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イチイチニーゴー(お祝い編)

友の結婚式によせて

私は女性としては欠落した部分があるようで、いわゆる記念日や人の
誕生日をどうしても覚えられない。長年の友人の誕生日ですら、
なんとか、何月かまでは覚えていても、何日かまでは無理。
ほら、よく「お付き合いして◯周年!」とか、「◯月◯日が誕生日だった
よね?」みたいに確認してはプレゼントを贈り合うということがある
でしょう。そういう情緒(いや記憶力?)が完全に欠如しているのである。そう言ったことを覚えていて尚且つ何かをくれる、という人を心底すごい
と思うし、尊敬する。

それでも、2018年11月25日はたぶん、一生忘れないだろう。

彼女は中学の時の同級生で、随分長いこと連絡も取っていなければ
会ってもいなかったのだが、東日本大震災の数週間前に開かれた同窓会で
たまたま再会した。それがきっかけで、最近はたまに一緒にご飯を食べたり延々と都内を歩き回りつつあれやこれやを話し倒すという謎な散歩をする。

そんな彼女が急遽、結婚式を挙げると連絡してきたのは去年の10月の事だ。
正確に言うと、入籍自体はすでに前年に済ませていて、旦那さんとの新生活
もとっくにスタートさせていたのだが、種々の事情とタイミングが
合わさって式を挙げる運びとなったのである。

旦那さんは、麻布十番にある、教会に併設された結婚式場で活躍する
パティシエさんで、新郎新婦の思い出をヒアリングして、それを
ウェディングケーキに昇華させ、たくさんの披露宴に華を添えてきた方だ。
彼女との馴れ初めやらそういったことは今回はメインテーマでないので
勝手に割愛。

イチイチニーゴー(おもしろ編)で書いたように、新郎は他人の式の準備
と並行して、自分たちのウェディングケーキ+デザート+引き菓子の全てを
自分で準備することを決め、何日も家に帰らず根性とセンスとテクニックと
何度も言うが、我が友人への愛(そして参列する人々への想い)で当日を
迎えたのだった。

結婚式、というものに対してなぜ私は苦手意識があるのか、と考えてみると
出席する昔からの本当に近しい人々はどこか置き去りで、職場の人だったり
直近の知り合いが最優先されてしまうというところに、どこか寂しさを
感じてしまうからなのだとわかった。でも今回、出席することを決めたのは
新郎のケーキのエピソードに加え、自らも仕事をしつつ多忙な日々を過ごす
我が友人(新婦)が、自分の時間と労力を注いで、参加してくれる人のこと
を一番に考えている姿をそばで度々目にしていたからだ。

カテドラルに現れた彼女は、準備の疲れも見せず、数メートル後ろに流れる
レースのベール越しに静かに微笑んでいた。緊張しながら待っている新郎、
そこに向かって少しずつ進んで行く、新婦と彼女のお父さん。それを両側
から見守る、彼と彼女の大切な人々。私は新婦の入場1分で既に泣いていたが、別の列からも涙をこらえる音が度々聞こえてきていた。

新婦の幼馴染(私の中学の同級生でもある)の女性もご両親と旦那さん、
まだ小さい男の子と列席していた。普段と違う気配を敏感に察知して
しまったのか、その子が賛美歌の途中で泣き出してしまい、お父さんが
慌てて中央の扉を開けて外に出て行ってしまった。でもそれすらも
「泣いちゃって困ったね」なんてそぶりをする人は一人もいなかった。
「そっかー、こういう雰囲気、怖いよな。わかるわかる」と思ったし、
こういうことも含めての結婚式だよね、と妙に和やかな気持ちになった。

式の間、私は一番後ろの列にいたのだが、それぞれのご親族やご友人が
この場にただ単に「参加」しているわけではないな、と感じた。
目には見えないけれども列席している全ての人たちの暖かい視線と感情が、前方の二人の背中をそうっと支えているように思ったのだ。呼ばれちゃったので儀礼的に参加しました〜というような感情はその場には一切なかった。
「私たちが二人の結婚を見届けます」という静かで純粋な後押しだけが
そこにはあった。

披露宴では、新郎友人の余興やバイオリン+ピアノの演奏、新郎のお父さん
のオンステージ(!)、新郎の職場の同僚からの「◯ロフェッショナル」
を模したシークレット映像の公開、もちろん新婦からの手紙の朗読も
あったのだが、私が苦手に感じる結婚式にはつきものの「作為的演出」は
一切排除されていたように思う。全てが一生懸命で、(いい意味で)洗練
されすぎておらず、そこに参加した全員が、生まれたての卵を両手で
割れないように慈しみ、温め、終わりまでを一緒に見守ろうとする想いに
包まれていた。

そして、披露宴会場を見渡して、「結婚式って、なんだか系統樹みたい
だなぁ」
と思った。新郎・新婦の生まれた時(ご両親)→それぞれの
成長に伴うご友人の変遷→親戚や職場の同僚・上司など彼らを支え、共に
生きていく人々が周囲にいて→当日の新郎・新婦(一番中央の席)へと
続いているのだ。枝分かれして、もう二度と会えないかもしれない人達も、
当日会場にはいないかもしれないけど、その日の二人をそこへ運んでくる
役割を陰ながらひっそりと担っている。

新婦の後日談によると、新郎は最後の最後、出席者への挨拶のところまで
ずっと緊張なさっていたらしいが、その挨拶は特に忘れがたいものだった。

「まだパティシエとしての修行を始めたばかりの頃、自分の師匠に言われた
言葉があります。『自分が相手のことを思って気持ちを伝えようとしたら、
相手も同じように気持ちを返してくれる』と。それを聞いた時、そんなこと
あるわけない。そうしたら、この世から片思いはなくなる、と思いました。でも、今日の式を滞りなく終えることができたのは、
皆さんがこの場に、私たちを思う気持ちを持ち寄って下さったからだと。
だから今度は、自分たちがみなさんへ、この気持ちをお返ししていけるように頑張りたいです」

こんな結婚式なら、出席するのもいいなぁと心から思った。でもきっと、
これを超える結婚式には、なかなか出会えないだろう。

おめでとう。うつくしい結婚式に参加させてもらってありがとう。
どうか、穏やかで温かくずっと幸せに。

もしサポート頂けたら、ユニークな人々と出会うべくあちこち出歩きます。そうしてまたnoteでご紹介します。