも、ちょっとあったまっていったら? もちろんここに居座るのはお断りだけどね」
「わぁやった!」
 彼はずかずかとリビングに入り、ソファにドスンと座る。
「すげー! 広い家のワンルーム、最高じゃね? うわ、ピアノもでかいな」
 平屋のだだっ広い家。基本的には一部屋しかなくて、ド真ん中にピアノ。後はソファとテーブルと本棚。寝るときは布団を敷く。
「すげー! かっけー! しかもなんか、めっちゃうまそうな匂いするー」
 思い起こせば、夕食のスープで身体を温めようと用意しながら、スマホをチェックしていたのだ。そして迷惑メールに優音を発見し、今に至る。
「どうぞ」
 すっかり冷めているが、私は夕食をまるごと彼に差し出した。
「え!? いいの?」
 目を真ん丸にして、「うまそー」と言うや否や、食べ始める彼。
 それ私のお箸なんだけど、と内心思いながら、まあどうせ朝食は食べないから、明日の昼にでも新しいお箸を買っておけばいいかと判断する。
「リンっていうの?」
「いや、林がリンになったの。なんでだっけ」
「漢字を音読みしたんでしょ」
「そうそうそれ。なあ、この唐揚げ、めーーっちゃうまいよ。オレ、唐揚げ好きなんだ」
 この子、頭大丈夫かしら、と思う。どこまでわざと、このテンションを作っているのか、という疑問も。
「リンくん、食べてていいよ。私お風呂入ってくるから」
 部屋には監視カメラの目が光っている。自分の一日の食事量をチェックするため、監視カメラをネットで取り寄せたのだ。ここは早々に、彼を試してみる。
「OKOK! 風呂ね! どうぞごゆっくりー」
 ここ誰の家だよ、とツッコミを入れたくなるような返事だが、リンはすっかりソファでくつろぎ始めた。
 私がお風呂から出てくると、夕食はきれいに片づけられ、リンがコーヒーを入れていた。
「気が利くのね」コーヒーを受け取りながら半ば嫌味で言うと、「肩もんであげようか?」リンは私をソファに座らせ、自分が後ろにまわった。
 身長に見合った大きな手だ。私は男の手を恋人のものしか知らないが、服越しの感触だけでも、若さが伝わってくる。
「夕食めっちゃうまかったよー。あれいくらすんの?」
 私はちょっと胸が痛んだ。わざと、冷めた料理を出したからだ。レンジで五分温めればいいだけなのに、手間を惜しんだわけではなく、私は彼に意地悪をした。冷え切っていた料理、本当においしかっただろうか。
「一週間で五千円。一日一食の配送サービス」
「なんか安そう、それ使えるなあ。おせち料理とかもさ、テレビでやってんじゃん? あ、ここテレビねーのか」
「そう。そのうち買おうかとは思ったんだけど、まだ欲しい気分にならないからね。だからさ、リンくん、ここにいてもつまらないと思うよ」
 さりげなく追い出したかったのだが。
「海が見えるなんてサイコーっすよ」
 リンは背後から私の顔を覗き込み、なつっこい笑顔になった。
「そうだ、リンくんの身分証見せて」
「いいよー! バイクの免許、この前とったんだー」
 本名は林瑛斗。住所が、千葉。
「リンくん、千葉に住んでるの?」
「子供んときだけー。最近は優音のとことかにいたし」
「ねえ、ゆーたんとケンカしたわけでもないんでしょ。なにがあったの?」
 リンは唾をごくりと飲み込む。肩をもむ手は止まらなかったけど、私はそっと立ち上がって、リモコンを手にした。リンの手が少し震えていたから、エアコンの設定温度を上げたのだ。
「優音さー。デキちゃったんだって」
 その声が恐ろしいほど切なくて、思わず聞いてみた。
「リンくんとの子供が?」
 無言。
「え。違うの。うそでしょ」
 私は自分で聞いたくせに、信じられなかった。
「テルさんだよ。優音の店の、んーと、偉い人。テルさんは怖いから、おろさないとやばいって、優音が言うからさ、でもさ、優音は、あれじゃん、その、ほっておけない人じゃん」
「なにを?」
「いのち? みたいな」
「そうなの?」
「そうそうそう、優音は道路でにゃんにゃんが死んでたら、病院連れてったり、110番したりする人だからさあ、オレ、一緒に住んでたから分かるんだ、子供大好きなことも。だからさ。うめって言った」
「それで?」
「わかんねーけど、その、オレの、うめって声が、盗聴された。電話だったんだけどさ。なぜかオレと優音の会話が、ネットに流れたんだ。そんで記事がガゼ。オレが女を妊娠させて、その子供をうめって、なんつーの、なんか命令した感じで、記事になってた。……クソッ」
 記事。本当にこの子は芸能人なんだな、と驚いた。優音との関係がネットで騒がれているから、優音の名前でホテル宿泊するのも控えているということか。
「リンくんの子供っていう可能性は、ないわけ?」
 抑揚をつけずに、聞いてみた。
 少したってから、「ロナちゃんからすると、ありえねーだろうけど」と彼は軽く笑った。そして無表情になる。
「ないよ。DNA鑑定したもん」
「へえ、生まれる前に分かるんだ」
「うん。DNA鑑定するって時点で、オレもほぼほぼ同罪だけどな」
 リンは私から離れて、スマホを手にした。床に座り込む。同罪っていうか、ゆーたんが悪いんでしょう、と思ったけど、優音を否定してはいけない雰囲気だ。
「リンくんとゆーたんは、どのくらい一緒に住んでたの?」
「二年くらい」
「長いじゃん」
「うん、でも優音はオレなんかよりロナちゃんとのほうがずっと長くて、仲良しだって。さっき車で言われた」
「それはさ」あんたをここに置くための口実みたいなもんでしょと言いたくなった。でも。
「幼馴染ってだけだけどね。だから私は絶対に、ゆーたんの代わりにはならないからね、同い年の女でも、ゆーたんと私は全然別人だからね」
「知ってる知ってる、優音が言ってたもん。ロナに手ぇ出すなって」
 私は思わず噴き出した。「手出す気にもなんないでしょ、この体じゃ」
 身長155・5センチ体重33・3キロだ。ゾロ目を維持したいわけでもない。頬がこけて骸骨みたいになった顔も、小枝のような腕も脚も、全部嫌いだ。人に言われなくても、自分でわかる。
「気持ち悪いよね」
 スマホ画面をスクロールさせながら、リンは即答した。
「全然」
「え」
「なんつーか、そんなの自意識過剰だよ。あ、そっか。お前テレビ見ないから、世間知らずなんだ。はっきり言うとさ。世の中にはガリガリもいりゃデブもいる。オトコオンナだとか、全身刺青、全身ピアス……。もっとまじめなこと言えば、義手や義足の人もいるし、皮膚病もいるし、だいたいチューブでつながれまくってる寝たきりの患者だってかなりの数いる。こっちはいろんな形の体があるって知ってるから、そんな、細いくらいで気持ち悪いとか、わざわざ思わねえし」
 私は言葉が出なかった。今リンが挙げた人たちのことを、どこかで聞いたことはあるが、実際には見たことがない。
 そもそも両親は、娘を病院に連れていくのは恥だと考える人だ。精神科やら心療内科などは話にならないため、私は自分でネット検索をし、自分のことを摂食障害だと判断している。つまり私は、病人というものを、ほとんど知らないような気がするのだ。
「ねえ」
 私はちょっと話題を探した。
「ねえ、いきなり私のことをお前って呼ぶの、おかしくない?」
「……ごめん。ロナちゃん」
 素直に謝られて、逆に恥ずかしくなった。
「別にいいけど」
 時刻は二十四時を過ぎている。
「リンくんもお風呂入りなね。あとさ、私はここで布団しくから、ソファなり、適当に床に寝るなり……」
「あ、大丈夫。オレすぐ仕事行くから」
「は?」
「明日は朝五時半から情報番組に出るから、ここを2時過ぎには出るじゃん。タクシー呼んであるし。今マネージャーもさ……」
「なに?」
「さっきの話だけどさ、電話を盗聴したヤツが、それをネタに金をせびるんだ。マネージャーもすげー脅されて、頭おかしくなって、事務所やめちった。だから今のマネージャーは新人さん」
 一番近くにいるマネージャーに見捨てられた。
 一緒に暮らしていた優音は、違う男との子供を妊娠している。
 この子の親はどうなっているのか。ちょっと考えた途端、さっきの、いろんな人間が世の中にはいるという話がよみがえってきた。どうせこの子とは今だけの付き合いだ。深入りする必要はない。
 私はトーンを変えた。
「電話の盗聴なんか、できるんだ」
「携帯同士じゃできないらしいけどね。あの頃優音は携帯の料金払えなくて、職場の電話使ってたからさ。固定電話ってやつ」
「え、リンくんの電話が盗聴されたんじゃなくて、優音の職場の電話が盗聴されたってこと?」
「そうそう。けっこう優音はいい店で仕事してるからさ、有名人といっぱいつながってるみたいだよ。いろんなやつが、あの盗聴器にひっかかってる」
「こわっ」
 自分とは別世界だと思っていた物騒な事件が、優音の身の回りで起こっているなんて、想像するだけで、寒気がしてくる。早く、この子との縁を切らなければ。

「明日の夜はどこ行くの?」
「知らねえヤツのところ。ここだって昨日までは知らなかった家じゃん。ま、優音次第だな」
 リンは疲れた顔をしている。
「あ、鍵どーする? オレ深夜にここ出てくけど、オートロックじゃねーよな?」
「開けっ放しでいいよ。この周り、人あんまり住んでいないから。そんな心配いらないから、ちょっとだけでも寝たら?」
「起きんのめんどくせーから、寝ない」
 言ったそばから、ソファでリンは目を閉じていた。
 林瑛斗。ウィキペディアを検索すると。
「林瑛斗(はやしえいと、2002年7月15日-)は、日本の歌手、俳優、タレントで、男性アイドルグループ・ペンタゴンのメンバー。千葉県出身。LALA芸能事務所所属。」
 主な作品の欄に、テレビドラマも映画も舞台も、さまざまなタイトルが並んでいる。
 こんな有名人であれば、そうそう悪事も働かないだろう。LALA芸能事務所は、クラシック音楽の人間でも耳にしたことがあるくらい、大きな事務所だし。
 身元も分かったところで、優音にメールを入れておいた。
『ゆーたん、急にどこ行ったのよ。でも、あの子、なんか気の毒ね。もし困るようならまた預かってあげてもいいよ』
 SNSで林瑛斗の名前を検索すると、明日の朝、情報番組に出演するという情報がたくさん見つかった。リンの出演を楽しみにしている人も多いらしい。
 ここから都心までは車で一時間半くらいだが、ここは海の街だ。こんな田舎にこんな有名人がいていいのだろうか。どう考えても違和感がありすぎる。だから、やっぱりこんな土地にあの子が長居するわけはない。ということは、明日の来宅を拒否しすぎる必要もない。
『サンキュ! ロナ。迷惑なことがあったら殴っても蹴ってもいいから』
 優音からあっけらかんとした返事がきた。
『今寝てるけど、何時に起こせばいいとかある?』
『ないない。体内時計、病的にいいから、ほっといて大丈夫』
『すごいね、じゃ私も寝るわ』
『うん、夜あいつが変なことしたら、即あたしにLINEして』
 優音からLINEの新しいIDが届いた。TELOVEというLINE名だ。テルラブ、となんとなく読んで、リンの話がよみがえった。優音の赤ちゃんの、父親。
『電話みたいな名前ね』
 これが文字ではなくて電話だったら、最大限に冷たい声で言ってやるのに、ともどかしく思いながら送信する。
『テルって男がいるんだ』
 ストレートに返された。私の目の前では、リンが静かな寝息を立てている。
『リンがカレシじゃなかったの?』
『カレシだけど、別に同棲してただけだし。だってまだ十七歳の子供だよ。恋愛対象としては(笑) でもいいヤツだから安心して。あたしもリンのこと、好きは好きなんだ。気が向いたら、優しくしてやってよ(笑)』
 リンはただただ眠っている。長い手足を持て余すように、身体を小さく折り曲げていて、とてもかわいい。やや眉根を寄せていて、色気もある。完ぺきなルックスだ。
『リンに彼女さんはいないの?』
『あたしでしょ(笑)』
『じゃなくて、好きな人っていうの?』
『あたしでしょ(笑)』
 優音のご機嫌な顔が脳裏に浮かぶ。
『馬鹿馬鹿しい』
 とりあえずそれだけ送って、おやすみのスタンプを押してやった。彼女からのおやすみスタンプには既読もつけずに、私はピアノを弾き始めた。毎晩ピアノを弾いてから寝る生活なのだ。遠慮がちに、音が弱めの曲を選んでみる。リンは熟睡しているようで安心した。ゆっくり眠れますように。私は心から祈る。きれいな寝顔を見ながら弾いていたら、私も眠くなってきた。
 最近ほとんど人と会話をしていない。それなのに初対面の男の子と話し、家に泊めているのだから、心身の疲労は相当なものだろう。
 監視カメラがとらえた映像は、スマホでもPCでも随時確認できる。睡眠関連接触障害の症状が強く出ると、私は夜中にコンビニまで行くため、タクシーを呼んでしまうこともある。過食の症状が夜に出ると、コンビニに駆け込んで、菓子パンやスナック菓子をまとめ買いして、家で黙々と食べ続け、その後吐き出すのだ。その様子を、翌日監視カメラの映像で確認すると、毎回ぎょっとする。全ての記憶がなくなっているわけでもないが、全ての記憶が残っているわけでもないし、無意識に行っていることも多い。だから、映像を見るのが毎回怖い。
 でも今日は違う。自分のことではなく、人の監視のために、カメラの力を借りるのだ。私はワクワクしてきた。スマホアプリを開いて、監視カメラがきちんと作動していることを確認してから、布団を敷いた。
 バタバタ動いていても、ソファで眠るリンはびくともしない。それにつられるように私も、すぐに眠った。
 翌朝目覚めると、思った通り、リンはいなくなっていた。部屋に異変がないか、用心深く見まわす。するとちょっと本棚に違和感があった。
 楽譜を収納している本棚が、すばらしく整理整頓されていたのだ。作曲家ごとに並んでいるし、その作曲家の配列が、なかなか見事だ。バッハから始まり、大きく分けてモーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、リスト、ドビュッシー……といった順番で並んでいる。これはクラシック音楽の歴史をきれいに辿っていて、実に使いやすい配置だ。リンくんやるじゃん、と感心した。
 監視カメラを確認すると、彼は一時半に起きて、時折スマホを見ながら楽譜を整理したあと、顔を洗って、出かけて行った。きっと楽譜の並べ方をスマホで調べたのだろうと思うと、なんだかいじらしくなった。
 机の上には一万円札。ずいぶんとラクな商売をしてしまった。
『ゆーたん、お金受け取ったよ。ありがと』
 LINEをすると、優音から動画が届いた。今朝の情報番組らしい。リンがテレビで話している。大人気、現役高校生アイドル。
「長所は、誰のことでも愛せます!」とテロップが出ている。「人に優しくしたい願望が、オレは強いんです」よく分からない文章だが、まるで名言扱いだ。
 どうやらリンは、本物の有名人であることが分かった。なんだかリンの存在がとても大きく感じる。比較して私は、自分がとても小さくなったように感じて、それが心地よかった。

 
 3 恋人 

 私は祖父が経営する音楽学校にトップで入学するため、中学までは毎日ピアノの勉強ばかりだった。学校に行く前に練習、学校にいる間はイメージトレーニング、放課後は祖母のレッスン、夜中まで母と一緒にレッスンの復習。
 コンクールでは成績が良いときもあれば、悪いときもあった。これだけ恵まれた環境で、これだけ勉強していれば、成績が良くて当たり前。そう私も周囲も思っていた。
 たまに落選したり、酷評を書かれたりすると、審査員の嫉妬か、自分の生徒を優遇させるための仕業だと、私も周囲も決めつけていた。高校も大学も、経営者の孫なのだから当然、何の苦労もなく入学できた。
 子供時代に、テレビも映画も漫画も本も、何も知らずに過ごしたからだろうか。最近たまにそういったものを目にしても、どうやって楽しめばいいのか、よくわからない。優音から送られてきたリンの番組も、どのような効果で視聴者を楽しませているのか、ほとんど理解できなかった。
 ただリンがきちんと仕事をしていることは分かった。終始、仕事の顔をしている。
 今日の私の仕事は、恋人と会うことだ。それまでピアノを弾く。
 朝十時過ぎ。精神科医で私の恋人の、西田さんが来た。
 一年ほど前、私の摂食障害がひどくなり、意識を失って病院に運ばれたことがあった。
 病院からは精神科か心療内科での治療を強くすすめられたが、祖父母も両親も、身内が精神病患者と思われるのは都合が悪い。何しろ大きな音楽学校を抱えているのだ。この家の評判が落ちれば、音楽学校の評判も落ちる。それは何としてでも、避けたい。
 でもみんな、私のことをとても心配してくれた。誰かのはからいで、いつのまにか精神科医のお友達が私の前に現れ、週に一度くらいコミュニケーションをとることになったのだ。そして私が海の近くの別荘で一人暮らしをすると決まったとき、「よかったら恋人になりましょう」と提案され、彼は私を見守ってくれる存在になった。
「良那さん、お疲れ様です」
「西田さん、お疲れ様です」
「良那さん、お元気そうですね。どこか行きたいところはありますか」
「海に」
「冬の海ですか。いいですね」
 彼の車にはピアノ曲の音源がたくさん入っている。この前はポリーニのポロネーズを聴いて、なんだか私は頭が混乱してきて、泣いてしまった。そんな私を、西田さんは優しく抱きしめてくれたのだった。
 でも今日は。
「今日は、あの、特に理由はないんですけど、CDは聴かない感じで」
「それもいいですね」
 彼は無音が当たり前のように、うなずいた。
「今日はね、話したいことがあるんです。私には幼馴染がいるんですけど、その子が昨日突然、カレシをうちに連れてきたんです。それがね、芸能人だったんですよ」
「それはそれは! なんていう人ですか?」
「林瑛斗っていう……まだ高校生なんですけど、今朝もテレビに出てたみたいで」
「それはすごいですね。かっこよかったですか?」
「ええ、そりゃもう」
 くすりと笑ってから。
「あまりにもかっこいいから、母か誰かが幼馴染に頼んで、私のもとに届けた人材かと疑ってしまいました」
 西田さんは、首をゆっくり横に振った。
「それじゃあ僕はお役御免ですか? 寂しいなあ」
「そう言ってもらえてよかったです。西田さんはお忙しいでしょうから、こんな田舎までしょっちゅう来てもらうことが申し訳なくて」
 それに私はまともじゃないし、と心の中で付け加える。
「僕は、お母様に頼まれたからではなく、自分の意思で、良那さんに会いにきているんですよ。ご安心なさい」
 今私が住んでいるのは、海まで車で五分とかからない別荘だ。子供のころから夏休みのコンクールが終わると、よく別荘に宿泊した。「小学生の夏休みらしいこと」を味わうのに、最適の環境だった。
 家から別荘までは二時間ほどかかるから、家を出るギリギリまでピアノを弾いて、別荘でもすぐにまたピアノを弾いて、海に行けるのは夕方以降だった。空は薄暗くても、夏休みは海に人が多く、にぎやかだった。翌朝、別荘から見える海の景色を堪能して、またピアノを弾いて、そして帰宅したものだ。
「西田さんは海はお好きですか?」
 広い海なのに、今日は誰もいない。
「こうやって見ていると、海っていいなあとは思いますが、普段はあまり考えないですね、海のことを。だからきっと、海への関心は低いのだと思います」
「私も同じような感じでした。でもあの別荘に住むようになって半年も経つと、海にも愛着がわくようになりました。だから、誰かに海が好きとか言われると、なんか、うれしくて」
「そうでしょうね。外国の人に、日本が好きといわれるとうれしくなるような感じですかね」
「そうそう、別に私の手柄ではないんですけどね」
 私たちは海辺で互いの目を見つめあった。心が通じ合っていることを確認してから、抱き寄せる。
 波の音を耳にしながら、静かに唇を合わせた。
 この人が常に私を見守ってくれる、だからきっと、私は身投げとかしない。キスをしながら、自分の意思を確認していた。
 海の近くへの引っ越しを検討した際、最も心配されたことが、入水自殺だった。そもそも一人で海を眺めていて、死を思いつかない人なんているんだろうか。
 少なくても私の親族にはいなかったらしく、だれもが「取り返しのつかないことになったらどうするのだ」と心配した。でも私は、ただの摂食障害だ。自殺未遂を犯したこともない。
 体重を極端に減らすことはよくない、と頭で理解していても、喜んでしまう心がある。その気持ちをきちんと制御できないだけだと思う。
 子供のころから、何が正解なのか、何に価値があるのか。そういうことは考えてはいけないと自分に言い聞かせてきた。
 答えなんか出ないから。
 私は毎日ずっと、音と音楽に生活のすべてを捧げてきたのだ。音楽家は全員、目に見えない音というものへの執着心を持っている。それは異常なまでの執着心で、理想とする音や音楽に一ミリでも近づけるのなら、全財産を投げうっても構わない。そんな感覚の人しか、私の周りにはいない。
 両親も祖父母も、親戚のほとんどが音楽家であるからか、私は、音楽の良し悪しと人間性の良し悪しにも、関係性を持たせてしまっていた。つまり、良い演奏をする人間を、良い人間だと評価していた。
 でも、音楽の評価も人間性の評価も、難しい。
 自分の演奏が向上した、と自信を持ったのに、周りの評価によるとそれは改悪だった、というようなことは頻繁に起こる。何が良くて何が悪いかなんて全く分からなくて、右往左往しながらほんの少しずつ前進しているような生活だった。前進かどうかも定かではなく、ただの自己満足に終わってしまうことも多かった。
 そんな中で、体重計に乗ったときに、その数字が減っていると、少し誇らしい気持ちになった。食べるのを我慢できた、疲れていたけど運動をした。その努力が、はっきりとした数字に表れると、安心感を覚えたのだ。
「良那ちゃん、明るくなったね」
「よく笑うようになったね」
 最初のダイエットのとき、そんなことを言われはじめて。
「痩せてきれいになったね。いいなあ」
 高校の友達に、そう言われた。
 ダイエットをしていると、日々の生活が充実してきて、表情も明るくなる。そして見た目もきれいになる。うれしい、楽しい。一日に何度も体重計に乗り、今日は1キロ減った、今日は1・5キロも減ったと、ノートに記録した。私の高校生活は喜びに満ちた毎日だったのだ。
 昔のことを思い出していたら、スマホが震えた。西田さんに軽く頭を下げてから、LINEをチェックする。優音からだ。
『今日は十八時ごろね! リンのことよろしく~~』
 ふと私は苦笑した。やっぱり。リンは知らない家に行くだろうと予想してたけど、やっぱりうちになったのね。
「どうしましたか?」西田さんが控えめに心配してきた。
「いえ、大丈夫です」
「そろそろ、帰りましょうか? 冬の海は冷えますから」
「ちょっとだけ、待っててください」
 私は波打ち際まで行って、目についた貝殻を一つだけ、拾った。小さな人魚が中に入っていそうな、美しい貝殻。
「きれいですね」
「でしょう? 海が好きな人に、プレゼントしようと思って」
「その人は、また来るんですか?」
「ええ。海が好きな人ですから」
 精神科医との会話は安心だ。どうせ私のことを異常だと思っている。何も期待されていない。何も取り繕う必要がない。
「西田さんは、お正月、ハワイで過ごされるんですよね?」
 車に乗りながら、聞いた。少し前、律儀に私のことも誘ってくれたのだ。ピアノを十時間以上弾けないなんて想像もつかないから、私には冗談にしか聞こえなかったけど。
「そうですね、友人と。お土産に欲しいものはありますか?」
「貝殻かな。ハワイの貝殻は、きっとどこか違うのでしょうから」
「確かに、そうでしょうね。わかりました。楽しみにしていてください」
「ありがとうございます」
 帰り道、コンビニに寄ってもらった。リンのためにお箸や歯ブラシセットなどを一通りそろえる。まるで旅行準備のような買い物は、思いのほか楽しかった。
 家に帰ると、私は緑茶を入れた。西田さんはコーヒーも紅茶も飲まない。彼のために緑茶を購入し、急須に茶葉とお湯を入れるとき、なんだか私は得意になる。彼の恋人気分を満喫できるからかもしれない。
「良那さんは、お正月は……」
「この体型で実家に戻っても、心配されるだけです。もう少し体重が戻ってから、帰宅しようと思います」
「そうですか。ではそのように、お母様にはお伝えしますね。でも前回お会いしたときより、健康に見えますよ。おひとりでもきちんと生活をされていて、素晴らしいです。無理しなくても大丈夫ですから、焦らず確実に、体重を増やしましょう」
「はい、ありがとうございます」
 ソファでまたそっと唇を合わせる。閉じたまぶたから、私は涙があふれそうになる。鼓動が速くなった私の体を、西田さんは抱きしめる。
「今日もあなたに会えてよかった」
 耳の近くで、西田さんの声がする。輪郭のはっきりとした低めの声。
 私の全身を襲った涙が、少しずつ消えていく。
「私のほうこそ。お会いできてよかったです」
 静かに体を離す。
 彼は薬箱のところに行き、減っている薬をチェックする。明日にでも追加分の薬が送られてくることだろう。
「これは洗っておきましょう」
 さっき拾ってきた貝殻を、彼は丹念に洗ってくれた。貝特有のにおいがなくなり、ほっとした。
「今日もありがとうございました」
 私のこの言葉を合図に、彼は荷物を手にとる。
「冬の海を楽しめました。こちらこそありがとう。ではよいお年を」
「よいお年を」
 デートが終わった。
 
