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メモ:「新旧」ではなく「変化」

確かに新しい方が優れていることは多いだろう。旧い方が、新しいものより劣っている部分は目立つであろう。しかし、「新」とは増幅装置でしかない。「旧」に対して、相対的には、より大きい効果を及ぼすのが「新」だ。

例えば、「移動」を考える。

人間が歩くだけだった時代、馬を使うことは新しいことだった。馬に乗れば、飛躍的に移動スピードは上がった。馬車は運べる荷物の量を増やしただろう、自動車はスピードも量も更に飛躍的に向上させた。これが「旧」から「新」の観点からみた「移動」についての歴史だ。

では、ことの「本質」は何かといえば、「より速く、より沢山の量を移動させる」という人の欲望であった。人の欲望と書くと、何か弊害が伴う悪いことのようだ。もう少し高邁に言えば「社会課題」の解決であろう。

「移動」というテーマで考えれば、「変化」とは、社会課題にいかにインパクトある解決をその時代にどの程度しめせたか、その度合いを重視している。

歩くことしか知らない人類が、代わりに移動手段として使えそうな動物として馬が良いと判断し、大量に飼い慣らす方法を見つけ、調教して、仲間に馬の乗り方を教え、馬具を作り・・・途方もない課題の数々に、律儀に一つ一つの施策が打たれ、乗り越えてきたのだろう(実際に人間が馬を乗れるようにあるまでの正確な歴史は知らない。ここでは例えとして、このように書いている)。

つまり、車時代を生きる現代の我々が、「馬での移動などナンセンスだ」と笑うことは新旧比較の観点で古いものをバカにしているだけで、そうやって笑うこと自体が逆にナンセンスなわけである。

歩くことしか知らなかった人類が馬に乗れるようになった時代、この時代に負けないくらい我々の時代が「移動」について変化するには、「車」の次を生み出さないといけない。

それはもはや「車」という名称ですらないかもしれない。今まさにMaaSだEVだと言っている世界。誰が時代に最も貢献するのか。それはこれから決まることだろう。

多様性と調和について

このテーマもまた新旧で比較すると瑣末なものになる。

例えば、女性の社会進出。

昔は男性が仕事で女性は家で家事をするのが基本だった。もっと昔は女性に参政権すらなかった。「移動」と同じである。少しずつ「女性の社会進出」は進んできたのだ。

なので、このテーマもまた新旧比較して前の時代の仕組みを笑っても何も得られない。学ぶべきことがあるとすれば、その当時の「旧」→「新」への「変化」がどのようになされたかだ、或いは、なぜ成し遂げられなかったのかの分析である。

なぜ過去に比べて女性はより社会進出できたのか?一方で他国に比べるとまだまだ出遅れているのはなぜなのか?ということである。

これもまたテーマにおける内容の「変化」具合が大事なのだ。

ここまでで「移動」と「女性の社会進出」というテーマを通じて「新旧」及び「変化」の対立軸で見た時に、「新旧」よりも「変化」の観点の方がより重要であることがわかったきたと思う。

なぜこんなにも失言するのか?

なぜ、こんな議論をしているのかといえば、それは「ある程度しかるべき立場の人がどうしてこうも失言するのか?」という点を考えたいからだ。

五輪の不祥事が典型例だ。女性蔑視、ぶた発言、いじめ、ホロコーストネタ。

全て完全アウトである。

しかし、これを新旧比較で語ってもしょうがない。

「もうおじいちゃんなので、彼の生きた時代感覚では、理解できない内容」だとするのは問題だ。「もうおじいちゃんだから諦めてあげて」と問題を放棄するのもおかしいし、「もうおじいちゃんな人を任命すんなよ」もおかしい。

問題は彼自身が「変化」の観点からみて、止まってしまっている点だ。

確かに彼が若かりし頃はまだまだ女性の地位は低かっただろう。しかし、そこには時代の変化があり、当時とは違う状態が現在はある。

昔は、平気で人の容姿を馬鹿にして「豚だ」と笑っていた時代(或いは地域、雰囲気)はあったのかもしれない。しかし今は違う。

私は当該の発言について一切を擁護しないが、一方で彼が「俺はデブが大っ嫌いでさ、良い機会だからデブな有名人を世界的な舞台の場で『ぶた』としてディスってやろう思ってんだ」という意図もなかったのではないかと思う(推測だが)。

