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百人一首を散らかす 19.伊勢

久しぶりに女流歌人です。



難波潟短き蘆のふしの間も逢はでこのよを過ぐしてよとや



激しい恋の歌です。

「難波潟」は大阪湾の一部で蘆の名所として知られていました。

蘆の生えた入り江のひらけた風景が浮かんだと思ったら、「短き蘆のふしの間も」で、ぎゅっとズームします。

初句二句が「ふし」を導く序詞になっており、視点の緩急をスムーズにつなげている印象。

「逢はで」の「で」は打消しの助動詞なので、“逢わないで”の意。
「逢ふ」とは男女が深い仲になるという意味もあります。

「このよを」の「よ」は“世”、世の中、や一生、と解釈できる一方、蘆の節の間のことも「よ」と呼ぶのだそうで、蘆の縁語にもなっています。

結句の「てよ」は完了の助動詞<つ>の命令形。

「や」は疑問の係助詞ですが、係結びされるべき語尾ごと省略されています。
(本当は「や」の後ろに“いふ”がつくのではと思われる)

”難波潟に生える蘆の節の間のようなほんの短い時間でさえも、あなたに逢わないでこのまま人生を過ごしてゆけと言うのですか”。

逢いにきてくれない恋人への痛切な叫びが三十一文字から滲み出ています。


作者は伊勢守藤原継蔭の娘で、父の役職から”伊勢”と呼ばれていました。

生没年は不詳ですが、9世紀後半から10世紀前半を生きた歌人とされています。
宇多天皇の中宮温子のもとで宮仕えをしており、美人であったと言われています。

恋多き女性で、藤原仲平の求愛を受けた後、その兄時平(菅原道真公を左遷に追い込んだ人物)にも愛されます。

宇多天皇その人の寵も受けており、皇子を生したため伊勢の御、伊勢の御息所とも呼ばれていました。
宇多天皇の譲位後はその皇子の敦慶親王と結ばれ、娘・中務を生みました。

もちろん歌の才能にも恵まれており、中務とともに三十六歌仙のひとりに挙げられています。


私の友人の話ですが、失恋したときの方が幸せなときよりもずっといい歌が詠める、というようなことを以前言っていました。
伊勢もそういうタイプの詠み手だったのかもしれません。
この歌が彼女と恋仲になったどの男性に宛てられた歌なのかは分かりませんが、つらい胸の内を比喩や抑揚をもって巧みに表現し、素晴らしい歌に昇華するというのはたいへん尊い行為で、自称女流歌人の端くれとしては是が非でも見習いたい姿勢だと思いました。

恋がつらくなったら、全部歌にしてやる。

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