 すぐにピアノを弾く。ハノンという指のトレーニングに効果的な教本を、約一時間。
気づくと十五時になり、夕食が届いた。今日はオムレツだ。リンは喜んでくれるだろうか。私はワクワクしてきた。
『リンはオムレツ好き?』
 優音にLINEする。
『好きだよん』
 その五文字が私のテンションを上げた。
 久しぶりにパックの白いご飯を用意する。電子レンジで解凍するタイプだ。
 時間は15時半。
 なんだか急に食欲が出てきて、早速白いご飯をひとりで食べ始めた。私が一番好きな食べ物は、白いご飯だ。基本的に、食事は白米のみで大丈夫。でも優音は子供のころ、白いご飯だけでは食べられないタイプだった。ふりかけをたっぷりかければ食べられるが、お菓子があると、ふりかけまみれのご飯も全部残して、お菓子に夢中になっていた。
 何もかも好みが違う中、ある時、リストの顔がイケメンだという話で盛り上がったことがあった。リストはクラシック音楽の作曲家だが、恵まれた容姿も活かして、今でいうロックスターのような活躍をしたことでも知られる。
 リストの肖像画が描かれた楽譜を見て、「シンデレラの王子様よりも白雪姫の王子様よりも、リストのほうがイケメンだよね」と私たちは話した。
 クラシック音楽界は、結構ルックスが話題になることが多い。もちろん演奏技術がとても重大な要素ではあるのだが、それに加えて美人だったりイケメンだったりすると、「あの子は顔もいいし」などと評判になるのだ。
 でも。
 リンのイケメンさは、そんなレベルではない。
 ピアノが弾けると一言で言っても、猫が歩いて音を鳴らしたレベルから、二時間のコンサートでかなりの収入を得られるレベルまで、いろいろある。今まで私が知っていたイケメンは、ピアノで例えるなら、小学校の合唱コンクールで伴奏を任されるくらいのレベルだった。そしてリンのイケメンレベルは……少なくても私が今までの人生で見た人間の中で一番上だ。
 優音は芸能界が大好きだから、イケメンにも慣れているのだろうか。今度聞いてみようと思った。

 4 人魚の貝殻

 今日の夕食、オムレツの隣に、私は貝殻を置く。今まで貝殻に注目したことはなかったが、こうしてじっくり見ていると、すごくいい。このままアクセサリーにもなりそうだ。
 でも。
 彼は海が好きなんだから、もう貝殻なんか見飽きているかもしれない。急に、不安になった。
 海好きなら無論、貝殻を嫌いってこともないだろう。でも特別な価値を持つわけもない。
 ピアニストだって、ピアノの種類にはこだわるが、ピアノが家にあってうれしいと思うわけはない。家にあるのが当たり前だからだ。それと同じくらい、海好きにとって貝殻は、生活の一部になっているかもしれない。
 早くハワイの貝殻が欲しい。私はスマホでネットショップを開いた。
「ハワイの貝殻セット120グラム、1000円」
 あまりの安さに血の気が引いた。自分は海辺に落ちている貝殻を拾ってきたくせに、ハワイの貝殻を安価で入手できることには、気落ちした。
 十七時半になった。オムレツを温めたいが、一度温めるとどのくらいの時間、その温度が保持されるのかが、わからない。部屋の温度は二十六度に設定している。一七歳の少年には暑いだろうか。
 十七時五十分。家のチャイムが鳴った。玄関を開けると、リンが一人で立っていた。
「こんにちはです~」
 リンは唇をかみながら、頭を下げた。
「ごめん。また来ちゃってごめん」
「いいけど、ゆーたんは?」
「タクシーで来た。ってか優音関係ないのにオレ来てごめん」
「どうぞ入って」
「ごめん」
 殊勝なのは口先だけで、リンはずかずかと入ってくる。脱ぎ散らかされたスニーカーを、私はそろえる。
「すげーオムレツだ!」
「うん、好き?」
「大好きー。これオレが食っていいやつ?」
「うん」
「マジで! すげー!」
 部屋の入口に放り投げられたバッグを、とりあえず棚の上に片づけていると、
「マジうめーっ」
 もうリンは食べていた。
 その姿を見て、私は目を疑った。右手にフォーク、左手にナイフを持って、オムレツを食べている。どうやら左利きらしい。それはいいのだが、左手のナイフも、時折口に運んでいるのである。ナイフにのせた卵を、そのまま口に運び、ナイフをくわえているような状態だ。
「うめー! うっめー!」
 口に食べ物が入ったまま、同じ言葉を何度も繰り返している。急激に嫌悪感が膨らんできた。こんな食べ方をする人が存在するということを、私は今まで知らなかったのだ。イケメンだろうが芸能人だろうが、関係ない。これはもう、関わってはいけない人種なのではないだろうか。
「あーっ」
 急にリンが大声をあげた。
 うるさい。
 喉元まで出かかった言葉を、何とか飲み込む。
「これさぁこの貝殻! すげぇきれいだよなー!」
 リンはくちゃくちゃと咀嚼しながら、席を立つ。私が今片づけてあげたバッグから、貝殻を取り出した。
「これ見てみ! オレもさぁ今朝、拾ったんだ! マジすごくね? おんなじじゃん? おんなじ貝殻じゃん?」
 彼がバッグから取り出した貝殻は、確かに私が昼間拾ったものと酷似している。真珠か人魚が中に入っていそうな、つくり物みたいに美しい貝殻。でも、こんな男と同じものを手に取った自分が、情けなくなってきた。
「オレとロナちゃん、おんなじ貝殻~」
 屈託なく笑いながら、こちらの顔を覗き込んでくる。
「同じ海に行ったからでしょ」
 ぼそっと言い放つと、一瞬だけ困ったように上目遣いでこちらを見てから、
「おんなじ」
 リンは貝殻を二つ、テーブルに並べた。
 イスに座っているのではなく、イスの上にしゃがんでいるような体勢。足の裏が両足とも、イスの上についている状態。ここまでくるともう、本人を責めても仕方がない。親のしつけが気になった。
「リンくんって、いつまで親と一緒に住んでたの?」
 貝殻を指でなでながら、リンは首を傾げた。
「小学生までか?」
「もう一緒に暮らさないの?」
「オレがさ、ルールやぶっちゃったからね。今だけじゃなくて、もう一生会えねぇな。ま、ガチで会いたくねぇしな」
 お皿にカチャカチャとフォークをぶつけながら、オムレツの卵を最後の一滴まで食している。意地汚いなんていう言葉では収まらないほど下劣な行為。目にしたくもないので、私はその場を離れてソファに座った。
 そして無言で検索する。
『林瑛斗 親』
 すると。
『林の父親は借金作って夜逃げ。林がその借金返した』
『借金返せたことがバレて、今も林の金を父親が狙っている』
『じいちゃんがDVで、林は殺されかけたことがある』
『母親は新興宗教に入った』
 背筋がゾクゾクとしてきた。スマホ画面から負のオーラが立ち上ってきて、私は身震いする。これはただのウワサだ。信ぴょう性なんてまるでない。そう自分に言い聞かせても、感情が高ぶってきてしまう。
 この子が逃げているのは、この父親が原因なの?
 本人ですら知らない人、つまり私の家に泊まることで、なんとか身の安全を保っているってこと?
 芸能事務所ってそういう管理しないの? 大事なタレントの生活、守ってくれないの?
 一瞬だけ、優音に問い合わせてみようかとも思ったが、聞いて何になるのだろう。
 どんな理由であれ、リンにはこの家が必要なのだ。一見、何のとりえもない私でも、リンの周囲の人物に知られていないという特徴は、リンにとって都合がいい。
 その反面、私にとってリンといることは、何のメリットもない。お金を置いていく点は認めるが、祖父の別荘に住み、食費含めすべての生活費を両親が出してくれているのが、今の私の生活だ。となるとリンからの収入よりも、リンを置くことによるリスクのほうが、ずっと気になる。
「ごちそーさん!」
 リンがソファに来る。スマホを閉じた私に、リンは微笑みかけた。
「この家、いいよね」
「どこが」ちょっと声が震えてしまった。
「海に近いところと、テレビがないところ」
 リンが私の肩をもむ。仮に海から遠くてもテレビがあっても、私は見ず知らずの人だから、私の家にリンは居ついただろうなと思う。
「そう」
 でも。この子にどれだけ同情すべき点があったとしても、絶対にこんなのを家に住ませるわけにはいかない。変な世界の人間を、家に入れてしまったことの後悔が、押し寄せてきた。
「ロナちゃん。ピアノってさ、カバーなかった? カーテンみたいにでっかい布の」
「あるわよ」
「あのさ、ちょっとかけてくんない? ピアノにカバー」
「なんで」
 リンは恥ずかしそうに少しうつむいた。
「こっからピアノ見るとさ、黒い部分に、自分の顔が映るんだよ」
 確かにピアノの側面は、黒光りしていて、自分の顔が映ることもある。
「それがどうしたの?」
「昨日の夜、それ見てたんだよ。そしたらなんか、出たんだ」
「なんかって?」
「……幽霊的な」
 思わず私は吹き出してしまった。彼も笑う。
「マジだって。なんかオレがソファで、こうやって寝てたらさ、なんか、ふわーって気配があって、目開けたら、そこに黒っぽいオレがぼわーって出てきて、なんか冷たい風がぶわーっなって、ピアノの音がポロンポロン……」
「話、盛ってるでしょ」
「ピアノの音の件はね。だいたいピアノってポロンポロンいわなくね?」
 プロだなと思う。人を笑顔にさせる、プロだ。私の心は一瞬で、癒されてしまった。
 普段ピアノにいちいちカバーなどかけないのだが、私は棚の上のカバーを指さす。
「あそこよ、カバー」
「ああ。うわ、なにこれ。でかすぎ。向きわかんねぇ。わわ、カバーかけんの、めんどくせぇ」
 ピアノのカバーに苦戦するリンは、無力で無害なただの少年に見える。でも、この子は芸能人で稼いでいて、無力ではない。そして関わりを持つのは、危険な人種だ。私はただでさえ、両親や親戚に迷惑をかけている。これ以上みんなを、面倒なことに巻き込むわけにはいかない。
「お化けとか、弱いの?」
「そうそう。オレマジでだめなんだよな」
「じゃこの家やめといたほうがいいよ。古い建物だし、ひとけがなさすぎるから。お化け出るらしいよ」
 リンは困ったように眉根を寄せてから。
「そっか。ありがとーっ。教えてくれて」
 なぜか感謝された。
 あんたを追い出そうと思ったんだよ。心の中でツッコミを入れる。けっこうこの子、うっとうしい性格かもしれない。そんな心配も生まれてきた。軽く話している分には、楽しい。でも長期的に居つかれるのは、ごめんだ。
『ゆーたんへ。悪いけどやっぱり私、ひとり暮らしがいい』
 意を決して、優音に送ってみる。それなのに、既読スルーされた。
 カバーを無事かけおえたリンは筋トレをしている。私はちょっとピアノを弾こうと思ったが、せっかくかけたカバーを外すのも忍びなくて、やめた。
 翌朝起きるとまた、リンはいなくなっていた。私はピアノを弾いてから、タクシーを呼んで、海に行ってみた。西田さんとの海も楽しかったが、一人でも堪能してみたい。
 実は私はまだ、海をあまり知らないのだ。リンに海が海がと騒がれて、今更ながら海に関心が出てきた。
 朝八時過ぎの海。崖の上で仰向けになっている人がいたり、砂浜を走ったり歩いたりしている人がいたり……。
 海はみんなに平等なんだなあと思う。海も太陽も、砂も貝殻も、潮風も木も、平等に幸せを与えてくれる。どのくらいの幸せを得られるかは、こちらの感受性次第だ。こちらが目を向けなければ、何も得られない。こちらが全身を開いて、すべてを吸い込めば、自分の体に自然のエネルギーが満ちてくる。
 私は目を閉じて深呼吸をした。
 ピアノを弾きたいと思った。ついさっき弾いていたピアノを、今すぐまた弾きたいと思った。
 電話をしてタクシーを呼ぶ。早く家に帰りたくなった。海から道路に向かって歩き出したとき、後ろから声がした。
「おーい」
 サングラスをしたリンが駆け寄ってきた。髪が濡れている。
「リンくん、こんなところにいたの?」
 リンはサングラスを一瞬外した。目の前に、よく知っている顔が現れたことが、うれしかった。
「うん、そこに寝そべってた」
「あーあの仰向けの中の一人だったの」
「そうそう。ロナちゃんもやってみる?」
「いやだ、落ちたら死ぬもん」
 彼は声を上げて笑った。この人は、落ちない自信が99%。落ちて死んでもいいというあきらめが1%。そんなところかもしれない。
「あ、リンくん、なんで髪が濡れてるの?」
「そこのシャワー」
 見ると、試着室のようにシャワー室が並んでいる。海にシャワーがあるなんて知らなかった。
「便利なものね」
「そう。海の近くの家って、マジうらやま」
「自分だってすっかり居ついているくせに」
「ははは。もう終わりにするよ」
「あ、そう」
 優音から何か連絡がいったのだろうか。それとも私の態度から、何かを察したのだろうか。考えながら、私は歩く。
「ロナちゃんさ、ほっそいし髪ショートだし、サイコーだな」
「どういう意味」
「サイコーはサイコーさ」
 リンがスマホの画面を見せてきた。今この瞬間、いや厳密にはニ分ほど前の、私たちの写真がそこにあった。
「え」
 私は心臓が止まりそうなほど驚いた。
「ツイート、読むぞ。『ちょっとまって。林瑛斗が海にいるんだけど。なんか友達(男)といっしょっぽい。ふつーにかっけー』だって。ははは、な、お前、サイコーだろ。あ、ごめん、お前呼びしちった」
 私はキョロキョロする。
「え、なんで?」
「黒ダウンジャケットにスウェット、スニーカーで手ぶらのショートヘアときたら、たいてい男だと思われるよ。気にすんな」
「いや、そこじゃなくて。誰が撮ったの?」
「素人だな。そのへんの客だろう。気にすることねえよ。この映り方じゃ、どこの海かもわかんねえし。だいじょーぶだいじょーぶ。すぐ流れてくって、こんなの。お前の正体ぜってえバレねえから。そろそろタクシー来たんじゃねえの?」
 訳が分からないまま、私は一人、タクシーに乗り込んで帰宅した。
 その夜、リンは来なかった。
 その次の日も、来なかった。
『ゆーたん。リンくんは元気?』
 二日間、音沙汰がなかったので、LINEしてみた。直後に電話がなる。
「ロナちゃん、お疲れー」
「リンくん!?」
「ゆーたんは、アレだって。なんだっけ。あれ」
「は?」
「あのさーゲロ吐いたりさー。ほら、妊娠でなるやつ」
 いきなりの汚い言葉に、いやな気分になる。
「つわりね」
「それー! でスマホ見てると余計気持ち悪いっつーから、オレが代わりに電話ー」
「ゆーたんと一緒に住めるなら、最初からそこに住んでりゃよかったじゃん」
「まーねー。でも今びっくりしたの。今オレ、ロナちゃんのピアノ見てたからさ、イヤホンしてYouTubeで」
「えっ、ああ、ゆーたんに見ろって言われたんだ」
「ううん、音楽鑑賞オレの趣味だから」
「まあ、調子いいこと」
 その時、電話口の空気が変わった。
「ベラベラベラベラうっせえなあ、黙れ」
 野太い声が奥に聞こえる。
「あ、すいませんっ、こいつ、優音のダチで、つい」
 リンが焦っている。幽霊の話をしたときと、呼吸が似ている。
「その人がテルさん?」
「そうだよ、じゃ。飯食えよ」
 いきなり電話が切れた。
 優音の家に、テルさんとリンが住んでいるのだろうか。優音のおなかには、テルさんとの子供。さぞかしリンは居心地が悪いだろう。
 ならテルさんっていう人の家に優音が行って、優音の家にリンが住めばいいのに、なんて勝手な整理をしてみたけど、私は何の事情も知らない。
 スマホを開く。
 リンはアイドルだ。しかも高校生。だから、優音の子供がリンの子供じゃなくてよかった。
 何度も何度も、私は自分にそう言い聞かせた。
 でも。
 同棲している女が、違う男の子供を妊娠した。そのことを知ったときのリンの気持ちを思うと。思考がそこでとまってしまう。
 動画サイトで、林瑛斗のテレビ出演の動画を見る。何人かで歌ったり踊ったり。アイドルとは華麗なものだ。美しい音楽と、躍動的なダンスと、画面からあふれ出さんばかりのエネルギー。割れるような拍手や歓声が、彼らの肉体にしみこんでいるように見える。
 そんな中で、林瑛斗はマネキンのよう。
 スタイルがいいからか。
 顔が整っているからか。
 姿勢がいいからか。
 頭の片隅でいろいろなことを考える。頭の中心には、答えがある。なるべくそこを見ないようにしていたが、実はスマホで「林瑛斗」を検索しても、すぐにその答えが出てくる。
「林瑛斗 笑わない」
「林瑛斗 不機嫌」
 そんな検索候補が、少なくない。私はリンの笑顔をたくさん知っている。アイドルだから、逆に、クールビューティーで売っているんだ。このリンの無表情は、つくられた無表情なんだ。
 今度は自分にそう言い聞かせる。
 私はPCに目を向ける。まだチェックしていない監視カメラの映像が、そこにはある。リン来宅二日目の夜だ。
 私がお風呂に入っている間、彼は筋トレをしていた。そして私が寝たあと、彼も寝た。少し外が明るくなりはじめると、外に出た。そのあと、海での遭遇につながるのだろう。
 リン。
 海で見たリンはのびのびとしていた。確か笑顔だった気がする。
 海は広い。誰でも、海には居場所がある。
 海の近くの物件でも探してみようか。実際にはリンの新居であっても、引っ越しや各種手続きなどを私名義でやっちゃえば、リンの家って、世間にバレないのでは……。
 あ。
 ごちゃごちゃした思考に、一筋の光が入った。
 あ、私がここからいなくなればいいんだ。この家はリンに渡して、私は実家に行けばいいんだ。私は逃げも隠れもする必要はない。私なんかより、リンに、海の近くのこの家を使ってもらいたい。安直な考えであることは自覚している。でもそれが一番いいような気がする。
 漠然とした不安はいっぱいあるけど、大丈夫。監視カメラがあるから、何が起きても対処できるはず。
『リン~』
 優音宛てにLINEを出す。
『オレだよオレ。まさかの、LINEでおれおれ詐欺。なーんて(笑)』
『ばか(笑)』
 優音のスマホは常にリンの手元にあるらしい。
『ロナちゃん、ちょっと待ってて。こっから申請出す』
 リンから友達申請が届く。優音を介さなくても、リンとのやりとりが可能になった。
『リン! ここに住みなよ』
『ここってどこ』
『海の近くのこの家』
『邪魔だろ』
『私は実家行く』
『正月ってこと?』
『いや、リンがここにいる間ずっと』
『どゆこと』
『この家あげる』
『なんで』
 あんた住む家なくてかわいそうだけど、私が一緒に暮らすのはイヤだから、と内心で答える。
『私よりリンのほうが海に似合うから。この家いらない?』
『いる』
『OK。名義とか変えなくていいよね。どうせ郵便とかこないし』
『金は?』
『わかんない。どっちでもいいよ』
『そこはもらっとけ。お前んち泊ったら絶対一万払う。口座教えろ』
 なんでそっちが威張っているのよ、と思いながら、私は口座を伝えた。
『あと合鍵作っといて』
『了解』 
 根無し草のリンは、こういったことに慣れているらしい。あっという間に話はまとまった。家があれば林瑛斗は笑う、というほど単純な問題でもないだろうが、ないよりはあったほうがいい。
 私はすぐに母に電話をした。
「私、年末年始はお母さんたちと、そっちの家で過ごそうかな」
「ええ、そうしなさいよ」 
「最近ね、ゆーたんがたまに、遊びにくるの」
「まあ、そうなの? 優音ちゃん、もうすぐ結婚するんですってね」
「うん、まあ、そうね。ゆーたんママが言ってた?」
 たぶん、結婚はしないと思うけど、今はそんなこと、どうでもいい。
「ええ、ちょっと結婚と出産の順番は反対になっちゃう可能性もあるんだけど、お相手は商社の方だって」
 しょうしゃのかた。私は少し受話口を離して、はあっと大きなため息をつく。テルさんという人が商社マンである可能性より、優音が嘘をつく可能性のほうが明らかに高い。世の中、嘘八百だ。でもここは、優音の弱みを握っておかなければいけない。
「そうなの、ゆーたん、すごいよね。それでさ、ゆーたんが、初日の出を海で見たいんだって。でもホテルだといろいろ気をつかってストレスたまるから、もしできたら、私の家っていうか、あの別荘に泊まりたいっていうんだけど」
「あら、いいんじゃない? よかったら、その後こっちに寄ってもらえば?」
「うん、そうだよね。言ってみるね!」
 私は胸をなでおろした。母は基本的に楽観的なのだと思う。人に家を貸す場合のことを検索すると、すぐに「友達同士の口約束は危険だ、火事などが起きた場合、家の一部が壊れた場合、近隣への迷惑があった場合など、家の貸し借りには、さまざまなトラブルが起こりうる、その時に、間に入る不動産屋がいたほうがいい」との意見が、多数出てくる。 
 でも母は、日常生活においても、余計なことは考えないタイプだ。どうすれば指先を鍛えられるか。そういったピアノの課題に関しては、四十年以上考え続けているのだろうが。
『リンへ。以下、ゆーたんに伝言できる? これからリンにこの別荘を貸すけど、母にはゆーたんが使うかもって言ってある。商社の方の件もあるので、よろしく』
 リンからすぐに返信がきた。
『商社の方の件って?』
『こっちの話』
『ああ、なるほど。架空の男、みたいなヤツか。この前、優音、商社マンの連ドラ見てたんだ』
 リンは直観で事態を全て理解した上に、優音が口から出まかせで商社を選んだわけも、一瞬で見抜いた。こうやってこの子は生き抜いてきたんだ、そう思うと、この子に家を貸すことは安心できる気がした。私も母に似て、楽観的なのだろう。
 翌日には父の車が別荘まで迎えに来た。私は楽譜とノートPC、スマホ、お財布だけを持つ。衣類や日用品は、実家のものでかまわない。もともと住民票も移していないのだ。引っ越しの用意なんて、何も要らない。
 車に乗ると、父がペットボトルの温かいドリンクを渡してくれた。「年末はやっぱり道が混んでいるから、ちょっと今日は時間がかかるかもしれないな」と言いながら、私にDVDケースを見せてくれる。私は「ベタだけど」とカラヤンの第九のDVDを選んだ。
 私の親はなんて優しいのだろう。リンにはこの親のことを知られないようにしよう、そんなことを思っていた。