つまり彼はこう発言したのだ。

「馬での移動って便利だよね」と。

彼の中で、「馬」から「自動車」への変化がないのである。

ここから先は、次のことを考えたい。なぜ彼は「馬での移動って便利だよね」と発言してしまうのか?せめて「自動車での移動が一般的だよね」と彼が発言できるようにするにはどうしたら良いか?である。

こういった問いに対する答えはこうだ。

馬しか知らないから、そもそも車を知る必要がある。

なぜ馬しか知らないのかといえば、それはある程度の割合で本人が馬しか興味がなく、今更、自動車免許を取る気になれない点だ。そして、ある程度の割合で、社会が彼に自動車免許の必要性を伝えられなかった点にある(繰り返すが、彼の発言について一切擁護する意図はない。あくまでもこうした発言が生まれないために今後、社会の仕組みとしてどうしていくべきかを考える上での素材として見ているに過ぎない)。

しかし、明らかに車の方が早い。荷物も多く詰めるのに、彼は車の必要性や良さに気づいていないのだろうか?社会はそれを彼に気づかせてあげられないのだろうか?

できるとすれば「会社」である。

企業とは社会の公器である

経営の神様と呼ばれる松下幸之助の格言として有名である「企業とは社会の公器である」という言葉。

この言葉を借りれば、会社は公(おおやけ)であリ、社会の一部であると言える。ぶた発言の彼が自分の発言に問題があると事前に気付けるとすれば、会社による教育しか道はなかっただろうと思う。

もちろん、リカレントやリスキリングということを自らやっていれば話は違う。しかし、そもそも、自ら学ぶという姿勢そのものについて、日本社会において求めることは現時点では酷なように思う。

会社による「教育の重要性そのものを社員に教育する」ことが必要だ。その上で会社ができる限りリカレントできる機会を与えることもセットで考える必要がある。

しかしまずは、繰り返しになるが、学び続ける重要性を皆で理解する必要ある。あらゆる物事は常に変化し、前に進んでいるのだ(もちろん後退も時にあるが)。

皆が長く生きる時代になった。それに伴って長く働く時代になりつつある。月並みな話かもしれないが、一つのキャリアで得られた経験値だけで引退までやっていけるとは限らない時代なわけである。その対策としては、新しいスキルの取得だけではなく、新しい考え方というか、環境や社会といった自分を取り巻くものじたいが変化しているという「現状認識」の強化が不可欠である。

「現状をみて諦める」は王道とは限らない

仮に現状認識はできていても、現状のひどさに絶望するものまた違うと思っている。「言ってもしゃーない病」の蔓延ぶりは深刻だ。「会社に怒ってもしゃーない」、「正論を上司にぶつけてもしゃーない」、「理想論を部下に語ってもしゃーない」。政治で言えば「選挙に行って投票してもしゃーない」。

本来、もうすこし「しゃーない」は前向きなニュアンスがあったはずだ。「そんなに金のかかる話をしてもしゃーない(だからまずは小さく始めよう)。」という感じだ。いきなり全部は叶わないから、一部分から始めるための常套句だったはずだ。

今は「しゃーない」は、カッコ書きが取れてしまっていて、ただただ絶望を傍観する文脈で使われることが多い気がする。これは若い人だけではない、ある程度の年齢の人であっても、ある程度のしかるべき立場の人でも、この発言を多用する人は、本当に多い。

そして、大きなビジョンをかかげる人間を萎縮させる。リスクを何も考えていない人間かのように鼻で笑う。「わかるけど言ってもしゃーないだろ」。

五輪で言えば、「もうおじいちゃんなんだから、女性蔑視な考え方を直そうとしてもしゃーないだろ」という考え方の持ち主。

もちろん、当該の人物を執拗以上に責めたてろというわけではない。どうしたら、このようなことが起きないようにできるのか?を考え続ける意義はある、ということが言いたいのである。もっと簡単に言えば、簡単に諦めるな、ということである。

