見出し画像

『走り去るロマン』に賭けた夢 連載09 ~タケカワユキヒデ、ゴダイゴ結成までの軌跡~

第3章 大学1年生編 1971~73年 ②

<第2回『TRECNOC』で東京に進出>

ワンマンの自主コンサート『TRECNOC』の、2度目の開催を決定したのは72年5月。日程は7月22日(土)、会場はこれまでの浦和市内から東京に進出し、千駄ヶ谷の日本青年館ホール(77年に解体された初代の青年館で、ホール収容人数は1,000人程)を手配。準備期間2か月、バンドメンバーはまだ集まってない上に、楽曲も構想だけでまだ完成しておらず練習以前の話。リハーサルの場所を借りるお金もなく、大きなキャパの会場を埋めるだけのチケット販売の手立ても未定。不確定要素だらけだったが、準備期間の前半の1か月を作曲とリハーサル場所の確保に充て、後半の1か月をチケットの売り出しとバンドリハーサルと決めて、急ピッチで準備を進めた。

まず、新たなバンドメンバーとして外大の同級生をドラマー、早大の同級生をベーシスト、ギタリストとして採用した。バンドのリハーサル場所は、高校3年時に予選出場した、ヤマハ音楽振興会主催の『ライトミュージック・コンテスト』(連載07参照)が縁で知り合った大会関係者を頼り、ヤマハ直営のリハーサルスタジオを2週間無料で借りられることになった。

コンサート用の楽曲は今までに書き貯めてきた楽曲の他に、30分ぐらいを新しい組曲で埋めようと計画。しかし歌詞を書いている時間がないので、現役で東京外大に合格して同じ学部の2年だった小山條二に依頼する。
「2週間で、組曲用の英語詞を、五つか六つ、書いてもらえないかな?」
2週間後、小山が書いてきた組曲用の詞のタイトルは「THE PILED BLOCKS」。“ブロックを積み重ねるとまた崩れてしまう、これも人生…” という長編の詞を、さらに2週間かけてタケカワが作曲。後にゴダイゴのデビューアルバムに収録される「組曲・新創世紀」の原曲となった、30分ほどの組曲が完成する。

なお、「THE PILED BLOCKS」は75年春に、タケカワのデビューツアー用に「組曲・新創世紀」へと詞・曲ともに大幅にリライトされている。「組曲・新創世紀」の構成曲である「BUDDHA’S SONG」の冒頭 "There is the life beyond this life" の部分に、『THE PILED BLOCKS』の "This is a life, that is a life" の詞と曲の片鱗が残っているそうだ。

チケットの販売は、大学3校での同級生への売り込みに加えて、高校時代からの友人がチケット販売に協力。友人たちに10枚、20枚とチケットを預けると、友人からそのまた友人にチケットを流通するといった、人脈ネットワークを通して最終的には900枚が捌けたという。

チケット販売以外に、宣伝活動にも友人が一役買ってくれた。洋楽ロック雑誌『ミュージック・ライフ』1972年7月号のコンサート情報には、以下のように情報が掲載されている。

★武川行秀フォーク・コンサート
場所:日本青年館
日時:7月22日(土)5時30分開場 6:00開演
出演:武川行秀とそのグループ
内容:全曲オリジナルによるフォーク・コンサート
連絡先:山口泰孝

『ミュージック・ライフ』1972年7月号 P.218/新興楽譜出版社
※一部省略、日付訂正

連絡先となっている山口泰孝は高校時代からのタケカワの友人で、この後もデモテープ録音に協力したり、ゴダイゴ結成初期までファンクラブの運営を行ったりと、デビュー前後のタケカワの活動をバックアップしていた人物。それにしても時代を反映して、“フォーク” コンサートと書かれているのが面白い。

タケカワ本人も過去に関わった各メディアへ、コンサート宣伝に奔走した。高校3年時に出演した、ニッポン放送『バイタリス・フォークビレッジ』(連載06参照)のディレクターに連絡して宣伝を兼ねた出演をお願いしたが、録り貯めした音源のストックが多いため、コンサート直近でのオンエアは難しいとの返答。ラジオ番組への出演は諦めたものの、局のスタジオで宣伝用のデモテープ録音の許可をもらい、わずか2時間で8曲を録音。そのテープを今度は雑誌の出版社に持ち込み、宣伝してもらおうと考えた。