 5 監視カメラ
 実家につくと、まずノートPCを開いた。監視カメラをチェックするためだ。
 まだ痩せぎすの娘に対して、母はまるで腫れ物に触るように接した。
「元気だった?」
「うん。お母さんたちも?」
「ええ。元気よ。戻ってきてくれてよかったわ」
「うん」
 母を安心させるためにも、私はピアノに向かう。さすがにこちらのピアノも、管理が行き届いている。数時間弾いていると、あっという間に夜になった。
 監視カメラはきちんとリンの様子を伝えてくれた。リンは早速あの別荘に寝泊まりし、宅配弁当を食べていた。そして時折ピアノを触っていた。監視カメラに、音声はない。でも弾く姿勢がとてもよかった。ピアニストの姿勢になっていた。さすが役者だな、と思った。
 年末、リンが別荘に帰ってこない日が続いた。SNSをチェックすると、年末年始は芸能人が忙しい時期らしい。監視カメラにリンの姿が映らなくなった。実家にはテレビがあるので、タイミングがあえば、林瑛斗の活躍を私はテレビで見た。
 そして私は無事に家族と新年を迎え、リンはカウントダウンコンサートで、新年を祝っていた。
 一月三日に、リンは別荘に来た。五日ぶりくらいだ。監視カメラには、女も映っていた。酔った女を介抱しながら、リンはソファに座った。
 見知らぬ女と過ごすリンを見て、私の頭に浮かんだのは、優音のことだった。リンは優音のことが好きなんだと思っていた。それなのに。きっと優音は気にしないだろう。でも。
 リンの「優音が好き」はそんなに軽いものなのだろうか。ならリンは、優音とテルさんがいる家にも住めるのだろうか。私が実家に戻る必要なんて、なかったのだろうか。
『ゆーたん、テルさんって、どんな人なの?』即LINEしたら、数時間後に返信がきた。
『わーい、ロナじゃん! あけおめ~~!! なになに?? どんな人って??』
『仕事とか年齢とか』
『天才プログラマー。年は三十くらいかな。正確なのは忘れた』
『天才なの?(笑)』
『そう。ロナが好きそうな天才www』
 私は昔から天才と称される人が好きだ。優音もそれをよく知っている。最初に憧れた人物がモーツァルトだったから、と推測しているが、それは関係ないのかもしれない。一芸に秀でた人。特に、ピアノが天才的にうまい人に、バカみたいに惚れる。ピアノの天才であれば、自分で見極めることができるからだ。
 天才かどうかの判断は、その分野に精通していないと難しい。私の場合ピアノの才能なら、自分の耳ではっきりわかる。自力で、天才を天才と認定できる自信がある。だから、ピアノを続けてきてよかったなと思う。
 監視カメラの映像を見ると、女がソファで寝ていて、リンはピアノを弾いていた。器用なものだ。音は聞こえなくても、流暢なピアノであることが伝わってくる。なんでもこのくらい達者にこなせないと、アイドルとしての仕事もできないのだろう。
「リン」
 思い切って電話してみた。
「あっロナちゃん! あけおめ~~」
 リンの声に、優音のLINEを連想する。リンと優音はお似合いなのにな、と思う。
「うん、おめでとう。昨日テレビみたよ」
「マジで?? どうどう?? どうだったオレ??」
「歌、うまいね」
「わーい! ピアノの人に褒められた~!! おい、はな! オレかっこいいってよ、やっぱ」
「かっこいいとは言ってないけど、ちょっと、はなってだれ?」
「いまねーいっしょに帰ってきたのー」
 リンがソファの女を揺さぶる。
「おい、おきろよ、はな。この家の主に挨拶しろ」
「えーなにそれーあー電話かー」
 女が面倒くさそうに声を出す。
「おじゃましてまーす、そのうちかえりまーす」
 女はソファで目を閉じたままだ。リンが起き上がって、「ごめん。勝手につれてきて」と言った。
 たまたま、監視カメラのほうを、リンは向いている。
「今日宿泊者、プラス一人な。二万置いとく」
「それはいいけど、はなってだれよ」
「はなはね……たまに遊ぶ子。はなも、偉い人の愛人やってるからさ、ストレス発散したいんだろ」
 アイジンという言葉。知ってはいたけど、音で聞いたのは、初めてだ。愛人って、なに。そんな問いを、なんとか飲み込む。
「ねー今夜もオレ、テレビ出るよーん」
 リンは電話しながら、スマホをいじりだした。
「あ、やばい、これ、今夜じゃなくて明日か。二十五時って書いてあるから、明日の一時だよ。ロナちゃんち、録画できる? オレこれオンエア見たいなあ。たっかい衣装着て歌ったんだもん。ははははは」
 リンは一人で話し、一人で笑っている。酔っぱらっているようなその声が、ちょっと空虚に感じて、私は好きだ。リンと過ごしたのは二日間だけで、私はまだリンのことをほとんど知らない。お行儀が悪いこととか、非常識なこととか、頭が悪そうなこととかにいちいちびっくりするけど、私の家に、知らない女とリンが暮らすなら、私がリンと暮らすべきだと思った。
「リン。私、そっちの家に戻っても、いい?」
「いいに決まってるじゃん」
 リンはまた笑う。「だってここロナちゃんちだもん」
「だよね。じゃ明日戻るわ」
 私はまた急に、決めた。電話のあと、まもなく、監視カメラの画面は真っ暗になった。部屋の照明が落とされれば、監視カメラの映像も暗くなる。
 リンとはなって子は、一緒に寝てるんだろうなあ。そう考えると、なんだか寂しくなり、私は自分の両手で自分の体を抱いてみた。愛人っていうのは、さぞかし美しい人種なんだろうなあと思った。
 翌日「またあっちの家に行くね」というと、両親とも「はいはい」と送り出してくれた。摂食障害の娘に、どう接していいかわからないのだろう。私だって自分を客観的に見た場合、なんて声をかければいいのか、わからない。何かアクションを起こすのは怖いから、とりあえず見守るという行為に徹すると思う。
 両親ともに音楽学校での仕事がある。しかも年末年始は、受験関係の仕事も増え、とても忙しい。
 私が物心ついたときには、父親だけではなく母親も、「音楽学校の顔」として働いていた。祖父が理事長、父が学校長。祖母が経営のプロであり、母は広報がうまい。そして全員が、生粋の音楽家であり、優秀な音楽教師だ。我ながら、良い家柄に生まれついたと思う。跡継ぎ問題だけが気がかりだが、今のところどうやら、結婚をせかされる気配もない。
「そうだ、お母さん。あのね、西田さんってすごくいい人なんだけどね」
 私は別荘に向かうタクシーの中、急に母に電話をした。
「どうしたの」
「全然、不満はないんだけどね、浮気調査してもらえないかしら」
「興信所にってこと?」
「そう。よく恋人は浮気の心配をするものでしょう」
「そうね、頼んでおいてあげるわ」
 母はなんでも安請け合いする。そこが母の長所だと思う。
 私はスマホで「興信所の浮気調査について」のサイトを読んだ。どの業者も、かなりものものしい文面だ。自分で依頼しようかと思ったが、依頼主が未成年の拒食症では、探偵にバカにされるだろう。話のうまい母が発注したほうが、正確な結果がわかる。
「リンくん、ただいま」
「ロナちゃーん、今日オレ休みなんだー!」
「あのね、ただいまって言われたら、おかえりだよ」
「なんだそれー」
 何がおかしいのか、リンはげらげら笑う。実家のテレビで見た林瑛斗は、目つきが悪かったり無表情だったりしたのに、目の前のリンは目じりにしわを寄せて、バカみたいに笑っている。君が笑っているとうれしい、とか、笑顔の君が好き、みたいな歌詞が世の中にはとても多いが、私はその言葉の意味を初めて実感した。
 ほのかにリンの香水が香るその部屋は、とてもきれいだ。片付け上手なことをほめようかと思ったら、リンは勝手に話し出した。
「あのさぁ正月どーだった? オレはさ、仕事の合間に初詣行ってさ。おみくじ、引くじゃん。なんと凶だったんだよ、ひどくね? すげー腹たってさ、もう一回やったらまた凶。なんてゆうんだっけ、あの、和服の女の子」
「えっと、なんのことだろう」
「ほらあの、おみくじ売り場にいるコたち。店員さん?」
「ああ、巫女さん?」
「そうそうそう、巫女さんがガチで申し訳なさそうな顔してたけど、マジやば。もうオレ今年だめだわ、呪われてるわ」
「何言ってんのよ、もうその神社に行かなきゃいいわよ」
 よくしゃべる子だ。私は笑いながら「おみくじ 凶」を検索する。
「でもおみくじの凶はいいらしいよ」
「えーうそだよ」
「凶だと、これから悪いことが起こりそうに思えるけど実はその反対で、これからいいことしか起こらないって。今のこの状況が、あなたの人生にとっての底ですよ、っていう意味で、今は凶ですよってことらしい」
「へー」
 きっと今の説明は、リンの頭には理解されなかったんだろうな、と思わせる「へー」だった。
「オレさーおととし大吉だったのに、いやなことがあったんだよね。あれは、その逆だったの?」
「知らないけど、あ、おみくじの引き直しはNGだって。凶ってことより、二回引いたのが問題じゃない?」
 軽い冗談のつもりで言ったら、リンの顔色が悪くなった。口を閉じたまま、困った顔をしている。
「あ、大丈夫だよ。二回引いても、二回めのが無効になるだけで、別に、運勢に悪影響はないって」
 口から出まかせを言った。
「よかった」
 リンは小さな声でもう一度「よかった」と言った。
 それからしばらくの間、私たちは一緒に暮らした。私はリンの言動に呆れたり腹が立つことも多かったが、リンはいつでものびのびとしていた。
 リンは仕事が忙しいこともあり、時折、何日間も姿を消した。仕事以外の理由もあったのかもしれない。リンがいないとき、私はネット上でリンを見ていた。動画サイトでもリンをたくさん発見できたし、様々な動画配信サービスを活用して、ドラマや映画でのリンを見ることもできた。
 でもリンが帰ってくると、すぐに、見ていた痕跡を消した。芸能人のリンを覗き見ることに関して、リンが肯定的なのか否定的なのか、全くわからない。わからない場合は、やめておこうと思った。
 好かれたいという気持ちと、嫌われたくないという気持ちは、別物だ。私はリンに嫌われたくないと思うようになっていた。だから、二人の関係に波風立てないことばかり、考えていたのだ。

 6 両親

 ある日突然、リンが缶ビール一ケースを持ってきた。ソファに座って、私に差し出す。
「今日成人式だろ。優音がタイムラインにあげてた。おめでとおめでと、乾杯しようぜ」
 私は噴き出した。
「私の誕生日は三月よ。分かる? 成人式過ぎたって二十歳の誕生日になるまでは、お酒飲んじゃだめだから」
「マジで」
「しかもゆーたんは、誕生日は八月だけど、本当は、赤ちゃん生まれるまで飲んじゃだめだからね」
 優音の振り袖姿を、私もLINEのタイムラインで見た。「これから同窓会!」と書いてあった。優音の小中の同級生は皆、私の同級生でもある。艶やかに着飾り、メイクをしていても、誰もが幼少期の面影を残しているものだ。リンの幼少期の顔を見てみたいなあ、なんてぼんやりと思っていたら。
「ちょっとならいいんだよ」
 リンが低い声でつぶやいた。
「お酒? そうかなあ。妊娠してる人は、ちょっとでもやめたほうがいいと思うよ」
「違うよ、一口程度ならいいんだよ、飲みすぎたり酔っぱらったりするのがヤバいんだよ」
 リンの語気が荒くなった。その勢いにおされて「あ、そう」と返事をする。よほど優音の肩を持ちたいんだろうと思ったら、違った。
「妊婦がアル中だと子供がバカになるんだよ、オレみたく」
「なにそれ」
「前に母ちゃんの男が言ってた。母ちゃんが酒飲みだから、オレの頭がバカなんだって」
 私の胸が痛む。いつからリンに、ここまで感情移入しているのだろう。聞き流せばいい、適当に相槌を打つだけ十分。そう判断する頭もあった。それでも。リンの心に思いっきり寄り添ってしまう自分がいる。
 この子は本当に、利口ではないと思う。行動のすべてが、デタラメだ。カノジョが、違う男の子供を妊娠して、見ず知らずの私の家に逃げてきて、芸能人なのにこんな田舎から仕事に行って。それを世間にはすべて隠さなければいけなくて。いわゆるばかであることは否定できない。ただ。
「頭なんて、良くても悪くても、私はどっちでもいいのよね」
「いいよ、そういうの」
「あのね。右も左も、私たちの感覚では同等でしょ。それと一緒」
「ん?」
「一から九まで、数字はあるよね? 一より九のほうが大きい数字だけど、数字同士を比べた場合、どっちでもよくない?」
「はあ? イミフ」
「番号だったら、一番でも九番でも、どっちでもいいでしょ。一月生まれでも、九月生まれでも、どっちが偉いとか、ないでしょ。一日でも、九日でも、二十四時間の価値は一緒でしょ。そういうこと」
「ああ、ちょっと分かった」
 リンは何度もうなずいた。伝われ、と願う。私の頭に浮かぶ思考が、ごそっとリンに伝われ。そう願うから、私はどんどん言葉を重ねていく。
「もしもね、頭の良さに一から九まであったとしても、その価値は、私にとっては、一緒なの。一でも二でも九でも、一緒なの。世の大半の人間が、隣に住む人がピアノうまくてもへたでもどっちでもいいように、私はあなたが頭良くても悪くても、どっちでもいいの」
 言葉にしてから、ちょっと語弊があったかな、と後悔する。これでは私がリンに無関心みたいだ。人に自分の気持ちを伝えるということは、とても難しい。
「お前はよくてもなあ」
「世の中にはいろんな人間がいるって言ったの、リンじゃん。私あの言葉すっごく考えたの。そして思った。無いがあるってこと」
「ないがある? やっぱりイミフ」
「なんだろうな、たとえば音感。音感がない人が、音楽を聴いたときに、どう聴こえているのかって、音感のある私たちには理解できないじゃない。でも音感を持っていなくても、耳が肥えている人ってたくさんいるんだろうなって思うの。音楽の良し悪しがわかる人っていう意味。リンのファンのつぶやきとか見て、考えたんだけどね」
「お前、そんなの見てんの?」
「うん、けっこうリンオタクをフォローしてる。リンの映像が流れてきておもしろいよ」
「まーじーでー?」
 リンが爆笑したから、私はとりあえず安心した。私は説明が下手だし、彼は理解が下手だ。それはそれで、いい。今笑える状況なら、あとはもう、何でもいい。手を叩いて笑うリンの姿に、やっぱり本当にばかだし、とも思った。
 リンは上機嫌のまま、缶ビールを開けた。
「しかたねーからオレが飲も」
「ばか。リンはもっとダメに決まってるでしょう」
「ははは、ロナちゃんがバカってゆった」
 私はほとんどアルコールを見たことがない。両親も祖父母も飲酒をしないからだ。アルコールの危険性を何も知らずに成長したのだけど、せっかくなので検索してみる。
「未成年。飲酒。えっとね、未成年でお酒飲むのは……体にも心にも悪いって」
 リンは缶ビールをじっと見つめた。そのまま缶に描かれた「生」の文字にキスをする。
「オレ小学校でこの文字習ったときさ、ビールの漢字だって言ったの。そしたら先生が軽蔑した視線送ってきたよ」
 対象が何であれ、イケメンがキスをしている姿というのは、芸術的な絵になる。私は心底見とれた。見とれるという経験を、生まれて初めて味わった気がした。
「先生の生もその漢字だから、きっとシャクだったのよ」
 リンは軽くうなずいてから、ビールを流し込んだ。
「これね、オレがロナちゃんを信じてますって意味だから」
「ビールを飲むことが?」
「悪いことすることが。ロナちゃんはオレを裏切らないってオレ決めたから、ロナちゃんの前で悪いことしてんだからね」
 人を信じること。人に裏切られること。この二点に、私は今まで無頓着だった。そして、人を愛するということには、ますます疎かった。
 この子の長所は、誰のことでも愛せること。以前、優音から送られてきたリンのテレビ画像が、いまだに忘れられない。誰のことでも? テレビ向けの表現だろうか。
「悪いこと、見逃してあげる。その代わりに、この質問に答えて」
「なに。こわっ」
「親の居場所は、知ってるの?」
 リンが新しい缶ビールに手を伸ばしたから、私がそれを制した。リンの手の上に、自分の手を重ねる。リンはそのまま動きを止めた。私はそっと手を離す。リンは私の手を、軽く追う。
「質問に、答えて」
 行き場をなくしたリンの手が、口元に運ばれた。どんなポーズをとってもいちいちサマになっているところがさすがだが、その手や手首にはいくつかの古傷がある。
「母親の居場所は、なんか、宗教に入ったらしい。そう、ネットに書いてあった」
 なんだよ、私と同じレベルの情報かよ。私は内心でツッコミを入れる。
「あの人は、やっぱりオレと同じで、バカだったんだよな。でもオレと同じで、優しい人なんだ、ね、オレも、そういうタイプだよね? オレ、優しいよね?」
 話を先に進めるために、とりあえず私はうなずいておく。
「優しい人同士で、オレとあの人は、仲良しだったんだよ。うん、たまに酒のせいで荒れてることはあっても、そんなの酒のせいだからさ、別にいいじゃん。好きだもん、オレ。母親のこと、マジで好きだもん」
 いつもリンの話は要領を得ないが、今回は特にひどい。いつまでも母親への愛情を語り続けそうなので、手の古傷に関しての質問に変えようかと思ったとき。
「好きな人の気持ちと、自分の気持ちと、どっちとるかってゆったら、ね、なんかすげー迷うけど、っていうか、やっぱ好きな人っしょって、前はなってたんだけど、ガチでそうなったら、勝手に決まるっていうか、ね、そうなのよ、自分の気持ちでしかやっぱ自分の体は動かねえんだよ、そう。そうそうそう。そんな感じ。ごめん。なんか重かったな、オレ、重かった重かった」
 リンは泣いていないのに、なぜか私がもらい泣きしていて、リンはそんな私を見て、口をつぐんだ。だめだ、私の思考までごちゃごちゃになってくる。
「話して。まだ重くないじゃん。だからいいよ、重い話、していいよ」
 リンはため息をついた。それだけでなぜか、私は泣けてくる。なるべく音を出さないように、私は涙を流した。
「ロナちゃんが初めて。マジで、これ初めて人に言う。言っていいのか分かんないけど。いいよね。もう、分かんないな。ロナちゃんなら、誰にも言いつけないから、うん、言おう。今から、言うよ」
 リンが無駄な言葉でしっかりと前置きを作ってくれたおかげで、私の心は落ち着いてきた。私の涙は止まり、微笑んで見せると、リンは小さな声で語り始めた。
「あの人はオレと、じゅすい、するつもりだったんだ。死んだら幸せになれるってそういうことをずっとオレに教えてきた。きっと自分にも言い聞かせてたんだろうな。死んだら二人で旅行しようとか、死んだら遊ぼうとか、死んだらお金なくても大丈夫とか、もうそればっかり。しばらくはゆってるだけだと思ってたけど、あるとき一緒に海行こうって言われて、好きな女の子とかいたらサヨナラしておいでって、友達にもバイバイしておいでって、小六のとき。そんとき母親に男もいなかったし、これヤバイなって、こいつマジだなって、なんかヤな予感しかなくて。
 母ちゃん、一人で行くの寂しいよ、なんて言いだして。普段自分のこと母ちゃんなんて言わなかったくせに。だから途中まではオレも本気だったんだ。母ちゃんを信じようって。海に入っていったんだ、オレも。母ちゃんは輝いてた。幸せそうだった。特に笑ってたわけじゃないけど、全身が喜んでるなって、オレは息子だからかなぁ。ちゃんと分かってさ。だから安心したんだよ、オレは。大丈夫だよねって。もう母ちゃんは、大丈夫だよねって。そう思ったら、体が勝手に泳ぎだした。海の出口に向かって、必死に泳いだんだ」
 リンがビールを手に取る。私は立ち上がって、コーラを持ってきた。ペットボトルの飲み物は各種常備してある。
「私、前に、変なこと言っちゃったね。ごめんなさい」
 リンからビールを取り上げ、コーラを渡す。リンには、この言葉だけでちゃんと話が通じたようだ。
「この家にお化けが出るっていうあれ、ほんとの話?」
 嘘の話だ。あの時リンを追い出したくて、適当なことを言っただけ。
「オレあの夜、母親が夢に出てきたんだよ。その前の夜は、不気味なお化けがピアノから出てきて怖かったんだけど、あの夜は、あの人が会いに来てくれたんだ。やっぱ海の近くっていいなあって、オレは海に住みたいなあって思った」
 リンはコーラを少しずつ少しずつ、なめるように口に入れた。
「コーラ嫌いなの?」
 思わず聞いてみると、「よく分かったね」と苦笑いしたあと、リンは舌を一瞬出した。
「ごめん、知らなかった」
「いいよ、飲めるし」
「大丈夫、私飲むよ」
 そう答えて、私たち、なんか仲良しじゃない? って自分で思った。思ったと同時に、私は貝殻を連想した。
「これ、お母さんだよ、きっと」
 貝殻を二つ、棚から持ってくる。本当によく似ているから、私が拾ってきたのがどっちか、もう見分けがつかない。
「はあ?」
「リンのお母さんならきっと、美人でしょう」
「まあねえ、ちょっと整形してたけどな」
「え、整形? どこを?」
 私も整形を考えたことがある。摂食障害の極みだったときだ。みんながあまりにも「痩せてきれいになった」というようなことを言ってくれるから、もっともっとという欲が強くなり、整形も視野に入れたのだ。
 現実には、目でも鼻でも輪郭でも、いじれば聴覚に何らかの影響がある気がして、整形はあきらめたのだが。
「どこいじったのかなあ、ほうれい線とか? 唇にヒアルロン酸とか? あ、おっぱいもデカくしてた可能性ありだな。そう、今見てえな、母ちゃんの身体。すげえおっぱいデカかったんだよ、だんだんやせ細っていくのに、おっぱいだけはデカかったんだ。マジで」
 その時初めて、リンの目から一粒涙がこぼれた。
「さぞかし美しかっただろうね。写真とかないの?」
「ない」
 リンの涙が一筋の線になった。
「ないんだよ、あったかもしれないけど、なんか、探すヒマなかった。オレはずっと逃げてたから。母親のものも自分のものも、何にも持たずに逃げた。母親は、気づいたら人から金借りて、返せなくなって、逃げて逃げて。オレらずっと逃げてた。昔のさ、整形してた時代なら写真くらい撮ってたんだろうけどさ、かわいそうに。オレが知ってからは、写真なんか撮る余裕なかったんじゃね? 働いてばっかだった」
「お仕事してたの?」
 リンの母親のイメージをつかみたかった。貧しい美人で、お仕事をしている人。私の頭の中は、ほとんどおとぎ話に近い。自然に浮かんだイメージなんて、魔法にかかる前のシンデレラだった。
 リンは「おしごと」と復唱して、私のことを上目遣いで見た。涙に濡れた目は赤くなっていて、私は胸が締め付けれたような気がした。どんな職種かは聞かないことにする。
「うん。お仕事してお仕事して。いっつも疲れている人だった。ほんと、オレ、あいつのこと大好きだったし、普通に美人だったし、オレと似てたし。そうそうそう、今もさ、オレがメイクすると、母親みたいな顔になんの。けど、でもさあ、たぶん少しずつ忘れてるんだよ。覚えてるけどさ、でも忘れてく。うん。しょうがないよ、これはもう。オレがバカじゃなくたって、写真がない人の顔なんて、だんだんだんだん記憶が薄れていくよ。ぼやけていくよ。そう思わね? 写真は大事だよ。写真は、多ければ多いほどいいよ」
 私の手には貝殻が二つ。そっとリンに手渡す。
「お母さんはさあ、人魚になったのよ。すっごい美人な人魚。それでね、この貝殻がお家なの。ここからふわーって、アラジンと魔法のランプみたいに、ふわーって出てくるの」
 私は話しながらその内容に自信をなくしていたが、リンは真剣なまなざしで、二つの貝殻を見つめている。何度も指でなでながら。
「貝殻二つあるじゃん。オレとお前どっちかしか貝殻拾ってこなければ一つだったわけだし、違う貝殻を拾ってきても、一つと一つだったけど、これは完全に、同じ貝殻が二つじゃん。それってさ、母ちゃんは今、誰か好きなヤツと一緒にいるってことで、いい?」
 なぜか私に判断をゆだねられた。
「そう。お母さんは誰かと一緒にいて、今この家に来たがったってことだよ」
 リンは貝殻を舌の先でなめた。二つの貝殻を、交互に。
「よかった。あの人は誰かと一緒じゃないと、生きてけない人だったから。寂しがりやなんだよね、オレと一緒で」
 息子と一緒にいても生きていけなくなったんじゃん。母親が勝手なことをしたせいで、あんたは独りぼっちになったんじゃん。今までで一番強く、内心ツッコミを入れる。普通病死だって、小学生の子供残してたら死にきれないって言うじゃん。それなのに子供と一緒に死ぬとかそういうの、ありえないでしょう。
 口に出せない思いで、胸がいっぱいになる。言葉にしていることなんて、思っていることの十分の一にも満たない。きっと誰もがそうなんだろうな、と思う。きっとリンも。
「ロナちゃんに話してよかった。母ちゃんが、ここに、見えたから」
 リンの手のひらには、二つの貝殻。もしかしたらこの子には本当に、ここに母親が見えるのかもしれない。それならよかったと、とりあえずソファーから立ち上がろうとしたら。    
 リンの手が私の腰をつかんだ。
「おい、どこ行くんだよ」
「え、別に」私も入水自殺を心配されたことがある、という話をしたくなったけど、実際にそういう人がいて、その人のせいでリンは深い悲しみに襲われているのだから、そんな話題は避けるべきで。ただ「別に」の後が続かなくて、私はリンのことをただ見つめた。
「まだ話終わってないじゃん。だってほら、父親の話、してねえよ」
 まるで私を繋ぎとめておくための話題という感じで、父親の話が始まった。
「父親のほうはさ、居場所なんかないんだぜ。今もきっとこのへんウロウロしてる」
「え、このへん?」
 また幽霊かと思ったら、違った。
「そう。落ちてる金拾おうと思ってさ、ウロウロしてるタイプ。こんな立派な別荘とか、あいつにバレたらヤバい。そんな感じ。サイテーだな」
 嘘でしょ、という言葉が喉元まで出かかった。でも私には分かる。
 この子は、嘘ついていない。この子の親は、本当にサイテーだ。こんな親なら、リンに愛される資格はない。誰のことでも愛せます、は当然テレビ向けだったのだ。まさか「両親以外なら誰のことでも愛せます」というわけにもいかないのだから、その判断は正しい。
「前に言ってた、親とのルールを破ったってのは、どういうこと?」
「さあな」
 リンが大きな伸びをする。さすがに話し疲れただろうか。首や肩を回し始めたリンに、私は少し寄り添った。
「マッサージでも、してあげようか?」
 リンみたいに、自然な流れで、人の肩に手を置くのは難しい。様子を見ながら、軽い調子で声をかけてみた。すると。
「どこを?」
 リンが下卑た笑みを浮かべたので、私は眉をしかめた。正直、さっきからこの空気に戸惑っている。私とこの少年との関係は、どうなっていくのだろうか。
「ロナちゃん」
 リンがまっすぐ私を見つめてきた。私が知っているリンのあらゆる情報が、一瞬でぎゅっと固まって、私の中に入ってきた。私の価値観で判断した良いところも悪いところも、すべてを一瞬で受け止めて、そして、私は目をそらした。
「いや?」
 まっすぐな声で、聞いてくる。視線も声も、純度100%だ。それでも私は、彼に「けがれ」を感じた。自分とは異人種だ。異人種同士の交流は、我が家では、否定されている。代々生粋の音楽家であり、それを自慢している我が家では、どんな人間に関しても、常に家柄重視だ。
「リンのほうこそ、いやでしょう?」
 骨が透けて見えそうな私の体は、ちょっと見ているだけでも気持ち悪いはずだ。私だったら、見てはいけないものを見てしまったという気分になるだろう。我ながら不気味に感じる。
「優音から、ロナちゃんに手出すなって言われたからな」
 リンは明るく笑った。一瞬で空気がさわやかになる。
「ルール違反ってのはさ、優音なんだよ。優音は最初、オレの父親の女だったんだよ」
「えっっっ」
「優音は芸能人が好きだから、オレの父親も業界の人間だから、そんで最初父親にくっついてたわけ、優音は。そのあとオレのこと知ったら、優音はオレのほうがもっと芸能人だしさ、なんか知んないけど、まあ、優音もオレも、お前みたいに、なんつーか、ちゃんとしてないからさ、マジ、悪気はなかったんだけどな。別にホントは父親も気にしちゃいねえんだけどさ。女のことなんか、どうでもいいヤツだからさ。ただ金せびる理由なんだよな。女をとっただのなんだのって」
 お金とか女性関係とか。いかにも低俗な話題ばかりだ。本来、耳に入れたくもない言葉が、リンの口から次々と出てくる。だんだん不快感が増してきて、「父親、サイテーだね」思わず言ってしまった。
 他人の家庭に関して口出しをしても、ろくなことがない。どんなに父親が悪かったとしても、子供からしたら、赤の他人が父親の悪口を言うのは不愉快かもしれない。でも、そんな理屈関係なく、リンがかわいそうじゃん。私の心がそう叫んでいた。
「悪いけどその父親、犯罪者だよ。恐喝してるし、育児放棄だし、だいたい優音が未成年のときから付き合ってたってわけでしょ、それはそれで何とかっていう罪になるはずだし」
「ははは、確かにそうだな」
「笑いごとじゃないわよ」
 リンは、優音に特別な感情を抱いている。その優音との複雑な関係性に、私は他人事ながら、悔しくなってきたのだ。
「私がその犯罪者、捕まえたいくらい」
 リンは手を叩いて笑った。そのまま、
「マジ殺してえんだよな」明るく健全に、物騒なことを言う。だから。
「そうよね、私も殺したい」同意すると、リンは脚をバタバタさせて喜んだ。ゲラゲラと笑い転げる。つられて私も笑った。唐突に、二人分の大きな笑い声が響いた。
「なんかすっきりした。お前が」とリンは私をまっすぐ指さした。
「お前が、殺したいって言ったから、オレの中のあいつは、死んだ」
「ん?」
「オレの中で、今お前の位置、めっちゃ上なんだわ。もう神かっていうレベル。そのお前が父親のこと殺すって言ったんだから、神が殺してくれたようなもんじゃん。だからさっぱりしたんだよ」
 あっちこっちツッコミどころ満載の説明をされて、半分くらいしか意味が分からない。それでもリンの気持ちは、ダイレクトに私の心に伝わってきた。私の本音を引き出し、無茶苦茶な本心をさらけだしてくれる。リンのコミュニケーション能力に、得体の知れない力を感じた。

