水本ゆかりちゃんの歩幅
夜になって、そろそろ寝ようと思ってベッドに入ったものの、ゆかりは緊張でなかなか寝付けなかった。明日はいままで経験したことのない、とても大きな会場で自分が歌うのだ。歌詞やダンスを間違えないだろうか、お客さんはいっぱい来てくれるかな、などと考えるほどに緊張感が増していく。
けれども完璧な歌とダンスを披露できれば、アイドルとしてのゆかりの評価はかなり上昇するだろう。そこを期待する気持ちもあった。なんにせよ本番を迎えるしかなかった。
そして翌日、ゆかりはライブ会場の控え室にいた。緊張した気分は途切れることなくゆかりにプレッシャーを与えている。もうすぐ開演だった。
そこでそばにいたプロデューサーがゆかりに声をかけてきた。
「緊張しているか、ゆかり?」
「ええ、とても……」
ゆかりはそれぐらいの言葉しか出せなかった。
「練習の成果を出せれば、上手くいくよ。こういうときのためにがんばってきたんだろう。ゆかりには力がある。あとは本番でぶちかますだけだ」
いままでたくさんレッスンをこなしてきたし、中堅クラスのアイドルとしていろいろな仕事をしてきた。その中で得られた力を発揮できれば、きっと大丈夫なのだろう。ゆかりはそう思って頷いた。
「私の全力でやればいいんですね」
「お客さん、メチャクチャいっぱい来てるぞ。みんなゆかりに会うのが楽しみなんだ」
「私も、楽しい気分でやってみます。とても緊張していますが」
そして開演の時間が訪れた。
スケジュールに空きはほとんどない。ゆかりは宣材写真の撮影に行き、握手会とサイン会に顔を出し、テレビ番組にも出演した。レッスンやライブで歌ったり踊ったりと、忙しくアイドル活動に励んでいた。時は経ちゆかりはそれだけ実力と人気のあるアイドルになっていた。
予定が詰まっているのは大変だったが苦痛ではなかった。アイドルとしてのゆかりの技術は向上している。歌唱力もダンスの表現力も、お芝居の演技力も。だからスケジュールが埋まる。
しかし、寝る前やプロダクションに向かう電車に乗るとき、ふと不安な気持ちを感じることが増えてきていた。自分は成功したアイドルだが、いつまでも変わらず人気アイドルとしての道を進んでいけるのだろうか、とゆかりの心はちょっと暗くなるのだった。与えられた課題をクリアする喜びと、もしクリアできず失敗したらどうなるんだろうという恐れが同時にゆかりの中で動き始めていた。
やがて、重大ではないがミスをしてしまうことが少し増えてきた。ドラマの収録でセリフを間違えたり、レコーディングの最中、歌に感情がこもっていないよと注意されたりした。「普段ミスしないゆかりちゃんでも上手くいかないときがあるんだね。でも、もうちょい気をつけてくれれば面倒なことはなかったよ」と仕事場のスタッフから言われることもあった。言葉として投げられてしまうと、ゆかりはとてもまずいことをしてしまったと認識してしまうのだった。
ある晴れた日のこと、ゆかりはプロダクションの近くにある公園のベンチに座っていた。なんの予定も入っていない日だった。こういう自由な時間が得られたのは久しぶりだ。ゆかりはただ座って美しい青空を見上げていた。
誰かの足音が聞こえたので、そちらに目を向けるとゆかりのプロデューサーがいた。「よう」と言いながらプロデューサーは歩み寄ってきて、ゆかりと少し距離を置いてベンチに腰掛けた。
「プロデューサーさん、どうしてここへ?」
「ずっと執務スペースにこもって仕事をしていると、気づかないうちにストレスが溜まる。閉鎖された環境にいるからな。こうやって外に出て空気を吸うとストレス解消になる。だからここに来たんだ。ゆかりはなんでここにいるんだ」
「暇ができたので、少し休もうかと思いまして……最近は忙しいですし」
「ああ、ここのところ、ずっとがんばってるからな、ゆかりは」
プロデューサーも空を見上げて言った。ゆかりは視線を落として答える。
「がんばらなければ、お仕事を続けられませんから……」
「いやー、がんばらずに仕事をこなしていくというルートもなくはないよ」
プロデューサーはそんなことを言った。ゆかりはプロデューサのほうを見た。プロデューサーは空を飛んでいるカラスを目で追いながら言った。
「そこそこ練習して、そこそこ仕事をして、名声と金をいくらか稼いでトップには立てずとも、常に中の上クラスにいるアイドルでいることもできなくはない。でもそっちのほうが難しいと思うが」
「トップに立たないほうが、難しいんですか?」
ゆかりの疑問にプロデューサーは答えた。
「そこそこがんばるということは、全力を尽くさないのと同じだろう。わざわざ常に七割くらいの力を出し続けようと注意してやっていくなんて逆に面倒だよ。難しくて損しかしない」
意図的に手を抜いて仕事をすればそれに見合ったリターンが来る。それで満足することもできるが、いつもあえて加減した力を狙って出していくのは確かにいらない手間がかかりすぎる。プロデューサーの言いたいことはそうしたことだろう。だったら、全力で仕事をしないことにメリットはほとんどない。ゆかりは言った。
「がんばらないルートを通っても仕事はできますが、それはそれで大変なことなんですね……けれど、がんばった結果、失敗してしまうのも大変だと思いますが」