前述のヤマハ勤務の知り合いを通じ、同会で発刊している音楽雑誌『ライトミュージック』の編集長を紹介してもらえることになったが、その時点で編集中の1972年8月号(7月15日発売)に載ってもコンサートまでの日数が短いため、同誌への掲載は見送られた。なお、8月号掲載コンサートガイドの7月22日の欄には、後楽園球場での “エマーソン、レイク&パーマー” の初来日公演、三重県合歓の郷でチック・コリア、渡辺貞夫、日野皓正などが出演したジャズイベントなどが紹介されている。

コンサート当日は蓋を開けてみれば、各メディアでの宣伝はまったく不要だったぐらいに、900人満員の観客を動員。音楽業界の関係者からは、演奏や楽曲そのものより「レコードデビューもしていないアマチュアなのに、なぜこんなに客がいっぱいになるんだろう?」と集客面で感心されたという。

第2回『TRECNOC』(1972年7月22日、日本青年館)、ピアノで弾き語りするタケカワ

なお、7月22日のコンサート当日は台風接近の荒天で、楽曲よりもこんなMCが観客に一番ウケたそうだ。

「きょうは、見に来てくれて、どうもありがとう。しかし、僕もがんばるんだ。台風にも負けず、後楽園球場のキース・エマーソンにも負けないで、こんなにたくさんのお客さんに来てもらったんだから」

『タッタ君 ふたたび』下 P.257 タケカワユキヒデ著/2013 T-time

<雑誌編集者がマネージャーに?>

第2回『TRECNOC』の宣伝のために、ヤマハ音楽振興会の『ライトミュージック』編集部を訪れたエピソードは先に書いたが、編集長に会うためにロビーで待つタケカワを出迎えたのは編集アルバイトの女性スタッフ、大久保光枝だった。

「紹介してもらっていた編集長を待っていたら、そこでアルバイトをしていた女性編集者が“いいバンドいない?”と聞いてきたんです。僕が“います”と言って自分のテープを聴かせたら彼女がびっくりして“これ、歌っているの誰?” “僕です” “曲を作ったのは?” “僕です” “ピアノは?” “僕です”(笑)」

『B.PASS ALL AREA』vol.15 P.139 連載「“モンキー・マジック”とゴダイゴの夢」vol.2 田家秀樹著/2023 シンコーミュージック・エンタテイメント

大久保は思わずタケカワに「ねえ、あんた、いったい、何者なの!?」と訊いてきたという。英語詞のオリジナルの楽曲を自作し、歌い、ピアノもプレイできる― シンガー・ソングライターという言葉がまだ定着していない時代に、それをやってのける大学生が目の前にいる。仕事柄、アマチュアミュージシャンの最前線を追う音楽雑誌の編集者にとって、タケカワが非常に刺激的に映ったことは想像に難くない。

余談だが、雑誌『ライトミュージック』は国内外の音楽情報の他、ヤマハが主催する「ポピュラーソング・コンテスト」の連動記事や、アマチュアからの応募作品の楽譜を掲載していた。それらの譜面を起こしたり、デモテープの制作を担当していたのが同誌編集部のLM制作室。当時の室長が萩田光雄で、制作室スタッフとして林哲司、船山基紀、佐藤健、増尾元章など、後々に作・編曲家として有名になる人材が溢れていた。シンガーとしてプロデビューする前に同室でアルバイト勤務していた大橋純子を、72年当時のタケカワは大久保から紹介されたことがあるという。もっとも、20歳のタケカワはレコード会社へのアプローチに手一杯であり、大橋と再会したのもお互いがデビュー後にヒット曲が出てからのことだった。

筆者所有の、月刊『ライトミュージック』1972年8月号(ヤマハ音楽振興会)