 7 愛

 たまにはなちゃんが遊びにきて、リンと二人で出かけていった。彼女は専業愛人だという。「ここはオアシス。リンちゃんはペット。ロナさんは……女神」はなちゃんはそんなことを歌うように話した。
 リンは、はなちゃん以外の女もつれてきた。リンと同世代の女の子もいれば、かなりオトナな女性もいたが、不思議とリンはどの女性ともお似合いだった。でもリンは、多くの夜を私の家のソファーで過ごした。それが私はうれしかった。
 リンの宿泊費は約二か月で二十万円以上貯まっていた。リンは宿泊するたび、律儀に一万円ずつ振り込んでいて、食料品や日用品もリンが買いそろえている。
「お金、今は大丈夫なの?」
 リンの過去の話を聞いたあと、何日か経ってから、確認してみた。
「こう見えて、貯金好きだから」
「そう。一泊一万円も出してて、いいの?」
「まあ、バッチリ身の丈に合った生活だな」
「贅沢な十七歳ね」
「働き者の十七歳なのさ」
 テレビは、毎週出演している番組がある。コンビニに並ぶ雑誌に、リンの連載がある。来月からは、所属しているグループでのコンサートツアーが始まるという。
「稼いだ金、ほとんど貯金してるから。しかも金を欲しがるヤツとは絶対付き合わねえから。ほらお前も金に興味ない系じゃん」
「そうね。でも、あの、お母さんのところに来ていた、借金の取り立て? みたいなのは、大丈夫なの?」
 リンは窓を拭きながら、快活に話した。話の内容にそぐわない口調だ。
「うん。男がいたんだよね。母親の男。タロウっていうんだけど、そいつが、母親を生命保険に入れてて。ついでにオレまで入ってたんだよ、オレ全然知らなかったけどさ、オレの生命保険も担保に入ってたんだってさ。タロウにフラれたから母親は海に行ったのかな、わかんねえけど。そんで、オレは、父親とか父親の親戚関係が最悪だったってのもあって、タロウは好きだったんだ。年も若くて、オレをかわいがってくれててさ。オレ、知らないうちにタロウの事務所に入っててさ」
「今の芸能事務所?」
「ま、つながりはあるよ。オレが芸能人できるってなったときに、LALAに移ったんだけど。芸能事務所なら子供でも入れられるから、事務所やる人間からすると、芸能ってつけときゃ便利なんだろ。そんで、オレがそこに入ってたから、母親の死亡届で、借金はチャラになったんだよね」
 よく話が理解できないし、本当に今の経済状況は大丈夫なのだろうか、という不安も芽生える。でも細かく追及する気にはならない。リンが語ってくれる話だけで、私は十分だから。
「とにかく大丈夫だよ。ロナが、殺してくれたからさ。父親だけじゃなくて、オレに関わる悪い奴ら全員、ロナが撃ち殺してくれたよ」
「そんなこと」
「オレが大嫌いな野郎のこと、お前も秒で全否定して、その上はっきり殺してくれたんだ。けっこううれしかった。マジで。これからオレの前にそいつが現れたとしても、もう死んでる奴だってみなしてやる」
 私は曖昧にうなずきながら、話を変えた。
「お金大丈夫ならさ、リンはいつもソファーで寝てるけど、そろそろこの家に布団かベッドか、買ったら?」
「うーん。ソファーがいいや」
 なんで、と聞きたかったけど、明確な理由を持ち合わせていなかったら気の毒なので、聞かなかった。やっぱり仮住まいだからだろうか。そもそもここは祖父の別荘で、立派な家でもないし、もちろんリンに、永住する気がないことは知っている。それでも、一瞬でも別れを連想すると、辛くなった。
「ねえ、私前からベッドで寝たかったのよ。だからさ、私がベッド買ったら、この布団、リンにあげる」
 私は通販で、ベッドを衝動買いした。リンとは違って、収入もなければ貯金もしていない。そのうち罰が当たるかもしれない、と思うこともある。
 それはそれで構わない、今こんなにのんきな生活を送れて、リンとの楽しい日々を過ごしているのだ。その代償がいつか来ても構わないから、今この生活を存分に楽しもう。そう思えるくらい、リンとの生活に慣れた二か月だった。
「ロナちゃん、写真撮っていい?」
 ベッドが届いた日、ベッドの上に座る私を、リンはスマホで撮った。母親の写真がなくてリンは悲しんでいたから、お互いに写真を撮りあった。ベッドの上でツーショットも撮った。
 それ以降、私たちは頻繁に写真を撮りあうようになった。いつか別れても、顔を忘れないようにするために。
 私はリンの雑誌やDVDも買うようになった。当たり前なのかもしれないが、リンの商品を買うと、リンはとても喜んだ。こんなに喜ぶのなら、もっと早くから買っておけばよかったと思った。
「リンを見るために、テレビも買おうかな」
 さりげなく言ってみると、「テレビはなくていいよ」と即答された。
「テレビにはかっこいい人いっぱいいるからさ。ロナちゃんにはあんまり、他の人を見られたくないんだ。テレビなんか見る暇あるなら、俺のDVDをずっとパソコンで見ててよ」
 リンの素直な言葉が、私はうれしかった。こんな生活が永遠に続きますように、と願った。そんな願い、叶うわけがないから、心の底から真剣に、私は祈った。こんな生活が永遠に続きますように。
「今日さ新曲の撮影をしたんだ」
「お疲れ様」
「なんか笑ってんじゃんって言われた」
 誰が誰に? と確認したくなったけど「そうなんだ」と相槌を打つ。
「エゴサしてたら最近あんまり、笑わないって書かれてない感じだしね」
 リンなりに婉曲な表現を使っている。だから余計に意味が分かりにくいのだけど、婉曲にするということは、すなわち、自分に関する肯定的な話なのだろう。
「SNSでもリンのニコニコ画像、よく見るよ」
「だよね、マネージャーにも言われた。それ。そしたらメンバーに、さっきのも笑ってたじゃんって」
 リンがメンバーにどの程度、私との生活を話しているのか、分からない。マネージャー公認でも、メンバーには秘密にしていることが、リンには多々ある。
 週に一回、腰痛治療に通っていること、友達のツテで話題作ドラマへのゲスト出演が決まったこと、人脈を広げてついには石油王の会合にも呼ばれたこと。「バレるまでは隠す」がリンの基本姿勢だ。
 ただきっとメンバーにも何か勘づかれているのだろう。それでもリンがここに帰ってきたということは、今の生活をリンから奪う必要はないと判断されたのかもしれない。
「リンは笑うと、アゴがとがるから、もっとイケメンになるよね」
 途中からちょっと照れたが、私は何とか言い切った。
「ロナちゃん、顔赤くなってるー。めーっちゃかわいい。はいチーズ!」
 リンが私の隣に密着し、細長い腕を私の腰に回して、ツーショットの自撮りをした。私は恥ずかしすぎて、リンの胸に顔をうずめてしまった。
「ロナちゃんの体温、36度2分だな、きっと」
 リンは笑いながら、私の髪をくしゃくしゃに動かした。私は身をかがめて、リンの手から体を離した。
 たまにガラの悪い男たちも遊びに来た。リンの友達だ。チャラチャラした格好の人が多くて、色の黒い人も多くて、最初私は拒否した。
「なんでこんな人たちを私の家に入れるの? やめてよ、どっか違う場所に行ってよ」
 男たちがガヤガヤと騒いでいる中、リンにこっそり頼んだ。リンは「だめなの?」とびっくりした顔をした。
「だってオレの友達なんだもん。ほら、いつも話してるじゃん。あいつが優音とも仲いいトシキな! で、あいつがリキ。マジシャンなんだ」
 リンは友達が多い。普段からよく話には聞いていた。だから名前はだいたい把握していたのだが、体格のいい男が五人も六人も家に入ってくると、訳が分からなくなる。
 そのうえ「あっ女の子もいたほうがいいか」なんてリンが独り言を言いながら電話を始めるから、「いや! 別に女の子もいらない!」と私は慌てて制したりもした。
「ま、ロナちゃんはテキトーにしててよ」リンはさわやかに笑って、私の頭をポンポンと撫でる。どっちのセリフよ、と私は思ってしまう。そもそもこの家に、我が物顔で人を呼ぶ時点で、どこかが間違っている。
「寒くない? 大丈夫? エアコン自由にしてな」などと勝手に人のリモコンを友達に渡していたり、「コンセント、あっちにもあるからねー」などと人の家の中を案内したり、挙句の果てには「狭くてごめん」なんて言い出す始末で、私はもう、何も言えなかった。ただただ自分の寛大な心に自己陶酔していた。私は今まで気が付かなかったけど、神様のように優しい女だと自負した。
 その後、何度か男たちが集まるようになり、私にはどんどん神様の優しさが育まれていった。
 いつでも男たちは勝手気ままに座り込んだが、だれもがピアノからは少し離れていた。家に来る前に、リンが徹底的に注意しているらしい。
「ピアノに指一本でも触れたら、てめえの指がなくなると思え」と。ついでに「ロナに手出したら、てめえの命がなくなると思え」とも。
 自分は普段から勝手にピアノを弾いているくせに、妙な注意をするものだ。
「リンはさー怖いヤツらともつながっているからさー。自分の手は使わずに、相手を脅迫できるんだよなー、すげーよなー」と、教えてくれた男もいた。紫の髪で、ピエロみたいに全身カラフルな服に身を包む、見るからに謎の男。初対面の時から、「おーロナたん、イエーイ!!」と大声で私に近づいてきた。きょとんとしてると、「イエーイ!」と強引に私とハイタッチをしたのだった。いつでも、ちょっと目が合えばすかさず変顔をしてきたり、二人きりになると急に早口言葉を披露し始めたりする。困惑していると「あ、こーゆーのは好きじゃなかったかな~? ならこっちは~?」などと、似たようなおふざけを始める。
 何にでも反応の薄い自分を申し訳なく思うこともあるが、私以上に暗くて地味な男もいる。いつでもつまらなそうな顔をしているくせに、よく遊びにくる男。他にはやたらと潔癖な男もいたり、常にスナック菓子を手にしている男がいたり、口を開けば最近見た映画のことを一人で話し続ける男がいたり。つまり「リンの友達」と言っても、全員がバラバラな性格だった。
 そんなことは友達の多い子なら、小学生で、いや幼稚園生のころから分かっているのだろう。でも私は、人の数だけ人の性格が存在することに、なんだか感激していた。
 そしてみんなに共通していることがある。それは、口が堅いということ。どんなに林瑛斗情報を検索していても、この家のことは誰も書いていない。みんなSNSもやっていて、私も何人かと繋がったけど、どこにも林瑛斗のにおいはない。リンは人を見る目があるのだろう。そう思うと、自己評価も上がるので、すごくうれしかった。
「なんか楽しかった」
 ある夜、みんなが帰った後リンに言った。リンは後片付けをしながら、「だろ?」と満面の笑みになった。そして私のそばに来て「ありがと」とささやいて、私の体を後ろから抱きしめた。
 突然のことに私はこわばってしまったが、「今の、ありがとのぎゅーだから」とリンはまた後片付けを再開した。男友達には見せない顔、聞かせない声がある。それが私は、うれしい。
 リンじゃなくたって、これだけ一緒の時を過ごしていれば、関係性は深まる。しかもリンは他の女たちにも、特別な顔と声を披露しているかもしれない。相手の数だけ、リンの顔も変わるのかもしれない。
 だから、こんなことでリンのことを好きって思ってしまう自分は、きっと情けないのだろう。モテる女の子たちからしたら、ものすごくバカにされるのだろう。
 でも。ある日リンが目の前に現れた。そしてイケメンだから、私は彼を家に入れた。全然男探しをしていたわけではないのに、いきなりリンが私の生活に入ってきたのだ。リンが他の男と比べて良い人なのかどうかは、分からない。少なくても西田さんのほうが、恋人にはふさわしい。でもどうせ西田さんとだって、対等な付き合いはできない。精神的には医者と患者のような関係だ。
 私は今まで、リンに同情の念を抱いている、そんな自覚があった。生い立ちにも、現状にも、同情していた。でも、リンも私に同情している。あまりにも、人を知らなすぎる私を。人間が持つ個性にいちいち反応している私を、どこかで哀れに思っている。
 私たちはお互いに同情しあっていたんだ、ということに何となく気づいた。そのバランスが心地よかった。
 リンの友達はたいてい和気あいあいとしているのに、突然目の前で殴り合いのケンカが始まることもあった。私が「ケンカするなら出てって」と言ったら、「お前が出てけ」と怒鳴られたこともあった。ケンカ中の男に自分が話しかけていることにも、その男が私に返事をしたことにも、私はテンションが上がった。
 ビールを飲んでいる男に、「未成年のくせに」と一言言ったら、ハンガーラックを蹴り飛ばされた。それはペンキ屋の仕事をしている子で、床についた傷を、床と同じ色できれいに塗りつぶしていた。傷を自力で修復する発想など全く持ち合わせていない私は、感心してしまった。
 普段はケンカの仲裁に入ることが多いリンも、たまに荒れた。プロレスごっこという、私は見たことも聞いたこともない乱闘の中、リンのブレスレットが壊れたときなど、私は警察を呼ぼうかと思ったくらいだった。「この野郎、殺す、死ね」と相手を罵りながら、リンもかなり凶暴になることを知った。
 ケンカというのはなかなか、自分たちでは止められないものらしい。でも誰かがタイミングを見計らってケンカの仲裁に入れば、見事に騒ぎは鎮まる。
 目の前で男たちがケンカを始めると、私も生きた心地がしなかった。私がケンカに巻き込まれることはなかったけど、目の前で人が怪我するのを見たりすると、やはり危機感を覚えた。
 ただその緊迫した空気も、私は好き。そう気づいたのは、リンとの何気ない会話だった。
「リンにはさ、いろんな女の子がいるのに、ゆーたんのことだけ特別なのね」
 優音と電話をしたあと、機嫌よく鼻歌を歌っているリンに、私はそんなことを言った。
「優音の好きなところ、言おっか」
 お酒が入っていなくても、優音のこととなるとちょっと酔っぱらっているような状態になるのが、リンの常だ。
「優音はね、運転がめちゃくちゃうまいんだ。高速なんて150km/hくらい余裕で出してるからさ、追い越しばっかりやってる時とか、急なカーブとかあると、このまま死ぬんじゃねーかってこと結構あるんだ」
 リンはストレッチをしながら、さらっと言う。
「このまま死んじゃえばいいのになって思いながら、車乗ってる。でも優音は運転がうますぎるから、一度も事故にあわないんだ。そこが嫌い」
 私はリンに、死の危険を感じさせたことがない。それでもいいのだろうか、何か、何かスリリングな出来事を企てたほうが、リンの心は落ち着くのではないだろうか。
 咄嗟にそんなことを考えた。でも私がスリルを計画したって、優音には負ける。リンの野性的な勘で、死ぬ危険性を察知するような運転。それに匹敵するような能力が、私にはない。
 ただ私たちはあえて、死を身近に感じていたいのかもしれない。そんなことを感じた。
 死ぬことだけは、絶対に決まっているから。いろいろな物事が変化していき、あるものがなくなったり、偽りだったり、壊れたり……確かなことなど何もないように思える。
 でも、生まれてきた人間は絶対に死ぬ。今生きている人間は、一度も死んだことがない。
 これだけは確かなことだから、死を身近に感じていれば、どこか安心なのかもしれない。特に、リンは。
 私は西田さんとも定期的に会っていた。西田さんはサンライズシェルという、ハワイにしかない貴重な貝殻のオブジェをプレゼントしてくれた。期待以上に、リンはその貝殻を喜んでいた。私たちは貝殻を片手に写真を撮りあった。
 興信所によると、西田さんは誰とも付き合っていないらしい。完全なフリーだ。
「良那のことはもちろん、別ってことなのよね」
 母はそう付け足していたが、興信所の報告にそんなややこしさがあるのだろうか。
 それとも母が「西田の恋人の母親です、結婚を考えているので浮気調査をお願いします」とでも言ったのだろうか。詳しいことはわからないが、私はその報告のおかげで、西田さんと気兼ねなく会うことができた。彼にちゃんとした恋人がいるのなら、私はすぐ身を引こうと思っていたから。
 リンを知ったことで、西田さんに恋人がいる可能性を、初めて思い付いたのだ。西田さんが、どんな契約で私の前に現れたのか、私は知らない。でももし西田さんに恋人がいたとしたら、確実にその人が本命で、私のことは浮気にもなっていない相手で。そんなことを考えると、みじめな気分になってくる。西田さんとリンは全然違う人種なのに。
 西田さんはリンより背が低く、話し方がゆっくりしている。リンより髪が短くて、リンより肌がきれいで、リンより手が冷たくて、リンとは比べ物にならないくらい頭がよくて、年も十歳くらい上で、リンとは全然違う人。西田さんはいかにもA型だし、リンはいかにもB型だし。リンと比較することで、西田さんのことも分かってくる。
 そしてリンと西田さんは、いつの間にか仲良くなっていた。
「リンくんのために」といって西田さんがおしゃれなお菓子を持ってくることもある。二人で庭に出て話していることもある。スポーツの話など、私には全く分からない話で盛り上がっているのだ。
 リンの滞在を、西田さんも全面的に受け入れているのだろう。「リンやるじゃん」と私は内心でリンを称賛していた。
 ある日リンが、海からヤドカリを連れてきた。海からの帰り道に水槽なども購入し、たくさんの貝殻と一緒に、ヤドカリの飼育を始めたのだ。
「それ、気持ち悪いんだけど」
 貝殻からヤドカリが出てくると、私は不快になった。
「大丈夫大丈夫」
 リンは私にお構いなしで、せっせと海水を運んできたり、餌を用意したりしている。一週間くらいヤドカリを見ていて、私はうんざりした。
「なんか臭いんだけど」
「ああ、もっと水の掃除しなきゃな」
「そういう問題じゃなくて。ここは私の家なんだから、勝手に連れてこないでよ」
「だめなの?」
 その無神経さに、呆れてしまう。
「そもそも、なんでこんなもん、飼いたいわけ?」
 私は犬や猫でも、飼っている人間のことが不思議になる。何の役にも立たないペットに、時間やお金をつぎ込む人がいるなんて、理解できないのだ。
「ヤドカリってさ、いろんな貝の中で生きてくんだぜ」
「それで?」
「オレっぽいなあって」
 リンは無表情で言った。
「ばか。全然リンっぽくないよ」
 ヤドカリはすごくリンっぽいと思いながら、私は反対のことを言った。リンは窓から海を眺めている。まっすぐ伸びた細長い脚。鍛え抜かれた肉体、きれいな髪。後ろ姿さえ整いすぎてて、正直私なんかの家にはふさわしくない容姿だ。でも。私はリンがここにいてくれて、すっごくうれしい。だから。
 ここは私の家とか言ってごめん。そう続けたかったけど、言えなかった。
 リンのほうが優しい。リンのほうが強い。リンのほうが……。たまに自分とリンを比較して、私は落ち込んでいたりもしていた。
 そんな日々が続き、季節は春になった。
 優音のSNSの投稿を見ると、おなかが順調に大きくなっている。リンと私は出産祝いの準備をした。ネットショップを見る。
「名入れグッズがよくね?」
 名入れトートバック、名入れバスローブ、名入れ靴下。なんでもかんでも、プラス料金を払えば名入れが可能らしい。
「赤ちゃんの名前ってもう決まってるの?」
「オレが決めたい」
「ゆーたんは何て?」
「なんでもいいって」
「子供の名前、なんでもいいの?」
「ああ」
 リンはネットから目を離さないが、名入れグッズなんてナンセンスだと私は思う。
「でも赤ちゃん、保育園に預けたりするわけじゃないんでしょ」
「うん、しばらく優音は働かねえな」
「じゃ今のところ名入れの必要なくない?」
「あるよ」
 その強い声に、リンの自己顕示欲を感じた。自分の遺伝子は入っていなくても、自分が名前をつければ、子供の人生に大きな影響を与えることができる。
 リンにとって優音の出産はとっても大きな出来事なんだな、と改めて思った。
「そう。なんて名前にするの?」
「考え中なんだ。あのさ、しぇる、はどう思う?」
 SHELL。シエルはつまり、貝殻。私はちょっと、いや、とてもうれしくなった。さっきまで名入れグッズ反対だったのに、我ながら勝手なものだ。
「いい名前ね。なんかシエルってフランス語みたいでもあるし……」
 私はさっと翻訳アプリをのぞいてみる。
「あ、リン! フランス語でシエルは天国だって。いいじゃん、シエル!」
「そーなんだー」
 リンは即座に「しえる」という名入れグッズを注文しはじめた。男女どちらでも使えるようなデザインばかり選んでいる。
 平仮名でいいの? 表記はしぇる? しえる? もっとちゃんと考えてから発注したら? リンと話していると、内心ツッコミが絶えない。全く優音に確認せずに「しえる」グッズをこんなに注文していいのだろうか、という根本的な疑問もある。
 でも、いいも悪いもない。今本人が「しえる」グッズを買いたいのなら買えばいい。それが不必要になったら、不必要になったときにまた考えればいい。
 リンを見ていると、その都度その都度、全てを肯定したくなってくる。そしてこっそりフォローできたらいいなと、そんな気持ちになるのだ。
 名入れグッズの購入も、注文のページになると、リンの笑顔が消える。商品を選ぶ段階では目が輝いていたのに、名前の入力欄に進むと、長文の説明を見て、軽くため息をつき始めるのだ。
「お名入れのご指定はギフトメッセージ欄にって書いてあるから、うん、そこに、しえるって入力すればいいんじゃない?」
 さりげなく横からフォローすると、無我夢中に従うときと、少し悲しそうな悔しそうな顔で「わかってるよ」なんて返事をするときがある。
 無我夢中になっていれば、私のさりげなさが成功した証。
 少しでも悲しそうな色が見えたら、それは私の「教えてあげた」がバレたということなので、失敗。
「ラッピングのさー、これ、なに」
「しえる」を入力し終えたリンは、次のページを凝視していた。無我夢中状態だ。
「複数商品のラッピングは配送先ごとに商品をまとめてひとつにラッピング……」途中まで声に出して読んでから、「ま、無難なラッピング選んでおこう。それで、全部この家に届けばいいでしょ? なら私がそのあとの手続きはやるわ」と私は自然に操作を代わった。リンはつまらなそうな顔をしている。でも漢字が読めなかったんだし、意味が分からなかったんだから、仕方ないでしょ、と私は内心ツッコミ。
 
