見出し画像

推し短歌⑥「アリとキリギリス」

螽斯羨む蟻に角砂糖あげたいけれど愛が邪魔する

あらいあい


童話「アリとキリギリス」では、遊び呆けていたキリギリスは最後凍死して死んでしまいます(諸説あり)。

ですが、現実の人間社会は真逆だったりします。


裕福な家に生まれた享楽人は、一生遊んで暮らすことができます。その片手間に遊びでクリエイター活動をして一発当てる人もいます。
真面目か不真面目かと言えば不真面目で、その意味では享楽人はキリギリスであると言えます。

一方、貧しい家に生まれた苦労人には、遊んでいる暇なんて一生ありません。学を積む余裕すらなく、義務教育を終えたら嫌でも働かなくてはなりません。
真面目か不真面目かと言えば真面目で、その意味では苦労人はアリであると言えます。

キリギリスの人生は安定していて、華やかです。
楽観的で一緒にいると楽しく、横を歩くのが誇らしい。豊かなトークと持ち前の財力であなたを喜ばせて、笑顔にしてくれます。

一方、アリの人生は不安定で、地味です。
根暗で一緒にいてもつまらないし、田舎臭くて横を歩くのが恥ずかしい。無論、あなたとまともなデートに行く財力も持っていませんし、話も面白くありません。

遊び呆けているのはキリギリスです。
コツコツ働いているのはアリです。

そして資本主義下の現代では、その構図は簡単にひっくり返ることはありません。
キリギリスの家に生まれれば一生キリギリスとしての一生を送ることができますが、アリの家に生まれれば一生アリとしての一生しか送ることはできません。

童話とは真逆なのが現代の人間社会なのです。


とはいえ、この世の中には、そんなにキリギリスはいません。圧倒的多数がアリで、少数の上流階級がキリギリスです。

となってくると、どのような現象が起こるか。
無論キリギリスの元には沢山のアリが寄ってきますが、文字通り食われて終わりなこともしばしば。
一方貧しいアリ同士は親近感を持ち、身の丈にあった幸せでお互い満足して、中にはつがいとなり人生を最期まで共にするものも少なくはありません。

では、ここで私の話を一つ…。


私はアリタイプの人間です。

それ故に、地を這いお日様の下で汗水流して働く本物のアリたちの姿に心惹かれてしまいます。中には憎悪に近い羨望をキリギリスに対して抱いてしまう青年アリもいるのでしょうが、そういうのが一番かわいい。

「あいつらキリギリスはいくらでも好きなように遊べるし夢も叶えられるのに、俺みたいなアリは夢を諦めてやりたくもない仕事をして、一生退屈な人生を生きていくんだ。
人生間違ってら。
真面目にやってるやつばっかり馬鹿を見て、遊び呆けてるやつらはいつまでも遊び呆けていられる。
富さえあれば、俺に富さえあれば…
富さえあれば女だって夢だって手に入る。立派な家も持てるしお袋や親父にもいい思いをさせてやれる…
ああ…富さえあればなあ…
キリギリスみたいに富さえ、富さえあれば俺だって…」

と一人キリギリスを羨ましく思い、エノコログサの根を、歯でギリギリと噛む根暗な青年アリの可愛さといったら。

愛しいという感情しかありません。
つい抱きしめたくなります。
ちょっかいを出したくなります。
よちよちしてほっぺをプニプニしてやりたくなります。
たかが砂糖で彼の身が救われるのであるなら、いくらでもあげたくなってしまいます。


ですが、なりません。

それは決して「愛」ではないからです。

「愛するのと甘やかすのは違います!」

かの阿久津真矢先生も、女王の教室エピソード2でそうおっしゃいました。

砂糖をやるのは簡単です。砂糖なんて108円あればダイソーで270グラムも買えます。
明日のご飯さえも確約されていない青年アリにとっては、一生をかけても使いきれないほどの富でしょう。

しかし、それが本当に彼のためになるでしょうか。
それが本当に愛と言えるでしょうか。

彼がしっかりと生業を身につけ、よく考え努力を重ね、自らの理想の実現に向けて日々精進していく。それこそが彼にとっての成長であり、成功であり、幸福なのではないでしょうか。
そしてそれを育てるために、あえて富を与えない。それが、真実の愛の形なのではないでしょうか。

飢えは人の心を蝕みます。
けれど、満たされた生活も、時に人を駄目にします。
寝ているだけで富が降ってくるのですから、アリは考えるということをしなくなります。富でよそ様の頬を引っ叩いて何でも手に入れようとすればするほど、心はぱさぱさに乾いていきます。花を見て美しいと感じる心も、友人の死を悲しいと感じる心も、そして自らが生きているという実感さえも、いずれなくなってしまいます。

そんな中で砂糖に溺れて生きていく青年アリは、果たして幸せを掴むことができるでしょうか。

そんなはずがありません。

270グラムどころか、角砂糖の1つも与えてはなりません。幸せとは他者から与えられるものではなく、自らの手で、足で掴みに行くものです。
それ故に、アリは、人は美しいのです。

アリはキリギリスにはなれません。
でも、キリギリスだってアリにはなれません。
アリがアリであってほしいから、今日も私は角砂糖をしまうのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?