大久保は矢継ぎ早に言葉を続けた。

「ねえ、マネージャーいないの?」
「あたしが、マネージャーやってあげようか。ブライアン・エプスタインって知っている? かっこよかったんだよね、あの人」

『タッタ君 ふたたび』下 PP.255-260 タケカワユキヒデ著/2013 T-time

ブライアン・エプスタインはかつてザ・ビートルズを見い出し、彼らのマネジメント会社を設立し、大手レコード会社EMIに売り込み、世界的なロックバンドに成長させたマネージャー。タケカワもなるほどとは思いつつ、高校時代のコピーバンドの頃にゴーゴーホールで店のマネージャーにギャラをピンハネされた苦い経験(連載05参照)から、マネージャーというものに良いイメージを持っておらず、「別にいないし、そういうの嫌だから」と彼女の申し出を断った。

だが、それでも大久保は動じない。

「ねえ、レコード出したくないの?」
「じゃあ、あたし、レコード会社にも、何人か知り合いがいるから、聞いてあげるワ。このテープ借りていい?」

(出典元 同上)

コンサートの宣伝用に録音したデモテープはその目的を果たすことなく、そのまま大久保が預かったままとなった。

<レコード会社とことごとく交渉決裂>

7月の『TRECNOC』が終わってから数か月後、ヤマハの大久保からタケカワに連絡が来る。彼女の取り計らいで東芝音楽工業(後の東芝EMI)の制作ディレクターがデモテープを聴いて、ぜひ会ってみたいという。改めて二人で東芝を訪問すると、当時既に有名だった某ディレクターが二人を迎えた。

「君の曲、とってもいいと思うんだ。ほんとうに」
「ただネェ、英語の詞はだめだね。とってもいい、日本語の詞をつけてやるんだね。そうすれば、チューリップみたいになるよ、きっと。ウン、売れるネ」

(出典元 同上)

この年の6月に同じ東芝音工から「魔法の黄色い靴」でレコードデビューを果たした、チューリップを引き合いにして勝手に話を進めるディレクターの話を遮り、タケカワは「なぜ英語のままでは駄目なんですか?」と質問する。ディレクターの返答は、シンプルに「売れないからさ」だった。

「売れないんだよ英語じゃ。まず、ぜったい無理だね」
「でも、誰もやってないでしょう?」
「やってなくても、売れないものは売れないんだよ」
「でも、やってみなくちゃ、わかんないでしょう?」
「あのネ、レコードは、実験で作るわけにいかないんだヨ」

(出典元 同上)

食い下がるタケカワに対して、ディレクターの苛立ちは隠せなくなってきた。

「じゃあ、教えてください。シングル盤一枚で、何枚売れたら、元が取れるんですか?」
「何だって?」
「5千枚ぐらいですか? 1万枚ぐらいですか?」
「うん、まあ、そんなところだろう」
「じゃあ、その分の予約を、僕が集めて来たら、レコード一枚、作らせてもらえますか?」

(出典元 同上)

そんな反論をしながら、タケカワは5千枚の予約を取るために日本中を走り回る自分自身の姿を頭の中で想像していたという。しかし、現実に目の前にいるディレクターの反応は違った。

「なっ、なっ、何を言ってるんだ、君は。もう、話にならないな!」

(出典元 同上)

ディレクターは完全に怒り心頭。捨て台詞を吐いて、タケカワとの面談を一方的に打ち切ってしまった。

東芝音工とは交渉決裂になったものの、他のレコード会社にも当たってみる、と大久保は各社の制作ディレクターにアプローチを続けた。タケカワもさすがに東芝のディレクターを決定的に怒らせてしまった、予約枚数の話はやめようと心掛けたが、結局は東芝と同じように「英語詞の曲じゃレコードは作れない」と言われてしまい口論へと発展。都内の大手レコード会社6社すべてが交渉決裂と言う形で終わってしまう。

ここまで続くと、タケカワも自分の楽曲に対する自信が揺らいでしまい、英語の曲なんかもうやめてしまおう、とまで思い詰めたという。

「ぼくがいちばん信じられなかったのは、『いい』というくせに、そのままの形でやりたがらないんだなぁ。ものすごく変だなあ。そういう人だと、一対一でやっていくにしても、とてもやっていける自信なくなるんだよね。」

『ゴダイゴ 永遠のオデュッセイア』P.53 ゴダイゴ、ジョニー野村、奈良橋陽子著/1980 徳間書店



※本文中に登場する人物は、すべて敬称略にて表記しております。ご了承ください
※無断転載禁止

前後のエピソードはコチラから!