 それでも私は、リンからいろいろと学んでいた。知能を極力使わずに、元気いっぱい生き抜く人間が存在するという、発見。愛と勇気と体力で、仕事をちゃんと成功させている人間が、実際にいるのだ。
 正直、体重という数字にこだわっていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。そして半ば強迫観念のような意識でピアノの練習をしていることも。
 ピアノを弾くとき、もちろんピアノの上達のために練習しているのだけど、私の家族全員が恐れていることがある。それは「一日練習をさぼれば自分が気づく。二日練習をさぼれば批評家が気づく。三日練習をさぼればお客さんが気づく」というコルトーの言葉。コルトーといえば、あらゆる練習法を編み出したピアニストで、コルトー版という楽譜が私は大好き。音楽史に残る大ピアニストであり、名指導者だ。
 でもコルトーはコルトーでいいし、コルトー以外の生き方もあるし。ピアノが下手になったら下手になってから、また上達する方法を考えればいいし。どんなものだって月日が経てば変化する。失うものだってある。衰えを最低限にするために、現状を維持する力も必要だけど、失うものを取り戻す力も必要だ。これからは回復力も養っていこう。そんなことも思っていた。
「喜んでくれたらいいな」
 注文確認メールで、名入れグッズの数々を見ながら、ぼそっとリンがつぶやく。これもだった、と私は思う。
 人を愛する、人を喜ばせたいと思うことには、とても能力が必要で、きっと訓練も必要で。人を愛する訓練を積めば積むほど、上手に人を愛することができるのだろう。上手に人を愛するということは、上手に人を喜ばせるということで、ひいてはそれが、自分にとって生きやすい人間関係を築くのかもしれない。
 優音もきっと、この名入れグッズの数々を喜ぶだろう。
「ゆーたんもきっと、リンのこと好きだと思うよ」
「あのさ、ロナちゃんはオレのこと、好きじゃないよね?」
 ストレッチをし始めたリンが、気軽に聞いてくる。
「ん? なんで? 私、冷たかった?」
「そうじゃなくて。えーとさ、優音とロナちゃんは、子供のころから全然ちがくて、優音は花が好きで、ロナちゃんは枝が好きだったとかさぁ」
「え、枝?」断じて、誤解だ。
「違う? 葉っぱだっけな」
 なんで私の子供時代のことを、リンが勝手に推測してるのかと思ってしまうが、細かいことはどうでもよくなってくる。
「ああ、まあ、そんな感じかも」
 リンはストレッチをちょっとやめて「違ったっけ」とこちらを見た。やたらと勘はいい。一日に三回くらいは、勘の良さに感心してしまう。
「まあそれでいいよ。ゆーたんは花で、私は枝葉ね」
「ごめん」
 リンがストレッチを再開する。無言のままだ。呼吸を意識していて無言なのかとも思ったけど、念のために会話の催促をしてみる。
「で? 私……リンのこと、好きじゃなくないよ?」
「そーだった!」
 リンはまたストレッチを中断して、こっちを見た。一生懸命に口を動かして、話す。よほど伝えたいことがあるのだろう。会話の催促をしてあげてよかったなと思う。
「そうそう、でさ、ロナちゃんがオレのこと好きだったら、優音はオレのこと好きじゃないってならない? 二人の好みって全然違うんじゃん」
「そんなわけないでしょう」
「どうして? オレは親友と性格違うから、好きな女かぶったことねえのに」
 そこを意識するなら、複数の女性と付き合うことに関しても考えればいいのに。とは内心ツッコミ。私は、あたかも何てことないかのように、言った。
「私もゆーたんも好きなもの、ちゃんとあるよ」
 リンが一番喜びそうなセリフを、一生懸命に考えた。
「なに?」
「いっぱいあるけど、たとえばね、イケメン」
「えっ、そうなの? ロナちゃんも、イケメン好き?」
「好きだよ。だからリンをこの家に入れたんだもん」
「よっしゃー!」
 リンはすさまじい勢いで腹筋を始めた。
 ばかね、と思って、やっぱりイケメンはイケメンだけどね、と改めてそのルックスに見とれた。そして、ごめんねという言葉も、心の中でだけつぶやく。
 日に日に、お互いの心の距離が、とても近づいてくる。本当ならもう、言葉にする必要もないくらいの関係性なのに、私が、悪いのだ。人種差別みたいに、リン自身とは関係のない要素で、気持ちにブレーキをかけている。
 本来なら、私のほうこそ、リンの相手には値しない。そう考える頭もある。リンが頻繁に泊まりに来るのは、ここが便利だからという理由だけ。最初のころは本当にそうだったと思うが、二か月経ち、最近はリンの言葉の端々に、私の気持ちを窺うニュアンスを感じる。
 でも。と私はまた悩む。リンはいろいろな女の子と付き合っている。男女の関係において、私の出番はないだろう。少なくてもルックスにおいては、私より優れている子しか、リンの周りにはいないと思う。
 でも。リンは私に何かを望んでいるのだろうか。分からない。私は。私は、望んでいる。そんな自分の気持ちに、実は気づいている。リンと深い関係になることに、危険はある。リンを求める心を、軽蔑する自分もいる。私とリンとでは住む世界が違うと、何度も自分をたしなめる。
 でも、住む家は同じなのだ。生い立ちも家柄もかけ離れている私たちだが、今この瞬間、誰よりも近くで生きている。今この瞬間のリンを見ているのは、私しかいない。そんなことを感じていると、リンをもっと深く求めたくなってしまう。
 第一希望は、リンの望み通りにしたい。だから、つまり、リンが私と何もしたくないのなら、私も何もしたくない。

 8 涙

 翌日、リンが仕事に行っている間に、私は優音に電話した。
「ゆーたん、元気?」
「ロナじゃーん! リンリンと仲良くやってるー?」
「まあね。ゆーたんの体調はどう?」
「元気だよん! 今日はなに? どーしたのー?」
「ねえ、ゆーたんは今後、実家に住むの?」
「んーたぶん住まないなあ。なんとかなるうちは、ここでこのまま暮らすよ」
「それならなんでリンとゆーたん、一緒に住まないのよ? テルさんって人のせい?」
「違う違う。テルさんは子持ちの女なんか嫌いだもん」
「自分の子供のくせに?」
「私が勝手に産むんだから、いいの。で、リンが赤ちゃん生まれる家にいたら、やっぱまずいじゃん」
「それだけ?」
「だって世の中的には林瑛斗に隠し子がいるとか、そういう話になっちゃうじゃん」
 優音の口調がきつい。それも嘘ではないのだろうが、何かを隠している予感がした。
 優音とリンとの関係は、もともと不自然に感じていた。二人は電話のみで、ほとんど会っていない。妊婦との逢瀬が世間にバレたらまずいのかもしれないが、子供の名前にも執着するほどリンは優音のことが好きなのに、なんだか妙だ。
「他の理由はないの?」
 優音は少し迷ってから、声を低くして話しはじめた。
「リンパパにさ……あたしはリンとは縁切ってますアピールしたくて」
「どういうこと? リンパパって、もとはゆーたん付き合ってたんじゃないの?」
「ったくもう、リンはおしゃべりだなあ。それは昔の話でー、ロナ、その電話大丈夫かな……大丈夫だろうけど、念のため避けよう。一瞬、インスタのDM見て。見たら、すぐ消すから。そっちからも秒で消しなね」
 スマホに通知が入った。優音からのDMには「helloく18a9hi6すlllpr74り0083」と書いてある。
「見た? 平仮名だけ見てよ。じゃ消すよ」
 見事な手際の良さだ。電話の盗聴が心配な場合の対処を、ここまでスムーズにやり遂げるなんて。私はメッセージの内容よりも、優音の手腕に驚いた。昔から気の利く子だったけど、リンたち含め、大勢の人間に囲まれる生活をして、その能力はさらに開花されたらしい。
「わかった? それのせいで、あいつはいっくらでも金が必要なわけ」
「最悪じゃん、その父親。早く捕まればいいのに」
「そんなことしたら林瑛斗が終わるでしょう! アイドルなんだから。実の父親が麻薬中毒なんてバレたら、イメージダウンも甚だしいよ」
「なるほど」
「もうリンパパとリンの問題じゃなくなってるんだよね。リンパパのバックには、ヤバいヤツらがいる。リンにはデカイ事務所がついてる。リンの金は限度があるけど、事務所の金は底なしじゃん。だから狙われるんだよ。リンとか事務所を脅迫するネタを探しては、金をゆするってのを繰り返してんの」
「脅迫?」
「だーかーらー、たとえば、林瑛斗に隠し子がいるって情報を週刊誌に売りますよってリンパパは事務所に言うわけ。で、事務所は、それは困るって口止め料をリンパパに払うの。そうやって金は回ってるんだよ」
「へえ」
 リンと話していれば自分を優等生に感じるのに、優音と話していると、自分の頭が随分と鈍く感じてくる。理解できていない話も多い。
「あたしはこれからママになるんだしね。実際リンの子供じゃないわけだし。ごたごたに巻き込まれるのはごめんだわ。リンとの同居はマジ無理。むしろもうこっちのこと忘れてほしいからさ。ロナがんばってよ」
「なにを?」
「リンリンの相手してあげてよ。もうしてるだろうけど。んでさ、変な連中が出てきたら、あたしに連絡して」
「変な連中? なんか怖いんだけど」
「まあ仕方ないよ。リンパパ関係の人間が出てきたら気をつけなね。男も女も、関係者けっこういるから。でもあたしも、あんたの身は守れるかもだから、とりあえず何かあったら相談して」
「リンのことは? 助けてくれないの?」
「その時になんなきゃ分かんないよ」
 胸がざわついた。優音は何を危惧しているのだろう。それに、優音とリンとの間に、かなりの距離を感じる。リンは、優音の子供の名付け親になりたいほど、優音に固執しているのに。
「ねえゆーたん。名前って決めてるの?」
「子供の? まだだよ……あ、もしかしてリンが何か考えてそう? やっぱねぇ」
「だってゆーたんが、子供の名前はなんでもいいって言ったんでしょ?」
「その話したときさーテルさんのほうでごちゃごちゃあったからさーついテキトーに返事しちゃってさ……」
 これだから二股かけている女なんか、好きになっちゃいけないのに。リンにもたくさんの女の子がいるけど、本命は、きっとたぶん、優音だけ。あ、でも、優音の本命はテルさんだから、だからリンのことはないがしろにしてるのか。寂しいなと思った。なんだかうまく噛み合っていない人間関係は、とても危なっかしくて、それぞれの孤独が浮き出てしまって、寂しい。
「ちなみに、なんて名前? リンの考えたやつは」
「しえる」
「却下」
「なんで」
「ヒミツ」
 くすっと笑ってから、優音は言った。
「この前大ゲンカしたセフレが、エル氏って呼ばれてるヤツだったから」
 彼女の言葉が嘘か本当かはわからない。ただやはり子供の名前は親が決めればいいと思う。だいたい、子供が生まれたころには、リンの優音の関係もどうなっていることやら。
「了解。名前のこと気になっただけだから。じゃゆーたんは元気な赤ちゃん産めるように、がんばってね」
「サンキュー!」
 電話を切ってから私は、リンにどう説明しようか、ずっと考えた。
 今ならまだ名入れグッズの購入キャンセルもできるかもしれない。商品選びで嬉々としていたリンを思い出すと胸が痛むが、名入れグッズが届いたあと優音に受け取り拒否されたら、もっと辛い。
 そもそも注文の段階で阻止できていたら、こんな悩みにはぶつからなかったはずなのに。あの時もっとリンに対して親身になって、先のことまで見通して、見守ってあげるべきだった。
 でも今更悔やんでも仕方がない。何か理由を考えなければ。ゆーたんはどんな名前でもよかったけど、テルさんが決めたいらしい、とでもいう? いやそれも違和感がある。テルさんが子供の名前に、興味あるわけないから。
 あ、しえるは字画が悪いらしい。うん、これはいいような気がする。あの子は占いとか大好きだから。それで、画数は名字によって変わるけど、優音はもしかしたら誰かと結婚するつもりなのかもしれないから、まだ名前は決められないっていう話にすればいいのでは。
 私はドキドキしながら、リンへの説明を考えていた。 
 その夜、リンは帰ってこなかった。
 私はピアノの練習も手につかないほど、しえる却下の件が気になっていた。
 次の夜は帰ってきた。「おかえり」「ただいま」すっかり慣れた挨拶。しばらくは通常通り……と思っていたら、
「あのさー、ロナちゃん」リンがとても言いにくそうに話し始めた。
「なあに?」
「あのね、しえるっての、イヤだって。優音から昨日電話あったんだ」
 リンからその話題が出るとは全く思わず、私は息をのむほど驚いた。
「せっかく、伊藤しえるって、字画も大吉だったのに」
 まさかの言葉が続いた。字画まで調べていたのか。私から字画の話題をしなくてよかった。リンはその場しのぎの嘘なんて、きっと一度もついたことがないだろう。
「そっか、残念だったね。じゃ名入れグッズ、キャンセルしとく?」
「ううん、だって普通、品物届いてから一か月くらいは、返品OKじゃん? 一応どんな感じで名前が入るのかとか、見ておきたい」
 私は首を傾げた。完全なる受注製作の商品だったはずだ。ご注文後の変更、キャンセルは不可、みたいな文章があったと思うが……リンは読まなかったのだろう。
「そっか。うん、楽しみだね!」
 やはり私は、ついつい調子を合わせてしまった。
 一週間後。リンの帰宅と同時に、段ボール箱を見せた。
「届いたよ、例の」
「やったー」
 リンは鼻歌交じりで開封していく。薄いブルーのトートバック、薄いピンクの巾着、柔らかそうな白のタオルセット……。
 リンはひとつひとつ確認して、しえるの文字にも満足気にうなずいて、
「ロナちゃん、いつもありがとう」いきなり私に段ボール箱を差し出した。
「へ?」
「ろなちゃんいつもありがとう」二回目は、とても照れたように口元だけで笑う。全く状況が理解できていないが、照れ笑いのイケメンに、私はドキッとした。
「貝殻がさ、なんか、オレたちの、マークみたいな感じ、したからさ、それで、しぇるって。でも天国ってのもいいし、なんか、オレたちだけがキュンキュンするワードがあってもいいんじゃねえかなあって思ってさ、大人でも使えるもんばっか、選んだんだ」
 段ボール箱を受け取る。しえるセットは、どれも清潔で柔らかくて軽くて、優しい。でも私はそこに、リンの悲しみがぎゅっと詰まっているように感じた。私は泣かないよう、歯を食いしばる。
「いいね、そういうの、うん」
 声が上ずった。私のほうが年上なんだからしっかりしなきゃ、と思った。しえるセットを持って、記念撮影をした。
「泣いてもいいぜ」
 写真が終わると、唐突に、リンはそう言った。
 耐えられなくなった涙が流れて、リンがしえるタオルで涙を拭いてくれた。
 そしてゆっくり私の体をなで始めた。私は自分の意識を無にすることに徹した。自分の行動に、自分の意思を関与させたくなかった。勘の鋭いリンに、私の望みを悟られたくなかった。全て、リンの気持ちで、動いてほしかった。だから私は、全力でリンに身をゆだねながら、いつの日か自分に子供が生まれたら、しえるという名前にしよう、その時にこのグッズを使おうと心に決めた。
 その後また一週間がたった。
 リンは帰ってこない。
 林瑛斗のホームページでスケジュールを見ると、来月から舞台が始まる。今はその稽古に忙しいのかもしれない。
 でも。
 LINEを二回出した。きちんと返事は来ている。
「ごめん。夜中まで仕事」が一回目。
「ごめんな」のみが二回目。
 リンの抱える問題の大きさは、いつも私の想像をはるかに超えている。それなのに、私は、私たちは、大変な間違いを犯してしまったのかもしれない。
 ふと、鶴の恩返しを思い出した。
 私はほぼ毎日、リンと同じ家で過ごしている。それなのにリンの裸に関しては、背中しか見たことがなかった。リンは野生児のようであるにも関わらず、その点に関しては慎ましやかだったのだ。
 一週間前のあの夜、私は初めてリンの裸を見た。その体には、痣や火傷のあとがあった。私は、見てはいけないリンを、見てしまったのだろうか。触れてはいけないリンに、触れてしまったのだろうか。
 それともただ単に、距離が近づきすぎたということだろうか。
 でも。だって。リンとのLINEのトーク画面を眺めながら少し考え、すぐに苦笑する。
 リンは子供のころからずっと、もっと深くて重くてつらい出来事に耐えてきたんだ。もともと大した関係性でもない相手が、一週間留守をしているくらい、どうってことない。
 だから優音にも連絡しなかったし、とにかく日常生活に徹しようと思った。
 食生活も、安定してきた。体重計の小さな数字への関心がほとんどなくなったら、食欲が自然に出てきた。
 リンのことを思い出して、なんとなく、室内でできる簡単な運動をはじめたのもよかったのかもしれない。リンの目の前で体を動かすのは恥ずかしかったから、今までは全く動かなかったが、リンは頻繁に筋トレをしていたから、マネしたくなったのだ。
 腹筋や腕立て伏せ、スクワットなど、基本的な筋トレを繰り返し行うと、食事をしても大丈夫という気分にもなった。
 一日に二回食事をするようになると、明らかに体重が増えた。見た目も太った。最低体重の33キロに戻りたくても簡単には戻れないくらい、数字は増えていった。私は33キロだったのに、33キロにもなれる身長なのに。そう思うことも何度かあったけど、33キロの価値ってなんだろう、とも思えてきた。
 私が33キロでも44キロでも55キロでも、大した問題ではない。「私が」っていう発想じゃなくて、「一人の女が」に置き換えてみる。
「一人の女が、33キロから40キロまで太りました」
 あーそうですか。
「一人の女が、同居していた男に、出ていかれました」
 あーそうですか。
「一人の男の母親が、入水自殺しました」
 あーそうですか。
 冷たい。冷たいけど、自分のことも他人事のように考えること。これは情緒不安定な時に、便利な方法かもしれない。
 十日ほど経つと、ヤドカリの動きがなくなった。ただただ臭いが、私は何をどう処理していいか、分からない。リンにLINEしようかとも思ったけど、なんとなく気がひける。どうせもう、ヤドカリは死んでいるし。
 私はタクシーを呼んだ。タクシーの運転手さんに、海水の入った水槽を運んでもらう。水槽は車の後部座席の半分を占めるほどの大きさだ。
 海までタクシー初乗りで行ける距離だが、一万円札を渡した。海につくと、運転手さんは水槽を持ってくれた。海に、ヤドカリとたくさんの貝殻を流してもらった。プラス一万円を渡して、水槽の処分も頼んだ。
 ヤドカリはリンっぽいから、海にいるリンのお母さんも、今きっと喜んでるよ。
 リンにそう言いたかったのに、リンがいない。リンのばか。私は貝殻を踏みつけながら海辺を歩いた。

