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NO6. 2月 早朝特急Ⅰ ホーチミン~フックアン~ニャチャン

———ある日の夕方、眼を覚ました時、 これはもうぐずぐずしていられない、 と思ったのだ。バスの出発時刻は午後5時30分。私は風邪をひいて寝込んでおり、目を覚ますと5時を少し過ぎていた。用意しておいた(といっても着替えくらいしかない簡素なものだが)荷物をつかみ部屋から出た。迎えはまだ来ていなかった。ほっと息をついて迎えを待つ。———

とうとう始まったテト休み、テトとはベトナムの旧正月のこと。人々は帰郷し、一族が集まる。太陽暦の正月よりも盛大に祝う。(スーパーで流れているるテトを迎える曲たちは中毒性が高く、今でも毎年二月に入るとヘビロテしている。毎年プレイリストがYou Tubeで公開されている。歌詞はすべて家族愛にあふれている。テトが来た、家族が集う、健康を祝おう。
当時のもの、二曲目のTết Đến Rồi(テトが来た)が特に好き。 Nhạc Tết 2022 Đặc Biệt Hay – Liên Khúc Nhạc Xuân Nhâm Dần , Nhạc Tết 2022 - YouTube

近況の報告を先に済ませる。休みには入ったものの実はまだ期末テストは全て終わっていない。テストを受けに来た私を置いて先に一人で休みに突入していった先生を涙目で見送った後、2週間ほど遅れてテストを受けるも人と関わらなかった私の耳は退化し、散々な結果だった。テストは休み後に延期され、とりあえずの休みに入った。休みの後に再テストと言われたが、隙あらば一人の時間を確保しようとする私にとってはこちらの方が散々な結果になるとひそかに思っている。
なにはともあれ、休みに入った私は本を読み調べものをし、友人に選んでもらったベトナム語の教科書を進めながら一人で休みを謳歌していた。
しかしテト当日、私は風邪を引いていた。友人から食事の誘いを受けていたが、当日友人からの連絡はなく、忘れられた期末テストの前例も相まって、はたして私の影が薄いのか、それともベトナム人が忘れっぽいだけなのかと自問しながらも、ちょうどいいやと療養に励んでいた。新年3日目から、友人の実家に遊びに行くことになっていたからだ。このままでは風邪をひいたまま遊びに行くことになる。結局新年2日目の夜、咳をコンコンしながら友人の待つ街に向かうため、長距離移動用の寝台バスに乗り込んだ。
本レポートは、サイゴンから友人のいるPhúc An、そして後に出てくるNha Trangでの出来事の記録となる。ちなみに、今回の元ネタは沢木耕太郎氏の「深夜特急」で、書き出しも拝借したが、私の場合ただの寝坊です…。

一章 フックアン到着
寝台バスは片道2000円。9時間ほどの行程である。流れる風景をひとしきり観察した後はずっと眠っていた。運転手のお兄さんが友人の親戚らしく、私が日本人であることを理解してくれていたので気楽な道程である。

 今回私が向かったのは中部、Phúc AnのĐắk Lắkという場所だ。名産品はコーヒー、胡椒にアボカド。至るところにコーヒーの木が生えている。火山の恩恵を受けた栄養豊富な赤土が、これら名産品の成長を支えている。
 到着したのは午前4時、予定よりもかなり遅れたようだ。友人の家で一眠りして、初日は親戚の人々と顔合わせ、その時に名産のコーヒーをごちそうになった。

ホーチミンのコーヒーはアイスコーヒーが多く、練乳を入れて飲むのが主流であるが、こちらでは写真のように温めて飲む。砂糖が大量に入っていて真っ黒なのに甘い。このコーヒーセット、陶器はフエのものらしい。方言が入り混じったベトナム語を聞きながら飲んだ。

昼食は親戚がそろって宴会場のようである。確かに大人数だと机やいすを用意するより床に座ったほうが合理的だ。皆の前で自己紹介をし、日本スタイル!と日本文化を知るお父さんに言われるがままビールをイッキ。さらに湧く親戚一同、どんちゃん騒ぎの中で一日は終わった。

二章 ニャチャンへ
次の日の午後、家族(というより一族)の旅行に同行することになった。旅行先でさらに旅行することになろうとは…。私はいったいどこへ行くというのだろう、などと謎の哀愁に駆られたりもしたが、とにかくニャチャンに行くようである。
15人乗りの中型車に、明らかに乗車人数を超えた人々が乗り込む。シートベルトなどあってないようなものである。私は一番前の座席に座ったが一列目は4人乗りである。時速40~60キロで3時間ほど揺られ、到着した。ゲストハウスで夜を明かし、次の日の朝、海へ出かけた。

ベトナムに来てすぐに、友人に連れられて海へ行ったことがあった。工業排水などで黒く汚れた海を見て、急成長の裏側を見たような気がしていたが、この海は砂浜もよく整備され、とても美しかった。水着は持ってきていないので皆服のまま海に飛び込んでいく。私はここ二日、風邪による頭痛とひそかに戦っていたので荷物番をかって出、日陰でぼーっと海を眺めていた。親戚のおじさんと話しているうちに、なんとなく電話番号を交換した。昼まで海で過ごし、昼食後には早々の帰宅となった。皆が震えている。そりゃそうなるやろと内心ツッコミを入れ、乗り込んだ車の中で左半身を友人の海水で濡らしながら戻った。

 三章 地元の観光地へ
次の日、朝から私の持参した着物の着付け大会が始まった。皆着物を見るのは初めてということで、友人とそのお母さん、親戚の女性など4人に着付けをした。撮影大会が始まり通りがかった近所の女性も入れた集合写真まで撮ることになった。

友人のお母さんとツーショット


午後からは地元の観光スポットを見学した。テトの催しで、公園内にもたくさんの花や提灯が下げられていた。

最終日は一日家でゆっくり過ごした。帰りのバスは5時出発で、お母さんがフルーツやお土産用のコーヒーを持たせてくれた。

今回の旅での出費は、バスの往復代金4000円のみだった。しかし親戚の方々が落とし玉と称した剥き身の現金を次々にくれるので、財布の中身はどちらかというと黒字気味である。私に一銭も出させない、という皆の強い意志を感じた。私は親切な彼らに何か返すことが出来たのだろうか。そんな思いと感謝の気持ちに包まれながらPhúc Anを後にした。

二階建ての上、梯子も外され全て床になるのでかなり広い


帰りのバスは毛布だらけのもこもこ天国である。洗剤の香りに包まれながらホーチミンへ戻った。

今回の旅路で、人々の優しさを強く感じた。自身の語学力の至らなさも再度痛感することとなったが、以前は歌にしか聞こえなかった言葉が確かな意味を持って発せられているという実感を得ることが出来た。単語を聞き取ることが出来、かなりやり取りができた。語学力はまだまだだが、自身の留学の目標も少しずつ達成されつつあるので個人的には満足感を感じている。二学期は6月中旬までと聞いている。帰国が近づくにつれ帰国後の多忙な日々を思って憂鬱になる時もあるが、こちらで最後まで目標を見失うことなく活動したい。
(実は私は現地で日本語教師として働いていた。目標とはこれであるが、賃金が発生するので大学には曖昧に伏せていた。)

来月はイベント総集編を予定している。今月予定していた土産物特集は、送り先の一つに大学のゼミ室が含まれているため、春学期の始まる再来月に持ち越しを予定している。

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