それがゆかりの恐れていることだった。がんばって駄目だったら、がんばってきたことに傷がつくのか。どうしたらその傷をリカバリーできるか。プロデューサーはゆかりの言いたいことを察したように、穏やかな調子で言った。
「ゆかりに空を飛んだり、テレポートする能力は備わっていないだろう。二本の足で歩いている。アイドル活動も同じことだ。一歩ずつ進んでいくしかない。失敗が増えてしまいそうな難しい道のりでも」
目の前の一歩を積み重ねること、それを継続することが「がんばる」ことなのだろうし、ほんの一歩でも進んでさえいればそれでオーケーなのだろう。
ゆかりは言った。
「では、どこからどこまでが、一歩なのでしょうか。どうしたら、一歩踏み出せたと、私は感じるのでしょうか」
「リズムを知って、それに乗ることだと思う」
プロデューサーはゆかりのほうを見てつぶやいた。ゆかりは聞き返す。
「リズム?」
「リズムよく行動できれば調子は良くなるしリズムから外れれば失敗に近づく。一歩進めたときというのはリズムに合ったなにかができたときなんだ。仕事においてなにが要求されているかを理解すれば、リズムは掴みやすいだろう。質が問題なのか、量が問題なのか。シリアスな仕事なのか、笑いをとっていく必要があるのか。納期は短いのか長いのか。報酬はどれぐらいなのか。それを考慮してリズムを察知する感覚を、ゆかりはすでに持っている。いろんな仕事をしてきたからな」
リズムを身体で覚え、そのリズムと行動がマッチすれば、ゆかりは一歩前に出られる。リズムを間違えたら、もう一度繰り返して正しいリズムを探していけばいい。ゆかりが困難に立ち向かう歩みはそこから生まれる。仕事を連続した譜面のように見て、始まりから終わりまでのリズムを感じることができれば、きっと上手くいく。ゆかりはそう思って言った。
「それならば、私もがんばります」
ゆかりは立ち上がった。足を踏み出すことを継続し、そしてリズムを測って仕事をやり遂げることをまず試してみよう。
それからのゆかりは、少しでも前進することを心がけて仕事に取り組んだ。失敗したらどうしよう、と不安になっても前に進むためのリズムを読もうとした。よく観察すれば、仕事のリズムを掴み取るのは難しいことではなかった。周囲の流れから自分の為すべきことを割り出して積極的に動く。それはリズムという指針が在るからできる思考だった。ゆかりはそんなふうにアイドル活動を進めていった。
やがてゆかりのライブをやる、という企画が持ち上がった。会場の規模はゆかりの人気にふさわしいものだった。打ち合わせの席でプロデューサーが言った。
「どの曲を歌いたいか、リストにして提出してくれ」
「私が歌いたい曲を選ぶのですか」
「ゆかりの好きな曲を歌うという企画なんだ」
するとゆかりはネガティブな連想をした。
「つまり私の選んだ曲がお客さんにウケなかったら、私の選択が間違っていたことになると?」
「そういう考え方もあるだろうが、いまのゆかりはライブの一部を本人に任せてよいと判断されている。それだけレベルが上がっているんだよ」
もうゆかりの力は相当高まっているらしい。がんばってレベルが上がったのだし、ここもまた、がんばりが必要な機会だった。
「……わかりました。やってみます」
打ち合わせのあと、ゆかりは自分が歌ってきた曲をすべてリストアップし、どれを歌うか考え始めた。商業的に好成績を残せた曲や、通好みと評された曲もあった。
曲の一覧を見ているうちに、これが自分の足跡なんだとゆかりは気づいた。自分がその時々のリズムに乗って一歩ずつ進んできたあとに作られた足跡だ。そして同じ形の足跡はなかった。曲によって、大きさも色も歩幅も踏みしめる強さも様々だった。
この中で、どれを選んでいくのがいいだろうかと思うと、ふとひとつのタイトルに目が向いた。CD未収録の曲だった。ほかにもお蔵入りした曲はいくつかある。多くの人に見せていないけれど、ゆかりが作った足跡。がんばって作り上げたけれどみんなの目に映らなかった一歩。これらの曲を歌ってみたらどうだろう。ゆかりはそう思った。いま、自分を中心にリズムを作り出して、自ら一歩進んでみよう。
ライブのあと、プロデューサーはゆかりに言った。
「まさかCDに収録していない曲とか没になったやつばっかり歌うとはなあ。ゆかりも大胆なことをする」
ゆかりは満足した気分だった。仕事をやりきった感覚。
「でもライブは成功したんじゃないでしょうか?」
「成功だよ。あの熱気は。お客さんもいい意味でびっくりして、インパクトを感じていた。ゆかりもすごい輝いていたよ」
笑顔になってゆかりは言った。
「ありがとうございます。けれど私はもっとがんばって、立派なアイドルになりたいと思うんです。プロデューサーさん、これからもよろしくお願いします」
「そうだな。ゆかりのゴールはもっと先にあると思う。そこに辿り着けるかどうかはわからんが、俺もゆかりがどこまで行けるか楽しみだ」
いつかゆかりがこれ以上がんばれなくなったとき、がんばる必要がなくなったときに後ろを振り返ったら、大地に刻まれた足跡がたくさんあってほしい。それが一生懸命がんばった証明だし、充実したアイドル活動ができた証だ。
いまのところは少しでも前に行きたい。だから、喜びを感じても傷を負ってもリズムに乗って足を動かし続けよう、ゆかりはそう思った。
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