 9 リンの空気
 
 私は腕立て伏せをよくやっていた。少しずつ、できる回数が増えていった。今度はその数字がうれしくなった。最初のころは十回連続でやるだけでも大変だったのに、三週間で六十五回連続までできるようになった。三十回を超えたとき、五十回を超えたとき、私は尋常ではない喜びを感じた。
 結局、没頭している対象が、体重の数字から筋トレの回数に変わっただけなのだが、筋トレなら健康に害はない。だから思う存分熱中できる、と毎日限界まで挑戦していた。
 調べてみると筋トレのやりすぎも、オーバートレーニング症候群といって、身体も心も、慢性疲労状態になる恐れがあることが分かった。でも自己診断で、今のところその心配はない。ただ心の病を調べていると、気になる記述があった。
 自分のことも他人事のように考えるのは、解離性障害ってやつに近いかもしれない。何か恐怖を感じると、自分の経験として認識するのではなく、あたかも他人の恐怖のように感じる。物事を自分から分断して、外部から眺めるような形でみる。そんな障害だ。
 私の場合はそれほど深刻ではないが、やはり他人事のように考えるのはやめようと思った。主語は「一人の女」ではなく、「私」だ。
 そんなある日、左の手首を痛めた。七十回を目指そうと思って、ものすごく辛かったけど、死ぬ気で力を振り絞った。体がガクンと崩れ落ちた。手首が体重を支えきれなかった。限界まで挑戦していれば、そんなことはよくある。
 でも一瞬、なんかへんだなと思った。手を使うことには昔から異常なほど気をつかっている。それなのに、回数ばかりに意識がいってしまっていた。手首が痛い。そのまま手首を冷やす。三分経つ。やはりまだ痛いまま。
 どうしよう。これではピアノが弾けない。どうしよう。
「リン!!!!!!」
 ほとんど何も考えられないまま、リンに電話をしていた。
「リン!!!!!!」
 リンはワンコールで出た。
「どうした?」
「腕立て伏せやってたら手首が痛くなった!」
「手首? 手首以外は?」
「手首だけ。左の」
「腫れてる?」
「腫れてない」
「お前、病院は行きたくない人だよな?」
「うん」
 リンは「ごめん」と言った。
「え、なんで?」
「ごめん、オレが、見てればよかった、お前の腕立て」
 思いもよらぬ言葉だった。でも本当にそうだ、という気持ちになった。
「今更言ったって遅いよ。ばか!」
 気持ちの整理ができずに思わず怒鳴ると、また「ごめん」と返ってきた。
「今日はそっち行くから。仕事終わったら速攻帰るから。だから絶対ピアノ弾くなよ。今弾いたら、手首に悪いからな。絶対やめろよ」
「わかった」
「湿布あれば貼っとけ」
「うん」
 私が切るまで電話は繋がっていた。
 いつもはリンのタイミングで通話終了になるのに。
 私はリンとの通話履歴をぼんやりと見つめていた。
 次第に気持ちが落ち着いてくる。よく考えてみると、お医者さんである西田さんに相談したほうがいい。リンなんかを頼りにしてる場合じゃない。
 西田さんに電話をかけたが、留守電になった。
「お忙しいところ失礼いたします、お疲れ様です、良那です。ちょっと伺いたいのですが……先ほど腕立て伏せをしていたら手首を痛めてしまいました。三十分くらい湿布を貼っているのですが、痛みが治まりません。何か対処法はありますか? お時間のある時に教えていただけると助かります。よろしくお願いいたします。では失礼いたします」
 留守電に話し終わった。両親の顔も浮かぶ。報告しようかなとも思ったけど、余計な心配をかけることになりそうだから、やめておく。
 ということは、リンと西田さんには、余計な心配をしてほしい、という気持ちの表れなんだろうか。いや、両親よりも西田さんのほうが、医学に詳しいから、相談してみただけ。
 ではリンは?
 リンは筋トレに詳しいから……
 つまらない言い訳だ。リンに戻ってきてほしい。そのために手首を痛めたのではないか。そんな気分にすらなってきた。
「ロナ? 大丈夫か?」
 リンが家に飛び込んできて、私はびっくりした。リンの顔がなんか、違う。三週間ぶりだからそう見えるのだろうか。
「まだ痛む?」
 走りよってきて、そっと両手首を持ち上げられたから、「こっち」と左手首を差し出した。間近で見るリンは、なんだか奇妙で……「あっ」私は思わず笑ってしまった。
「どうした?」
「ううん、なんでもない。あれね、メイクしてるのね。なんかさ、顔がきれいだから、整形でもしたのかと思っちゃった」
 私は笑いが止まらない。一瞬、整形のことを考えたと同時に、整形のダウンタイムだったからこの家に来なかったのか、とまで考えたのだ。我ながらお粗末な思考だ。
「そんなに笑うほど、メイクおかしい?」
 リンも笑う。
「うん、おかしい」
「ひでえな、人が心配して、舞台終わりに急いで来たっつーのに」
 言いながら、リンは優しく手首をさすってくれた。
「ありがと。もういいよ、リンがさすって治るってもんじゃないし」
 リンは私の手首を自分の目の高さに持ち上げた。そっと口づけしたあと「いたいのいたいのとんでいけ」とささやいた。
 私たちは見つめあった。
 静かだった。リンのスマホが、バッグの中で震えっぱなしなことも、聞こえるくらいに。
「出なよ」
 私がバッグに目を向けると、「出なくて大丈夫なやつ」とリンは答えた。女だろうな、と思った。
 私のスマホも鳴った。右手で開くと、西田さんからのメールだった。
「お疲れ様です。先程は仕事中でしたので失礼致しました。手首の件、心配ですね。お話を伺う限り、筋を痛めてしまったことと思われます。念のために外科での診察をお勧めします。何かありましたらまたご相談ください。では」
 リンはまだスマホを無視して、私の手首をさすっていた。
 その日からまた、リンは週に三回くらい、泊まりにきた。私が知らない間に舞台の仕事は終わり、オフの日も増えたらしい。
 でも私は、リンがまたいついなくなってもいいように、リンの残像をとらえようとしていた。
 リンの香水は、理科の実験に使うような茶色の小瓶に入っている。
「その香水、なんのブランドなの?」
「オーダーメイド」
 そういう名前のブランドがあるのかと思って検索したら、違った。
「オーダーで、自分の好きなにおいの香水を作れるんだぜ。ロナちゃんも作る?」
「ああ、そういうことか。すごいね。私は、でも、リンの香水と同じのが欲しい」
「OK! 今度二つ買っておくよ。もしかして、部屋に置く感じ?」
「そう」
「なら、そういうやつも買っておく」
「そういうやつって?」
「なんか、ビンと棒」
「棒?」
「そう、焼き鳥とか串カツとかの棒みたいなのを、ビンに突っ込んどくと、いい感じなんだよね」
 さっぱり意味が分からなかったが、数日後、リンはステキなプレゼントをくれた。
 オリジナル香水の小瓶に、ラタンスティックと呼ばれる籐の茎が、五本入っている。それを出窓に飾ると、インテリアとしても見栄えがいい。
「かっこいいよなー」とご満悦なリンは、不意に私を見た。
「おい、ヤドちゃん、どうした?」
 ヤドカリの居場所は、窓際だったのだ。
「ヤドカリ? 私じゃ飼い方が分からないから、海に戻したわよ。死なないうちにね」
 ちょっと嘘をついた。
「さすがロナちゃん! それが正解だよ」
「ヤドカリ寂しそうだったよ。あんたがいなかったとき」
「だよなぁ。すっかり忘れてたんだ、ヤドちゃんのこと」
 リンは時として薄情になることを私は知った。
「ねえ、あのさぁ、どうして」言いよどんでいると。
「どうして帰ってこなかったかって?」
 相変わらずの直感力で、リンは先回りしてくれた。私はうなずく。
「ここにいると、ロナちゃんと、ずっとラブラブしたくなっちゃうから、だな」
 私は呆れて、その返事を全く無視してやった。
 リンが住むようになると、一気に家が片付く。リン不在の三週間で、ずいぶんと散らかっていたことに気づいた。
 リンは料理もマメだ。勝手に食器を買ってきて、勝手にキッチンを使って、勝手に料理の写真を撮っている。
 でも私はまた食べられなくなった。いつまで経っても、手首の痛みがおさまらないからだ。あまりピアノを弾けないのに、食べる自分が許せなくて、空腹を感じることに嫌悪感を覚えた。
「食べたほうが、治るかもよ」
 リンは無愛想なまま、助言してきた。その言い方にイライラした。
「治るわけないでしょう、手首と食べ物になんの関係があんの、ばかなくせに余計なこと言わないでよ」
 腹が立って、リンの食器を床に投げつけた。粉々に割れる。
「何すんだよ」
 リンは怒鳴った。
「食器なんか見たくない!」
「おい、いい加減にしろよ。片手痛いくらいで、いばんな」
 リンは面倒くさそうに掃除をして、棚にある食器をほとんど捨てた。
 その夜には、プラスチック製の食器を二人分揃えていた。私が食器を割ったことなど忘れたかのように、新しい食器を写真に撮っている。
「これ全部百均!」
 リンは屈託なく笑った。
「買い物上手ね」
 心底、褒めてあげた。
 全くピアノを弾かなかったのは怪我をした日だけで、翌日からはついつい弾いてしまっていた。
「弾くと余計に治り遅くなるかもよ」
 リンがしつこいくらい言うので、「どうせ治らないでしょ」と、私はリンがいるときばかり、ことさらピアノを弾いた。むしろリンに聴かせるために弾いていた。
 するとリンはある夜、ピアノに鍵をかけた。朝起きて、鍵盤の蓋が開かないと気付いたとき、私はパニックになった。
「何やってんのよ、ばか! 右手の練習には支障ないんだから、早く開けてよ! 鍵どこやったのよ!!」
 布団で寝ているリンをたたき起こすと、「あ、そっか。右手のこと忘れてた」と寝起きのテンションで言われた。その言い方に腹が立った。
「私の邪魔するなら出て行ってよ!」
 リンはスウェットのポケットから鍵を出して、無言で鍵盤の蓋を開けた。私は両手で弾き始めた。リンは無表情のまま、外に出た。途端に私は、ピアノを弾く気がなくなった。
 リンが戻ってくるときにはまた、このムードがリセットされるだろう。リンはいつも見事に、険悪な空気を払拭してくれる。リンは空気を作るのがうまい。だから何かあると私は、とりあえずリン一回出てってよ、と思うようになっていた。