プライオリティ・選択と集中・捨て方を間違う

この「しゃーない病」を植え付けたのは、ビジネスの世界で言えば、プライオリティをつけろ、つまり、優先順位をつけろ、と言う仕事のやり方に由来する。経営戦略で言えば、選択と集中である。勝てそうな領域だけを見つけて徹底的に磨き上げる。「あれもやりたい、これもやりたい」という意見に対する「全部やりたいと言ってもしゃーない」なわけである。そうやって「しゃーない、しゃーない」言いながら、我々はいろんなものを「捨てた」。

「失われた20年」みたいな言葉がある。あたかも外部から強いインパクトで何かが削られた様な表現だ。「失われた」には、あくまでも何者かによって奪われたニュアンスが含まれている。

確かに失われた部分もあるだろう。しかし、私からすればこの表現は被害者側になるための詭弁にすぎない。本来は「捨てた20年」、「捨ててしまった20年」だと言える。

要するに、日本は「捨て方」を失敗したのだ。大事なものを捨てたから勝てなくなったのだ。本来捨てるべきものを捨てず、残さなくて良いものを手元に残した。その失敗から未だ立ち直れずにいる。

SDGsなどとわざわざ言い出さなくても、日本には「三方良し」があった。会社や経営者は言い続けている、でも実際の現場は冷めている。「三方良し?言ってもしゃーないだろ。それより今日の売りだ、一銭でも多く稼げ、でないと明日はないんだから」。

捨てたものから再定義されそうなもの

ここですこし頭のトレーニングをしたい。我々が捨ててしまったものと、我々が新しく作ろうとしているものの一例だ。簡単に言えば温故知新であり、アップデートと呼ぶものも良いかもしれない。

上述の通りSDGsは「三方良し」に近い。それ以外にはどんなものがあるだろうか、左に昔の言葉、右に今の言葉を載せてみたい。

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例えばCRM関連の用語を並べてみた。歴戦のベテラン営業マンでCRMの知識が一切ない人間と議論を徹底して繰り返して分かってきたが、お互いがお互いに新旧の施策やその狙いを話し合うと、ほとんどのことが古くて新しい話だったのだ。

特約店は今でも維持している会社はあるかもしれないが、この言葉自体には何か古いもの、癒着みたいなニュアンスを感じる人もいるかもしれない。しかし、ことの生い立ちを見れば、関係ゼロのところか初めて、徐々にたくさん買ってくれるようになり、お互いに情報交換も頻繁になり、ファンになってくれる、こちらはそういう店に対する見返りをしっかりと打ち出す、ということをアナログ、対面でやっていたのだ。

今時で言えば、エンゲージメントを高めるということだ。当時はエンゲージメントという言葉がなかった。だから、特約店が廃れた。エンゲージメントを数値化する術も、エンゲージメントの高低が翻って売上の高低を左右するとうまく表現ができなかった。経験的に業界を理解した人間が経営者になれば踏みとどまれたが、そうでない会社は、特約店向けの販管費や広告費が、経営者によってまっさきにコストカットされたわけである。

我々は膨大なコストをかけて作った特約店網を捨てた。これを呼び戻して、今時の言葉で言うエンゲージメント強化を再び行うことは簡単ではない。しかし、今時のテクノロジーに刷新し、且つここに時間と労力を集中させれば不可能ではない。

つまりは冒頭に戻るが「変化」の問題なのだ。

かつてきた道と本質は同じなのだ。大事なのは「馬」か「車」かではない。「移動スピードをより高めたい」という本質に基づいた判断である。「我々は馬しか知らないからしゃーない」などと言ってる場合ではない。

かつて特約店を作った人たちよ、その本質は何か?本質を間違わなければ、あなたたちの持っている経験は様々な形で活かされるはずだ。

変化を感じないか。感じ取れればもう一度前に進めらるはず。

※本投稿は、あくまでもメモですので、マガジンにも収録しません。

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