 10 天才と見る夢

 毎年、学生ピアノコンクールのファイナルが、三月下旬に行われる。今日がその日。コンクールの様子はネットで生中継される。私はファイナル出演者のことを、全員よく知っている。名前と顔と、そしてその人の苦手分野をすべて。
 子供のころから、このコンクールは毎年見に行っていた。父は審査員。それなのに、私は最高でセミファイナル進出までだ。「関東大会から選ばれるだけでもすごい」と両親とも喜んでくれたが。
 私が生まれる前から父は審査員として携わっていたし、母もずっと熱中していたコンクールだから、私は三歳からコンクールを会場で見てきた。家では「あの子はどうすればもっとうまくなるか」の議論ばかり聞いていた。本人がいないところでは、欠点が話題になるものだ。
 今日も両親は熱心に語り合っていることだろう。私の演奏と比較していることだろう。
 実際、課題曲は私も一通り用意してある。予選を体調不良で参加しなかったのだから、それ以降は絶対に参加できない。にも関わらず、私は今、痛む手で、毎日毎日このコンクールの課題曲を練習しているのだ。
 それは、自分でものすごく細かく練習しておかないと、人の演奏の長所短所に気が付かないから。
 クラシックはとにかく静寂だ。音が鳴っていない時間を、どのくらい保ち、どのように表現するか、そういったところにも、高い技術が必要とされる。
 だから実家でまじめに音楽を聴くとき、私たち家族は誰も物音を立てない。雑音はいつでも確実に排除する。
 それなのに。
「ロナ~!」生中継視聴中に、リンの無遠慮な声が庭から聞こえてきた。
「ねえ、なんか、鳥が腕に乗っかってきたんだけどー! くそかわいいー!」
 ドビュッシーの静の表現は、本当に静かすぎる。おそらくリンは無音だと思ったに違いない。片手に鳥を乗せたまま、家に入ってきた。
「ロナ! ちょい、写真撮ってくんない? 鳥、逃げちゃうからー」
 私の近くにあったスマホを、彼は指した。
「だまれっ!」
 私は反射的に、そのスマホを彼に投げつけた。彼は鳥を乗せていないほうの左手で、それをキャッチした。鳥がリンから離れたので、リンは玄関を開け放つ。鳥が外へ飛んでいく。
「わりぃわりぃ」
 言いながらリンはスマホのチェックを始めた。リンは左利きだから、左手でキャッチしたのかもしれない。身長に見合った大きな手にスマホがすっぽり収まっている。健康的な手に、私は嫉妬した。どうしようもなくむしゃくしゃしてきて、手あたり次第、リンの背中に物を投げつけた。
 ペットボトル、楽譜、ペン、スリッパ、チョコ、ティッシュボックス。手が届く範囲に物がなくなったので、立ち上がる。イスに手をかけたとき、リンがこちらを向いた。
「ロナちゃん。コンクールなんて聴くの、やめなよ」
 彼の声ははっきりしなくて、言われた意味が分からなくて、「え?」と聞き返した。
「ロナちゃんはさ、耳がいいんだよ」
「なによ、偉そうに。だいたいあなたはいつも、上から目線なのよ」
「そうだね、オレはピアノのことは、素人だ。でもさ、なんていうのかな。みんなうまいよ、すっげーうまいヤツは99点になってる。ファイナリストは全員99点かもしんない。でもさ、ロナたちは、99点を今までに何百人も聴いてきて、ストレス溜まってんだよ。足りない1点がどんどん増えてって、もういっぱいいっぱいなんだよ」
「意味不明なんですけど。そもそもリンはこの人たちのピアノ聴いたの?」
「セミファイナル聴いた。やっぱ100点はいなかった」
 ど素人に、否定された。ファイナリストたちとの仲間意識が、勝手に芽生える。
「問題点があるなら言ってみなさいよ。どの曲のどういうところに文句があるっていうの?」
「文句っていうか、減点ポイントは、もう、最初の音からあるよ」
 彼は平然と答えた。
「なんなの、それ。どこが減点なのよ」
「だから最初から最後までだよ」
 この子の話は、どうも埒が明かないことがある。
「ばか言わないでよ、この人達でダメだったら、私なんかどうなるよ、私こんなにちゃんと弾けないもん、っていうか、こんな手じゃ、もう私ダメじゃん、なんにもなくなっちゃうよ、私はピアノしか知らないんだもん、ピアノが弾けなくなったら」
 なんでここまで自分の感情を言葉にしているのか、分かっていた。リンに、同情されたい。気にかけてもらいたい。あわよくば大切に思ってほしい。
 それが本音だ。
 なのに。
「明日、この家にいる?」
 彼は私に返事をしてくれなかった。
「いると思う」
「よかった、明日、家にいろよ。絶対にいろよ」
 リンは謎の命令をしてから、出かけた。
 翌朝、家の前にタクシーが止まった。
「林瑛斗の紹介でね」
 浮浪者みたいな男が来た。ごつくて、厚着で、薄汚い。夏だというのに、やたらと重ね着をしている。髪がさらさらしていているところだけが、まだ救いだ。
 私はすぐ家の中に入って隠れた。
 なんでリンはこんな気持ち悪い男をここによこしたのか。これは何の仕返しなのか。考えても、何もわからない。
 そうだ、警察を呼ぼう。私は一一〇番をした。
「事件ですか、事故ですか」
「事件です。浮浪者が家にきたんです。助けてください」
 そう言ったとき、リンからLINEがきた。
「その男にピアノ弾かせてみて」
 リンは私の言動を見透かしたようなタイミングで連絡してきた。もしかしたら監視カメラを見ているのかもしれない。そう思うと、安心感を覚えた。
「すみません、大丈夫です」
 警察への電話を切る。
「この人だれ?」リンに電話をかける。
「天才ピアニスト。お前以上に、ピアノに人生費やしてる変人。四十年以上生きてんだから、お前よりピアノ歴長いの当たり前なんだけど」
「リンとどういう関係があるの?」
「この業界にいればいろんな知り合いが増えるのさ」
 その天才ピアニストは、手袋をしている。真夏に手袋。確かにピアノ関係者なのかもしれない。ピアニストによっては、真夏でも肩を冷やさないため、長袖着用を徹底している人もいる。
「こんにちは」
 恐る恐る声をかけてみる。相手はやや会釈をしただけで、愛想がない。
「ピアノ、なさるんですか?」
「ええ。ここで弾いてくれと言われてね」
「そうなんですね。私のところにも、林さんから、そう連絡がきまして」
「ああ」
「では、どうぞ」
 リンは監視カメラを見ている。勝手にそう確信して、私は男を部屋にあげた。
「何の曲がいいですか」
 彼はピアノのイスを調節しながら、言う。
「リクエストを聞いてくれるんですか」
「一応、瑛斗からは、今回のコンクールの曲を、と言われたのだが」
「まあ! コンクールですか! 生徒さんかだれかが出場なさっていたのですか?」
「いや。ただ昨日課題曲を見たから、だいたい把握してる」
 意味が分からなかった。
 コンクールの課題曲は莫大な数ある。
 それをすべて用意するのはかなりの大仕事だが、この男の口ぶりはまるで、普段のレパートリーの中に課題曲はすべて含まれている、という意味合いに聞こえる。
「ではショパンのソナタとかでも……?」
「ああ。二番? 三番?」
「えっと、できたら三番を」
 私は難曲を指定した。難曲というのは、演奏テクニックはもちろんのこと、音楽的に奥が深いとされる曲だ。一曲通すと、三十分くらいかかる。
 いきなりそんな大曲を言わなきゃよかったかな。とんでもなく下手なレベルだったら、遠慮なく打ち切らせてもらおう。そんなことを考えていたのだけど、最初の一音めから、衝撃的だった。
 そして音を五つ聴いただけで、私はこの演奏家に恋をした。
 すべての音に生命が宿っていて、音のつながりによって、世界が創造されている。
 大きくてしっかりとしていて、自由自在に動く指が、鍵盤を毎回完ぺきな角度と速度と強さで、タッチする。神がかったリズム感、音色の変化……ここまで研ぎ澄まされた演奏がこの世に存在するなんて!
 私は夢でも見ているような気分になってきた。
 彼が最後の和音を弾き終えたとき、私は涙を流していた。
「ありがとうございます。こんなにこんなにも感動的な体験ができるなんて……生きててよかったです」
「そう。他のも、いいよ、弾くよ」
 演奏が終わると別人かと思うくらい無愛想だが、今の私にはそれすらかっこよく見えてくる。
「いいんですか? でもどうしましょう。こんなに素晴らしい演奏を、本当にいいのかしら。その、お礼は……?」
「ギャラ?」
「はいっ」
 お金を払えば弾いてくれるっていうのなら気楽だ。私は一生、この人のピアノを聴いていたい。早速財布を手にすると、電話が鳴った。
「おい、ヤツに電話代われっ」
 リンが怒っている。
「なによ、っていうかこの人、本当にすごいわ、これは本物の天才だわ!」
「うるさい、いいから早く、ヤツに代われ」
「うるさいのはそっちよ、せっかく最高の気分だったのに」
 私は仕方なく、男に電話を渡す。
 すると、スピーカーホンでもないのに、リンの怒鳴り声が漏れてきた。
「てめー死ねっ」
 男は返事をしない。眠そうに目を細めながら、首を回している。
「金巻き上げようとすんなっ。もうてめーがもらえる金は一銭もねーだろ! 契約書、今すぐ届けてやろうか!」
 男は無言のまま、その電話を切った。
「すみません、ちょっと、常識ない子で」
 私は、申し訳なかった。せっかく至福のひとときを過ごしていたのに、リンが雰囲気をぶち壊しにしてしまったのだ。お詫びも含めて多めにお札を取ると、男はそれを手で制してから、
「何聴きたい?」
 うつろな目で、こちらを見てきた。これほどまでのピアニストに対して、あまりお金にこだわっているのも、かえって失礼だ。ギャラはリンが払ってくれたのだろう。私はさりげなく財布をしまった。
 リンから再度着信があった。少し胸が痛んだが、私は電話に出ずに、そのまま電源を落とした。
「ベートーヴェンで」
「ソナタ? 何番?」
「あの……三十二番をお願いできますか?」
 男は黙ったまま弾き始めた。
 音楽がひとつの生き物となって、こちらに迫ってくるような錯覚を覚えた。
 今まで勉強してきたベートーヴェンに関する知識、この曲にまつわる情報すべてが白紙になり、ただただ音の存在感のみによって、私の心はダイレクトに揺さぶられている。
「次はバッハ!」
 弾き終わって、ひと呼吸おいて、すぐにリクエストした私を、彼は初めてまっすぐ見た。
「少し食事でもしながら、話しませんか」
「食事? 今? あ、そうですよね、いきなりたくさん弾いていただいて、申し訳なかったです。どうぞどうぞ、ゆっくりお休みください」
 食事といっても、私は料理なんてできない。どうしようか、と悩んでいたとき、チャイムが鳴った。
「寿司の出前、二名様分です」
 すごいタイミングだ。リンの仕業に違いない。
 携帯の電源をオフにしているにも関わらず、ずっと監視してくれている。そして食べ物の用意まで……私は久しぶりに「食べたい」という気持ちになっていた。
 感動的な音楽を聴き、やはり私はピアノが大好きなんだとうれしくなって。リンが私のことを見ていてくれているという喜びも重なって、すごく気持ちが舞い上がっていた。
「リン、ごめんなさい。さっきはピアノに集中したくて、電源切っちゃった。お寿司のオーダー、リンでしょう? ありがとね!」
 すぐに電話をすると、「こっちこそ、さっきは悪かった」
 いやに素直な返事がきた。
「リンは悪くないけど、ねえ、リンもここにくればいいのに。ほんっとにほんっとに、すっごいピアノだよ」
「それはよかった」
 その暗い声に少し違和感を覚えた。
「リン?」 
 聴き返すと、「腹いっぱい食えよ」そう言い残して、電話は切れた。
 リンの様子がどこか不安にはなったけど、テーブルにはたくさんのお寿司がある。私は目の前の天才に心を奪われていた。彼にお寿司をすすめながら、自分も満腹になるまでお寿司を食べた。
 食事をしながら、ベートーヴェンの音楽と啓蒙主義の関係性を語りあった。私の意見もきちんと聞いた上で、彼は奥深い知識と考え抜いた解釈を、説明してくれた。
 食事のあとまた、演奏を頼んだ。
「ブラームスも、いいですか?」
 もうコンクールの課題曲からは離れていたが、彼は本当になんでも弾けた。
「いいが、私は十八時までしかここにいられない」
「えっ」
 別に彼がこの家に泊まるとか、そういった予想を立てていたわけでもないのだけど、私は彼の言葉に驚いた。時計を見ると、あと四十分くらいしかない。
「どうしてですか」
「瑛斗と、そういう約束になっている」
 リンとの約束なら、どうにでもなる。すぐにスマホに手を伸ばした私を、彼は制した。
「また来るよ。最後四十分間のプログラムを考えてくれ」
「なんでですか、あっ追加分のギャラは払います、だから」
 彼は黙って首を横に振る。
 どうやら魔法は消えてしまうらしい。名残惜しいが、不満を言っていても時間の無駄。それよりも四十分間を最大限有効に活用する必要がある。
「ではブラームスのソナタ。三番を」
 そのブラームスは特に素晴らしかった。私も弾きたい。今すぐピアノを弾きたい。この人に習いたい。この人の耳に、自分の演奏を入れてほしい。
「先生」
 私は不意にそう呼び掛けていた。思えばまだ、名前も聞いていないが、構わず続けた。
「先生。出だしと再現部の違いは、どういう意識で変化させたのでしょうか」
 無我夢中で、教えを乞いた。
「ちょっとだけ、お時間いただけませんか? 先生、私のレッスンをどうかお願いします。私今までいろんなレッスンを受けてきましたが、先生はなんていうか、次元が違う感じがしまして……もちろんレッスン料は、遠慮なく請求してください、祖父がA音楽院の理事をやっておりますので」
「ああ。篠原先生だろ」
「ご存じなんですか。光栄です」
 一応驚いたふりをしていたが、このレベルのピアノを弾く人間なら、祖父の存在は知っていて当然。私と祖父の関係性については、リンから連絡済みなのだろう。私は今、祖父が著名な音楽家であることを、誇らしく思っていた。私は結局、祖父母や両親の七光りにすがって生きている。それで構わない。先祖を含めて、私なのだから。
「祖父母も両親も、私のレッスンのためなら、いくらでも出しますので」
 話しているとチャイムが鳴った。玄関をドンドンと叩く音もしたので、時計を見ると十八時になっている。リンだろうと思って、無視しておいた。
「おい、こっちは合鍵もってんだぞ」
 ずかずかとリンが入ってくる。今の私には、先生は神々しく輝いていて、リンはただの同居人だ。
「先生、先生。必要であれば先にレッスン料をご提示ください、すぐにご用意しますので」
 私の言葉に、リンの顔色が変わった。次の瞬間、ピアノのすさまじい不協和音が鳴り響いた。
 ジャーーーーーーーーーーーン
「ばかやろう!」
 リンが左腕の肘から下を使って、ピアノの鍵盤をたたきつけていたのだ。
「お前、だれの金を用意すんだよ! 自分は一円も稼げねえくせに!」
 リンが怒鳴り散らしていて、何て言っているのか、わからない。
 こわい。リンが怒っている。なぜ? 不協和音が、悲鳴みたいにうるさい。
 お金の話をしたのがいけなかったの? 確かに直接的にお金の話をするのはぶしつけだけど、でもリンはそういうタイプじゃない。
 訳が分からなくて、私はそっと先生に身を寄せた。それを見たリンは、ピアノの脚を蹴飛ばした。
「きゃっ」
 私は自分の体が怪我をしたような錯覚に陥った。
 痛い。
 全身が痛い。
 ついさっきまで、天才ピアニストが神聖な音楽を奏でてくれていたピアノが、こんな扱いを受けるなんて。
 ひどい。
 いつもリンはピアノを守ってくれていたのに。リンは一体、どうしたというのだろう。
 私はうずくまりながら、リンをにらんだ。リンは動きを止めて、私を少し見て、それから先生を見た。
 先生も、リンを見た。
「出てけ」
 リンが低くつぶやいた。
 先生は、にやりと笑った。先生の顔に、初めて表情が浮かんだ瞬間だった。
 その時、私は全身に鳥肌が立った。何かが大きな音を立てて崩れていく気がした。ゆがんだ笑みは、ただただ人に不快感を与える。
 先生が無言のまま、家を出て行った。
「リン?」
 私が呼び掛けたとき、リンの携帯が鳴った。
「はいっ、今すぐ行けますっ」
 口調から察するに、仕事の電話らしい。電話を切るや否や、リンは無言で去っていった。
 無音になった途端、先生のピアノが脳内によみがえってくる。今は正直、先生のピアノ以外のことは、どうでもいい。たとえ、今すぐ逃げないと命が危ないという状況であっても、私は先生のピアノから離れないだろう。何よりもあのピアノを、私は最優先してしまうだろう。非現実的な感覚に陥るほど、あのピアノは衝撃的だった。
 私は、夢の中にいるような状態のまま、すぐにピアノを弾いた。
 最初に先生が弾いてくれたショパンのソナタ第三番の最初の音。
 それを何十回も試す。できない。同じピアノを使っているのに、全然、先生の音と違う。最初の音だけに一時間ほど、没頭した。しばらくぶりの集中力を、自分でも感じた。これはさっき、お寿司を食べたおかげかもしれない。摂食障害による、気力体力の低下は、リアルに感じている。
 私は間違えていた……。
 よいピアノを弾きたい。自分の手で、よい音楽を奏でたい。できることなら、いつの日か、先生のような神がかった演奏をしたい。
 でもこんなんじゃ、絶対に、よいピアノは弾けない。こんな体じゃ、手首が治ったとしても、ダメだ。よい演奏をするには、体力も気力も必要とされるのに。
 どうしよう、こんなに体重が減っちゃって。私の身体はもう、ボロボロだ。壁に少しぶつかっただけで怪我をするし、呼吸も長く続かないし、風邪もひきやすいし、いろんな神経が鈍くなって、聴覚も衰えてきた気がする。
「リン」
 もう指が勝手に、リンへの電話を始めていた。
「ロナ、大丈夫?」
 思いがけず真剣なリンの声が聞こえてきて、私は焦った。そういえばさっき、リンは怒っていた。あんなに怒られていたのに、無遠慮に電話してしまうなんて、私は自分勝手すぎる。どうしよう。今までは、そんな自分の短所にすら、気づかなかった。
 恥ずかしい。リンの声が優しすぎて、私は急に反省した。
「ごめん、たいした用じゃなかった。仕事中だったよね。ごめん」
「大丈夫、今待機中だから。なに? どしたの?」
 優しさだけを抽出したようなリンの声を聞いて、さっきのリンは何だったんだろうと思った。リンが烈火のごとく怒っていたように、私は感じたけども、もしかしたら私の思い違いだったのかもしれない。私の頭の中を占めているのは先生のピアノだけで、なんだか今の私は、自分の意識に自信がない。
「あのね、私痩せすぎちゃったなって、思って……ごめん、ほんと用はなかった」
「ロナちゃん、それは大丈夫だよ」
 リンの声が私の心にしみる。
「また太ればいいだけだもん。かんたんかんたん。じゃ!」
「ちょっと待って」
 やはりリンは忙しいのだろう。そんな中、大切なことを教えてくれた彼に感謝する。でも私が知りたいことは、他にある。
「ねえあのピアニスト、なんていう名前なの?」
「知らねえ」
「そんなわけないでしょう。もしまた会うのが難しくても、CDとかコンサートとか、あったら聴きたいの」
「いろんな名前で仕事してる人でさ、でもCDとかはないよ。ま、またお前がダメになったら、呼んであげる」
「なにそれ。じゃ今の私、ダメだわ。だから呼んで」
「いや、今のお前は、大丈夫だよ。じゃな。しっかり食えよ」
 大丈夫だよ。リンがそう言ってくれた。それが、なんだか無性にうれしかった。
 リンにまた、電話をしたくなった。
(あのね、リン。私リンに、大丈夫だよって言われたんだよ……)
 自分の中に浮かんだセリフに、苦笑する。私がリンに話したいことは、リンが私に言ってくれた言葉だ。リンには何でも話したいし、リンの言葉なら何でも聞きたい。
 リンの「大丈夫だよ」が頭の中でこだましている。もっと大丈夫になるために、明日から健康的な食事をしよう。料理も始めてみよう。そのためには食材を買いにいかないと。
 早速近くのコンビニに行こうとして、タクシーを呼んだ。でもなかなかタクシーは来ない。実家近くはたくさんのタクシーが流れているのに、この別荘のあたりはスマホでタクシーを呼んでも、到着するまでにやや時間がかかる。
 実家は便利なのに。いつの頃からか、人前で食べることを体が拒否していた。実家で食事ができなくなったから、ひとり暮らしを始めたようなものだ。でも今は、ちゃんと食べる意欲がわいてきているのだから、もしかしたら、人に見られながらでも食事できるかもしれない。
 そんなことを思っていたら、リンからLINEが来た。
『実家帰んなよ』
 私は思わずキョロキョロしてしまう。
 監視カメラに盗聴されていた? いや、私は黙ったままだ……そもそも監視カメラに録音機能はない。それなのに、私の心の声に、リンは返事をしてくれた。リンはすごい。タイミングの良さが、天才的だ。
『どうして』
『お前は、お前だよ』
 その返事に、一瞬前の甘いような熱いような気持ちは消え去り、私はやや固まった。リンはどこか、打ち間違えたのだろうか。『お前はお前だよ』の意味が、さっぱり分からない。
『うん』
『じいちゃんはじいちゃんだし、親父さんは親父さんだろ』
 まず、誰の? と思った。おそらく私の家族のこと、とは思う。
『そうだね』
『だからさ、実家帰っても、ロナちゃんはちゃんと、ひとりになれるよ。なんつーのかな、独立? 自立? できるよ』
『あーうんうん』
 やっと理解できた。リンは、私がひとり暮らししていた理由を、祖父母や両親のしがらみから抜け出るためだと勘違いしていたのだろう。自分の力を試すとか、家柄から自由になりたいとかの理由から、篠原という音楽家の一族から距離を置きたかったと、誤解していたに違いない。
『私はおじいちゃんの血が私にも流れてることがうれしいし、おじいちゃんたちがいてこその私だから』と書いて、消した。私は『先祖含めての私』を肯定したい環境だけど、リンは逆だ。先祖関係なく、リンはリンというとらえ方をすべき環境なのだろう。
 都合のいい先祖は活用して、都合の悪い先祖のことは見てみぬふりする。それでいい。占いと一緒。いい結果は信じて、悪い結果は忘れる。
『私、おじいちゃんのこととかは、特に何も気にしてないんだけど』
『気にしてねえのかよ。金のこととなるとすぐに頼るくせに』
 ん? 気にしててほしかったの? やっぱり、リンが何を言いたいのかが、分からない。しばらく返事を待っていると、『悪かった』という言葉が届いた。
『お前の好きにすればいいよ』うらな
『とりあえず私、しばらく実家で暮らすね。リンはどうする?』
『わかんない』
『別荘は、管理人が定期的にきれいにしてくれるから、いつでも使っていいよ』
『すげえな』
 もともとは、たまにしか使わない別荘だ。草刈りから各種点検、到着前の冷暖房の用意まで、ちゃんと管理してくれる人がいる。
 私は恵まれている。贅沢だ。そんなことは分かっている。でも、あるものはあるのだ。ない人に合わせることは無理だし、意味がない。
 私には愛情深い両親も祖父母もいる。リンにはいない。だからなんだというのだろう。私の両親を消すこともできなければ、リンの両親を作り出すこともできない。ただそれだけのことだ。
『これからも私、たまに別荘に遊びに来る。リンもたまに、ここに来る。タイミング合えば、二人がここで会う。そういうのも、ありだよね』
『密会っぽいな笑』
 密会。その言葉にドキドキする。私は早く密会をしたくて、すぐに実家に帰った。
 
 実家ではまず監視カメラをピアノの部屋に設置した。両親には「演奏するときのフォームを確認したいから」と説明したが、実際の理由はひとつしかない。リンを感じていたいからだ。リンはきっとこれからも、監視カメラを見てくれるはず。本人には確認せずに、そう信じた。
 そして、そんな自分の気持ちを確かめたあと、私は西田さんと別れた。
「長い間お世話になりました。もう精神状態が落ち着きましたので……」
 電話をすると、彼は社交辞令を言ってくれた。
「そのようですね。本当によかったです。これからも機会があればまた、良那さんとお話ししたいです。またお会いできることを楽しみにしています。手首、お大事になさってください」
 あっけなくて終わって、少しむなしかったので、「きっと精神病患者として、私も微力ながら、彼の役に立ったに違いない」と思い込むことにした。我ながら、自分の精神を上手にコントロールできている、と満足した。
 実家は何事もなかったかのように、私を受け入れてくれた。
 それがありがたかった。
 大学はちょうど春休み期間だ。
 四月になって新学期が始まったら、ちゃんと学校に通える。
 そんな自信も生まれていた。

 11 これまでの百日、これからの百日
 ある日、リンから電話があった。
「誕生日、三月二十七日だよな? なんか予定あんの?」
 数字を覚えておくことが苦手なリンが、ちゃんと私の誕生日を覚えていたことに、少なからず感激した。
「ないよ」
 本当は毎年家族が祝ってくれるが、リンには伏せておきたい。
「じゃさ、バイク乗んない?」
「え!? 私バイクなんて乗ったことないよ」
「大丈夫、オレ意外に安全運転だから」
 どうやら二人乗りに誘われているらしい。
「めーっちゃ寒いから、厚着してきて。スキーに行くつもりで」
 私は、スキーに行ったこともない。
 電話中、『スキー 服装』を検索すると、随分とたくさんの服を着なければいけないことが分かった。
「私、スキーの服持ってないから、どうせ買うなら、バイク用の服買ったほうがいい?」
「あーそっか。じゃオレ持ってくよ、ロナに合う服。それに着替えてから、出発しよ!」
「リン、服のレンタル業でもやってるの?」
「あー惜しい。友達の兄ちゃんがやってるんだわ」
 人脈というのは無敵だ。なんとなく、リンたちの助け合い精神を見ていると、古き良き時代の香りもしてくる。
 そして誕生日当日、実家近くのレストランで、待ち合わせをした。両親が仕事に出かけてから、私も家を出る。
 個室で待機していると、リンは大きな荷物を抱えて、お店に入ってきた。
「うぃーっす、ここ密会ぽくね? ほい、ライダースジャケットとブーツとグローブの三点セット。誕生日祝い、第一弾」
「もらっていいの?」
「嫌なら返品OK」
「着てから考える」
 黒くてつるつるしていて分厚い生地のジャケットと、かったい素材のブーツと、手が硬直しそうな手袋を渡された。ジャケットとブーツは問題ないが……。
「グローブっていうの? この手袋は無理」
「そっか」
「うん、こんなのの中に私の手を入れたくない」
 それは指の自由を一切奪ってしまいそうな、拘束力が恐ろしいデザインだ。見ているだけで、指が不快感に襲われる。
「ごめん、気づかなかった。じゃ、バイクは無理だな。チャリにしよう。ちょっと交換してくるからさー、なんかゆっくり食べてといて」
「ん? 交換って?」
「えーと、トレード?」
「いや、そうじゃなくて、どこまで行って交換してくるの?」
「あーそれはさーオレの倉庫。住んでないんだけどさ、倉庫にしてる家あんのよ。前にセンパイが住んでたんだけどさ、めっちゃ古いからオレは住むのはムリなんだけど、あ、そうそうそう、その倉庫にワンちゃんが住み着いててさー、なんかストレス発散したいときに、よくそこ行くのよ、オレ。ワンちゃんに会うとさー」
 私はリンから目をそらした。リンのことが好きだ。リンの話を聞きながら、その気持ちが一気に高まってくる。
 きっとこれがリンだったら、と考える。もしリンが、今の私くらい、目の前の相手のことを大好きーって思ったら、きっとリンは、抱き着く。前後の脈絡もその場の雰囲気も、全部を「好き」一色に変えて、ぎゅーってする。
 リンのそんなところも好きだ。勝手に推測した部分を好きというのもなんだが、本当にそうなのだ。リンが発する言葉なら、意味など関係なく、全て大好きだ。まだ見ていないリンの行動も、全て大好きだ。そう言い切れる。
 だから私は、目をそらしてしまう。それでも、リンにはバレている。リンは、バイクとチャリの交換についてはトンチンカンだったけど、私が目をそらした理由は、本能的に理解している。
「二十歳の誕生日だよ、ロナちゃん」
「うん」
「今日、誕生日なんだから、遊ぼうよ」
「うん」
 遊ぼうという言葉に、子供のころから憧れでもあったのかと思うほど、胸が高鳴った。
 どういうわけか、涙が出てきた。
 今、声を出したら、確実に泣いてしまう。
 そう思って唇をかみしめていたら、リンはチャラさ全開で笑った。
「遊園地とかさ、行っちゃうー?」
「ううん」
 軽佻浮薄なリンにつられて、私も笑う。
「リンとここでゆっくりしたい」
「えーっつまんなくなーい?」
「ないない」
 高ぶっていた心臓も、次第に落ち着いてきた。私はいつも、一瞬心が燃え上がっても、一瞬後には落ち着いてしまう。だから、燃え上がった一瞬だけ、耐える。そうすれば、その気持ちは、なかったことにできるから。
「だってさー、二十歳の誕生日にしたこと、を作ったほうが、よくない?」
「私はアイドルじゃないんだから、二十歳の誕生日について、誰かに話す機会なんかないわよ」
「そっかー。じゃここで、イチャイチャするー?」
「ここはレストラン。なのでここで、食事をします」
 リンは素早く私に抱き着いてきて、首筋にキスをした。香水に包まれたような感覚だ。
「ロナちゃんのピアノ、うまいよね」
「なによ、突然」
「ロナちゃんのほうが、うまいよ。この前のコンクールの人たちより」
「そんなわけないでしょう」
「あるよ。うまいよ。絶対」
 リンは私のスマホを手にした。
「パスコード、オレの誕生日のまま?」
 私は苦笑して、うなずく。
 リンは自分の誕生日を入力してスマホのロックを外し、ボイスメモを開いた。
「オレ今からいいこと言うからね」
 こっちにそう宣言してから、録音を開始する。
「ロナちゃんへ、愛してる。ロナちゃんはめちゃくちゃピアノうまいよ。特にシューマンがいい。ロナちゃんのシューマンを理解できない審査員がいたら、そいつがバカだ。ロナちゃん、愛してる。オレを」
 リンはそこで少し言葉に詰まり、また再開した。
「ロナちゃんはいい人だよ。えらいよ。オレを、泊めてくれて、えらいよ」
「そんなこと」
 思わず私は口をはさむ。
「なんで、ねえ、リン、なんでそんなことやってるの? お別れ、なの?」
「違うよ、二十歳の記念だよ、ロナちゃんの」
「記念って感じしないよ」
「これからだよ。ロナ。二十歳。おめでとう。愛してる。林瑛斗より」
「……なにそれ」
 私はやはり、泣いてしまった。私はリンの音楽的センスをかなり認めている。そのリンからの誉め言葉は、衝撃的だった。最高に嬉しい言葉なのだが、普通ならわざわざ口にしないような、シンプルすぎる言葉だからか、もの悲しさのほうが勝ってしまう。
「リンと、別れたくないよ」
「別れないよ、オレたち」
 そして私たちはたくさん写真を撮った。スマホに向かってポーズをとり、ツーショットの画像を見る。自分たちの写真をいちいち確認するという行為は、なんだか笑えてくるものだ。次第に気持ちが軽くなってくる。リンはバイクが似合う黒の革ジャンで、私はただただ厚着をしてきただけのタートルネックセーター。そのバランスの悪さにも、私は笑っていた。
「ロナちゃん、プレゼント第二弾。オレの香水」
 リンに渡された箱の中には、茶色の小瓶が、十二本あった。一瞬で、私の笑顔は消えた。
 リン不在対策に、私はこの香水が、欲しかったのだ。リンがいない時に、リンの香りが、欲しかったのだ。こんなにたくさん香水をもらったら、もう……。
「いや」
「お誕生日プレゼントだよ。意外にそれ安くてさ、プレゼントにするには、そんくらいまとめないと、かっこつかないからさ」
「なら一本ずつちょうだい。なくなったら勝手に補充しといて」
 間髪入れずに言い返してしまい、私は後悔した。リンは困った顔をして、箱を見ている。
「犬がいる倉庫に保管しとくのも、不安だわね」
 私は香水の箱を受け取った。
「ちょっと重いから気を付けて」
 リンの優しい声のせいで、ものすごく重く感じた。
 誕生日の翌日。実家でピアノを弾いていたら、学校にいる母から電話が入った。
「良那ちゃん? 大丈夫??」
「なにが?」
「さっき、お父さんのところに佐藤っていう男の人が来て、それで……」
 母は言いよどむ。
「なあに、お母さん」
「ごめんなさいね。佐藤っていう人が、娘の経歴に傷をつけたくなかったら金を、と要求してきたのよ。娘の経歴っていうのはそのままA音楽院の評判にもつながるだろうって言い始めて、もちろんお父さんは全く相手にしなかったのよ。そうしたら佐藤っていう人はスマホを出してね。それで、その、ツイッター画面を見せてきたのよ。良那ちゃんの画像があって……その画像は、ほんの一瞬で削除させたから、もうツイッターに残ってないわ、そこはもうね、何回も確認したから大丈夫。でもそれを見せて、金を出さないと自分はこんなこともすぐやる、やれるんだっていうことを話すのよ」
 一人の男の嫌味な笑顔が、脳内によみがえる。
「佐藤さんって、どんな人?」
「四十代くらいの男の人」
 間違いない。あの、先生だ。私は頭がくらくらしてきた。
「私のどんな画像?」
「なんかね、ベッドの……」
 ベッドの画像? 胸騒ぎがする。
「ほんとに私の写真?」
「ええ、別荘の部屋だったわ。良那ちゃんがうれしそうにベッドに座ってる写真」
 ああ。すぐに思い出した。リンが初めて私を撮った写真だろう。でも、リンが先生に写真を渡した? そんなわけはない。
「そっか。それで?」
「仕方なく、お父さんもとりあえずその人の要求を聞いて、今、弁護士の先生に相談中なのよ。ねえ、良那ちゃん、いったい何があったの?」
 母の問い詰める口調に、めまいがしてきた。震える手で、自分の名前をツイッター検索する。過去に出た演奏会の情報などのツイートはあるが、直近では何も出てこない。
 A音楽院で検索。一通り確認したところ、問題なし。次、祖父の名前……
 画面が切り替わった瞬間、私はスマホを手から落とした。そこには、海でリンと撮られた写真があったのだ。リンの姿は切り取られていて、私だけの写真になっている。
『人気音大理事長 篠原勉の愛娘 天才ピアニストの卵の今 ヤバすぎワロタwww 拒食症で死亡フラグ確定www』
 悪意という猛毒が、酸素と一緒に吸い込まれてくる感覚だ。
 なんなの、これ。
 あの画像を撮った人が、私のことを調べたの?
 いや、撮った人とは限らない。
 あのツイッターの画像を保存すれば、誰だってこんなことはできる。
 そしてこの写真と、私の情報を一致させられる人は……。
「お金と引き換えに、嫌がらせをやめてくれるっていう話で、ちゃんとそれは守ってくれたんだけど」
 電話から母親の声が聞こえてくる。
 そんなの守ってくれてないよ。でもお母さん、見ないで。このツイート。この写真を。
 現在より10キロぐらい体重が少なかった時の写真だ。今見ると、我ながら恥ずかしくなる。というか、無防備な写真がネットに晒されているということが、恐ろしい。
「佐藤さんと、いつから知り合いなの? 良那ちゃん? 聞こえてる?」
 祖父の名前で検索していると、他の写真も出てきた。リンとの思い出作りのために撮っていた写真が、次々と。ツーショットでもリンの姿は消されていて、私だけの写真になっている。
「良那ちゃん、良那ちゃん、大丈夫?」
 その時、優音からLINEが次々に届いた。
 短い文章がどんどん届く。
 うっとうしくて、スマホ画面は見ないで、母の声に返事をした。
「うん、大丈夫。えーとね、最近だよ、その人と知り合ったの」
「どこで? 怖い思いはしなかった?」
「うん、ピアノがすごくうまいんだよ」
 言いながら、その言葉の無力さに泣けてきた。
 ピアノがうまいっていうのは、形容詞の一つでしかない。
 ピアノがうまい、悪い人。ただそれだけだ。
「あら、ピアノを分かる人なの」
 母の声がいっそう暗くなる。
「うん、かなりすごい」
「そう。実はね、次は良那ちゃんのYouTubeにいろいろ書き込むって言われたのよ。素人のコメントなんか気にすることないわって思ってたけど……自分もピアノ弾く人なのね……」
 私は慌ててYouTubeを確認する。今のところ大きな変化はないが、行く末を案じて寒気がした。
「何はともあれ、良那ちゃんが無事でよかったわ。今から帰るわね」
 母の電話が切れた。
 一応、優音のLINEを開く。
『ロナのバカ! ロナのせいだからね!』
『リンがあんなにしてまで逃げてた相手って、親父だったんだよ、知んなかったの?』
『リンのバカも、この前そんな親父にわざわざ連絡してさ、ロナに会ってくれって』
 はあ???
 三回くらい読み返した。
 あまりに驚いて、ツイッターのショックが薄くなった。
 先生は、リンの父親だったの?
『で、何したわけ? リンパパとロナで何したっつーんだよ。
リンはただ、あんたが元気になればいいっていう、ほんとただそれだけで、身を売ったんだよ。リンパパが、リンの弱みをネタに、事務所から金をゆすったわけ。リンのスマホの画像は、全部リンパパのPCに入っちゃったし。そんでこれだよ』
 芸能ニュースのスクショ画像が送られてきた。
【林瑛斗がペンタゴン脱退! ツアー不参加! 三月三十一日には事務所退社!】
 頭の中が?で埋め尽くされた。
『リンの弱みって、リンパパの悪事なんだから、笑っちゃうけどね。アイドルの実の父親が犯罪者っていうネタ。それをリンパパは売りたがるわけ。他にも何か、売れそうなネタはないかなって感じで、ヤツはずっとリンに付きまとってた。
リンは当然ヤツから逃げてたけど、でもなんだかしんないけど、最近ヤツをロナに会わせたがってたんだよ。
テキトーな金を渡してすぐに納得するヤツじゃないから、なんかうまい手立てを考えないとって、ずっと悩んでたし。
それなのにあの日、秒で決めたんだ。とりあえずいっちまえって。
もうやるしかねえ、なんもやんないまんま、ロナがヤバくなったら、ぜってー悔しいって。
マジ勢いだけで、クソ親父と会って、金の契約だかなんだかわかんねーけどさ。ヤツに一ミリも契約守る気ねえの、わかってるくせにさ。
案の定、十分くらい話してただけなのに、その間にスマホの画像データ盗まれて。リンと女とのツーショなんて、事務所から死ぬほど金取れるから。
分かる? ロナとの写真を使って、ヤツはリンの事務所を脅迫してるんだよ。
リンが事務所やめたって、CDの売上とかには影響あるからさ、リンのスキャンダルによる損害はヤバイんだよ。その損害をなるべく少なくするために、事務所はヤツに金払う。つまり写真の脅迫はまだまだ有効なんだよ』
 私はPCで、リンのことを検索する。
【林瑛斗の父親が薬物逮捕されてた! 林瑛斗も大麻所持疑惑!】
 一時間くらい前に拡散されたニュースだ。
 リンの父親が、自分でマスコミに売ったのだろう。自分のことなのだから、いくらでも情報提供できる。
『全部ロナのために、リンは動いてたんだよ』
『なんで私のためって思うの?』
『今朝リンから、電話かかってきたんだ。オレは父親になれるかなって。誰の? って思わず聞いちゃったよ。そしたら、優音の赤ちゃんのって』
『え』
『だいたいそれで勘づくでしょ。芸能界やめるのかなって。何があったのって聞いたら、もともとあの子おしゃべりだしね。相変わらず要領を得ない話し方だったけど、いっぱい話してた』
『リンとゆーたん、一緒になるの?』
『断った。これから赤ちゃん生まれるのに、リンなんかを家に入れたら、子供が二人みたいになっちゃうじゃん』
『でもリンは、お父さんになりたいんでしょ?』
『無理。っつーか、私が無理』
『ならしょうがないね。でもそれと、私のためにリンが動いてたっていうのは、関係なくない?』
『あるんだよ。そもそも年末に、うちらがロナの家に行くことになったのは、リンの声が流出した件がきっかけなんだけど、そのへんは知ってる?』
『なんとなく』
『もうね、そのころから、リンは事務所やめる方向にはなってたんだよ。やめるかやめないか、ではなくて、いつやめるかっていう話し合いがされてたんだ。でもリンはずっと迷ってた。いつどのタイミングでやめるにしても、誰のためにもならないって。いつやめたってみんなに迷惑かけちゃうし、誰にも喜ばれない。でも事務所やめなかったらそればそれで迷惑かけちゃうって』
 いかにもリンらしい、漠然とした言葉だ。突き詰めて考えることも、思考を言葉で説明することも苦手なリンだけど、本音を吐露することはうまい。ありふれた言葉でも、リンの葛藤が伝わってくる。
『そうこうしてるうちに、元凶であるリンパパに頼りたいことができて、リンはこの際それが事務所やめるきっかけになればいいって思ったんじゃない?』
 誰かのため自分が動ける案件が目の前に転がってきたら、後先考えずに、飛びついてしまう。そんなリンが、私は好きだ。
 リンっていいやつだよねって送ろうとして、リンってやっぱりばかだねって書き換えて、それも消した。私は強くて熱い心があっても、それを表現する力が圧倒的に足りない。
 こんな時に思い出すのも悔しいが、私からリンへの愛情に匹敵する力があるのは、リンパパのピアノだけだ。リンパパの演奏力を持ってして、ピアノ名曲が奏でられた時、私は正直、音楽を見直した。何百年も前に異国の地で作られた音楽が、今私の目の前に存在していることに、強烈な衝撃を受けたのだ。生まれた時からクラシック音楽に親しんできたが、あの瞬間が一番、音楽の力を強く熱く感じた。
『ねえゆーたん、リンのピアノって聴いたことある?』
『ないよ。リンパパはピアノの仕事してたけどね。あ、リンもピアノうまいの? まあロナのレベルからしたら、あれか。全然ダメか』
『私リンのピアノ聴いたことないのよ』
『ああ、いっつもあんたが弾いてるから、ピアノ空いてないのか』
『そうかもね』
 優音はリンパパのピアノを聴いても、何も感じないのだろう。仕事なんだからうまくて当たり前、というだけのことなのだろう。音楽が与える力も、誰かを想う気持ちも、人それぞれだ。
『そういえば! 昔ゆーたんが付き合ってた人って、あの人だったのか』
 先生=リンパパ。私が一瞬で恋した天才ピアニストと、私が殺したいほど憎んでいるリンパパが、同一人物だったとは。
『んーリンがどう言ったかしんないけど、付き合うったって、こっちは高校生だったけどね』
 あのピアニストはかなり風変りだった。ピアニストとしてはまだありだけど、女子高生が付き合う相手としては、変人すぎる。
『なんで付き合ったの』
『業界でそこそこ力持ってたから』
 やっぱりね、と納得した。
『でもレコード会社の金とかパクって、逃げたり捕まったりを繰り返してた』
 また、やっぱりね、と思う。
 リンの中で、父親は死んだはずだったのに。私が殺してあげたはずなのに。
 いつからリンは分かっていたのだろう。
 私が天才的なピアノ演奏を求めていたこと。
 そしてリンパパにはそれが備わっていることを。
 不思議なもので、私の左手首はすっかり治った。気が付いたら、痛くも痒くもない。
 それをリンに伝えたい。リンのおかげだよ、ありがとうって言いたい。
 お礼だからって前置きをして、リンに優しくしてあげたい。優しくさせてほしい。猫かわいがりのような極端な優しさを、気兼ねなく与えたい。
 私はリンの芸能人生を壊してしまった。だからリンに対して、罪滅ぼしをする義務がある。そういう前置きでもいい。なんでもいいから、リンに優しくさせてほしいのだ。
 でもその方法が分からない。リンは何を望んでいるのか。私は、自分が天才的なピアノ演奏を求めていたことにすら、気づいていなかった。自分のことも分かっていない私に、リンが求めていることなど理解できるだろうか。
 ただ一つだけ分かるのは、私と別れることをリンは望んでいる。昨日の記憶全てが、リンからのバイバイに思える。こんなにもリンへの気持ちが高ぶっている今、別れを強要されるなんて辛い。辛すぎる。だからこそ、リンと距離を取ることが、猫かわいがりレベルの優しさになるかもしれない。
 
 12、貝殻の歌

 各種芸能サイトでは、リンの直筆文章が、ニュースのメイン画像になっていた。下手な文字だ。
『この度は突然の脱退発表となってしまい、誠に申し訳ございません。十一歳から芸能活動をはじめ、恵まれた環境の中で、他では得難い経験をさせていただきました。数えきれない幸せな思い出を抱え、僕は宇宙飛行士を目指します。事務所の方々、お世話になっているすべての方々に多大なご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ないです。ペンタゴンを応援してくださっている方々への感謝とともに、僕は今後の人生を歩んでいきます……』
 宇宙飛行士?
 びっくりしすぎて、我に返った。私は彼にLINEする。
『宇宙好きだったの?』
 この状況でそこにこだわるの? と自分でもあきれたが、気になるものは気になる。リンのことは少し理解してきたつもりだった。でも。
『宇宙の話なんて何も聞いたことなかったけど?』
 続けて送ると、意外にもすぐ、リンから電話がかかってきた。
「だってオレ頭悪いからさ。海の仕事なんて思いつかなかったんだもん」
 リンは宇宙飛行士の仕事を知っているのだろうか。ただただ宇宙が好きというほど、宇宙好きなわけでもなさそうだし、もしかしたら宇宙の果てまで逃げたいのかもしれない。リンみたいに勘を使って、私はそんなことを思った。
「宇宙なんて、今まで私、考えたこともなかったな」
「夜の海見てるとさ、星がすげーきれいなんだよ。オレ星座とか、自分で作ってみたりするんだ。星と星を勝手につないでさ、あ、ハートになった、とかさ」
 耳に直接流れ込んでくるリンの声。この声も、今日までは売り物になっていた。この後もこの声は変わらないけど、もうCDにはならない。そのことにちょっと興ざめしている自分もいた。
 今まで考えたこともなかったけども、リンの芸能活動を見れば見るほど、リンがアイドルとして生きていることに、私は価値を見出していたのかもしれない。写真が高額商品になる存在。メンバーとのただの会話が仕事になっている存在。私は、価値が分かりにくい音楽の評価を上げたいために、身近に現れたアイドルという人種を肯定したかったのだろう。
「ロナも今度、プラネタリウム行ってみ? やばいよ」
「あーそっか。うん、リンと、いつか」
 リンと行きたい。
 当たり前に浮かんだ感情を、ギリギリのところで我慢した。やっぱり、アイドルとか関係ない。リンが好きだ。リンを見たい。リンに会いたい。リンに触れたい。それなのに。リンから離れることが、私からの精いっぱいのお詫びであり、優しさなのだ。
「オレはさ、これから宇宙の勉強するよ」
 リンの声が明るい。私の感情をくみ取り、私のお詫びに対しての「大丈夫」が込められた声だと、私は解釈する。
「宇宙の勉強」復唱して、私は笑った。「ばかじゃ宇宙飛行士になれないわよ」
 宇宙飛行士を目指す高校生の偏差値は、かなり高いだろう。私がピアノにかけた時間と同じか、それ以上を、勉強に注いできた学生が、世界中に星の数ほどいるはずだ。
 私は年を重ねるにつれ、ピアノ以外の分野に対する苦手意識がどんどん高まった。私のピアノと、素人のピアノには、一生かけても埋まらない差がある。つまり、私もピアノ以外では、全て、ど素人になるわけで。何をやっても、その道を究めている人に追いつけるわけがない。
 でもリンは、さらりと新しい生き方を選んだ。その場しのぎなのかもしれない。でも、このしなやかさは、かっこいい。
「ばかじゃ宇宙飛行士になれないけど、リンならなれるかもね。別になれなくてもいいけどね」
「今はオレ、ペンキ屋なんだ。もうさ、ちょい前からペンキ屋で仕事してんだよね。こうなる可能性あったからさ、少し様子見さしてもらってた。すっげーやりがいある仕事だわ、あれ」
「リンは几帳面だから向いてるかもね」
 このコにはペンキ屋の友達もいたなあ、と思う。全てがとても懐かしい。もうすっかり過去の出来事だ。リンと出会ったのはいつだっただろうか。ふと思いつき、優音とのLINE記録を確認する。
 昨年十二月十八日。三か月ちょっとか。短いけども、一日は二十四時間あり、一か月は三十日ある。三か月間ずっと私はリンと向き合っていた。日数で考えると、何日間になるのだろう……二つの日付を入力すれば、その間の日数がすぐに分かるサイトがある。
「え、うそ。ねえ、リン。私たち、知り合ってから、今日でちょうど百日だって」
「マジか」
「百日でいろんなことができるね。今日から宇宙飛行士の勉強すれば、百日後にはかなり知識が身につくんじゃない?」
「とりあえず一人前のペンキ屋にはなってるな」
「それはどうだか。職人さんはそんなに甘い世界じゃないでしょう」
「うっせえ」
 吐き捨てるように言うリンを、かわいいと思った。まだこの子は、子供だ。誰か、母親代わりにもなるような女性と出会って、のびのびと過ごせればいい。誰か、父親代わりにもなるような男性と出会って、いきいきと働ければいい。
 ペンキ屋のことを知りたくて、『ペンキ屋』と検索すると、まずは平均年収が出てきた。
「リン、もしお金に困るようなことがあったら、リンがくれた宿泊費、そのままにしてあるから、すぐ返すよ」
「そんなみっともねえことはしないさ」
 あっさりと拒否されてしまい、会話が終わりそうなことに、怖くなる。
「ねえ、なんで言ってくれなかったの? 天才ピアニストの正体を」
「だってさ、お前が殺したじゃん。俺の父親を」
「あ」
 そんな話をした日もあった。でもリンの頭には常に父親への意識があったから、荒れている私に、父親の演奏を聞かせたのだろう。
「ロナ」
「ん?」
「オレたちいっぱい写真撮ったじゃん。そんなかでオレ、お前がかわいく撮れてんのしか、スマホに残してねーから」
「は?」
「だーかーらー、オレのうつりより、お前を重視したってこと。お前が盛れてるヤツだけスマホに残して、あとはパソコンに移した」
「で?」
 なんとなくリンとの電話を終わらせたくない。そんな気持ちも手伝って、あえて勘は働かせないまま、会話をする。
「あいつが盗んだのは、スマホのデータだけだから。お前がかわいいヤツだけだよってこと」
「なにそれ。ほんとばか」
「しかもさ、昨日の写真は大丈夫だよ。盗まれたの、その前だから」
「いつ、どうして盗まれたの?」
「別にいいじゃん」
「ううん、だって、私も気を付けたいから」
 あと、電話を切りたくないから、と内心で続ける。
「あのさーお前んちにおっさん送り込む前の日に、オレ、おっさんちに行ったんだよ。せっまいマンションだったわ。そん時、あいつとグルになってる男がいたんだよな。そいつがたぶん、オレとおっさんが話してる間に、データ盗んだんじゃね?」
「どうやって?」
「わかんねえけど、オレはバッグを床に置いて、あいつを殴ったりなんだり、してたわけ。その時にバッグからスマホ抜いて、別室のPCにつなげたとかかなあ。二分あれば画像百枚くらいはPCに取り込めるらしいよ。優音に言われた」
 ゆーたんにはすでに話し済みなんだよね、今朝電話で話したってゆーたんが言ってたもんね、と胸の奥が痛くなる。
 薄々勘づいてはいた。私が最近リンに対して不機嫌になったのは、手首を痛めたからだけではない。リンのことが、好きだからだ。好きで好きで、仕方がないからだ。
「ばーか。ばかばかばか」
「うっせえ」
 電話を、終わらせたくない。この電話が終わったら、きっと、私とリンは離れちゃう。離れなければならない。リンがそれを望んでいるのだから。でも。あと少し。あと少しだけ、私の大好きな、リンの声を聴かせて。リンの言葉を、ちょうだい……。
「もう一つ質問。どうしてあの日、十八時終了にこだわったの?」
「オレもそうヒマじゃないから。それ以降だと、監視ができなくなる日だった」
「え」
 意外な答えに、私は胸が押しつぶされたように苦しくなり、目頭が熱くなった。そこまで見守っていてくれたなんて。全然気づかなかった。きっと私の生活は、他にもたくさん、リンの優しさに支えられていたのだろう。
 アイドルとか関係ない。自分が愛されたい分だけ、人に愛を注いでいるようなリンに、私は当たり前のように反応した。全身で愛を欲しているリンは、全力で人を愛す。私は、自覚できないほど強い恋心を、リンに抱いた。
「それなら、十八時まではリンも一緒に、ピアノ聴いていればよかったのに」
「無理無理。オレはあいつと一緒にいられない」
「あ、そうよね」
「あの時、暴れちゃって。マジ悪かった。あいつがいるとオレ、おかしくなっちまうんだ」
「あ、そういうことだったの」
 リンの激怒は現実だったらしい。でもあれは、本当のリンじゃない。私は、夢の中の私だったし、リンは、悪夢の中のリンだった。
「でもさ、絶対に三月二十七日までは何もすんなって、しつこく注意しといたんだ。三月二十七日が大事な日なんだから、もしも何かすんなら、絶対その後にしろって。もしも何かすんなら、でさ……もちろん、しちゃいけねえこと、あいつはしたわけだけど……でも、そこは、守ったんだよなぁ」
 リンの、父親への気持ちが、胸に刺さる。
「リン……」
 私は監視カメラをじっと見つめた。リンは本当にばかだ。そんなんじゃ、三月二十八日になったら何かしてもいいよって言わんばかりじゃないか。
「ロナ、かわいい」
「スマホで見てるの?」
「そうそう。ロナ、チューして」
 リンの甘えた声が耳に流れ込んでくる。胸がドキドキしてくる。私は監視カメラから目をそらす。
「ロナ。目閉じて、顎上げてみ。キス顔になるから」
「なにそれ」
「アイドルスキル」
 私は目を開けたまま下を向いた。謝罪の姿勢だ。
「ごめんなさい」
 リンが「ちげーよ」と笑っている。相変わらず、自分の空気を作るのがうまい。
「本当に、ごめんなさい。リン」
 さっきからずっと言いたかったことが、言えた。本当は、たった一言「好き」と言いたいけど、絶対に言えない。リンにこれ以上負担をかけちゃいけないから。
 でも、好きだから「好き」とは言わないの。好きだから、暗い話なるのが怖すぎて、事態を直視できなかったの。大好きだから「ごめんなさい」に全部の気持ちを込めるの。伝われ。リンに、私の「好き」が伝われ。そして私からのキスを、全身で感じて。
「ロナ。おそろいの貝殻、耳に当ててみ」
 おそろいの貝殻。その言葉に、こちらの全身が熱くなった。懐かしい気持ちが押し寄せてくる。
「ピアノよりもっといい音楽が聴こえるよ」
 また訳わかんないことを……そう思いながら、出窓に飾ってあるその貝殻に手を伸ばす。隣には、リンの香水だ。
 電話と反対側の耳に、貝殻をそっと当てる。
 すると、リンの声のような優しい音、貝殻の歌が、確かに聴こえてきた。
 貝殻の歌に耳を傾けていると、いつの間にか、電話は切れていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?