見出し画像

鷺沢文香さんの飛翔

 これを自分が背負うのか――文香は目の前の大きな白い翼を眺めて言った。
「まさに鳥の翼ですね」
「そこは天使の翼じゃないですか? こいつを鷺沢さんの背中に装着して、今度のミュージックビデオを作るんです」
 プロデューサーはそう答えた。文香の背中に翼をくっつけてミュージックビデオを制作するというプロジェクトが始動したといまさっき伝えられたのだった。で、いま文香とプロデューサーの前にあるその翼は金属でできていて、内部に組み込まれたアクチュエータで羽ばたくようにゆっくりと動く構造になっている。
 文香は専用の台の上にセットされた翼に触って言った。
「固く、冷たいですね。機械仕掛けの翼か……」
「さっそく装着してみましょう」
 そう言ってプロデューサーは台から翼を取り外した。ふたりは会議室からレッスンスタジオに移動し、スタジオの中で文香は翼を身につけた。途端に文香の顔が歪む。
「これは、重いですね……」
「なるべく軽い材料で作ったものだと聞いています。軽量化するよう努力した、と」
 とプロデューサーは応えた。文香の背中にくっついた翼は想像よりもだいぶ重たかった。文香はもともと体力のあるほうではないから余計に重さがきつく感じられるのかもしれない。しかし鏡に映った姿を見るとなるほど天使を連想させるものがあると文香は思う。
「美しいシルエットですね。やっぱり鷺沢さんは天使だ。エンジェルだ」
 うれしそうにハイテンションでプロデューサーは言った。文香はプルプル震えながら軽く身体を動かしてみる。ミュージックビデオでは激しく踊るパートはないということだった。翼を身につけた文香が空を見上げたり、砂浜をゆったり歩くシーンが主になるそうだ。
 そして少し動いてみた結果、文香はかなりのしんどさを感じた。翼の重量で姿勢が崩れてしまう。よろめいて転びそうになったり、動きがぎこちなくなってしまった。ビデオが身体をあまり動かさない内容であっても優雅に美しく振る舞うことが求められるだろうから、この点は克服しなければならない。
「プロデューサーさん、私、もうちょっとフィジカルパワーを鍛えなければならないようです」
「はい。まだビデオの納期は先ですから、焦らず翼に慣れていきましょう」
 問題ない、と文香を元気づけるようにプロデューサーは言った。そして文香は不思議に思う。
「このような立派な翼を用意していただけるほど、ビデオに予算が投じられているのでしょうか?」
「鷺沢さんに対してのプロダクションの期待は高まっていますよ。ミュージックビデオを作ることでより多くの人気を集められる、そういうアイドルなんです、あなたは」
 ならその期待に応えなければ申し訳ないなと文香は心の中でつぶやき、翼の重みを苦しく感じた。

 翼を背負って、文香は歩いたり、しゃがみ込んだ状態からすっくと立ち上がったり、背筋を伸ばして空を見上げる練習をした。期待を裏切らないようにたくさん努力したのだが、なかなかばっちり決まった動作ができない。重量も気になるが翼の生えた人間としてどう動けば栄える映像が撮れるのかよく分からなかった。
 それでも納期は徐々に近づいてくる。期待がかかっているぶん失敗したくない、絶対成功させたい、とも思うと同時に良い結果を出せなかったらどうしようとも感じる。翼だけでなく期待もまた重かった。
 弱気になるなと自身を叱咤して文香はひたすらレッスンスタジオで努力した。そしてたくさん神話や詩、古典を読み、いろいろな音楽を聞いて、ファンタジックな絵画も観て、時間をかけてだんだんと翼ある人型の生き物にふさわしい動きが見えてきた。これなら期待通りの動きができるように思えてきたが、まだ十分ではないと文香は思い、努力を重ねた。しんどい日々ではあったけれども自分のミュージックビデオを作ってくれるというプロダクションを後悔させたくなかった。
 ある日、翼をつけた文香はスタジオでの練習を終えて、そこそこ動きがよくなってきたと思って背負った翼を外した。そのとき、つい手が滑って翼を床に落としてしまった。盛大な音をたてて床に叩きつけられた翼を慌てて見やると、いくつかの部分が折れていた。どうしよう、壊してしまったと思った文香は急いでプロデューサーに連絡した。
 プロデューサーはすぐにスタジオに駆けつけてくれた。翼を点検したあと、プロデューサーは文香に言った。
「この損傷では、翼を作成した工場で修理してもらったほうがよさそうですね」
「すいません、私の不注意のせいで……」
「大丈夫ですよ。修理すればまた使えます」
 落ち着いた様子でプロデューサーは翼を作ったという工場に電話をかけた。やりとりのあと、電話を切って文香に言った。
「四日後に翼を工場へ持っていきます。そこで修復します」
「あの、私も行きます。壊してしまった本人ですから私が謝らないと」
「わかりました。一緒に行きましょう」
 文香は壊れてしまった翼を見る。直らなかったら自らの手で期待をも壊してしまったことになる。そうならないことを祈った。

 四日後、文香とプロデューサーは車に乗って工場へ向かっていた。プロデューサーは車の運転がうまい。軽快な動きで車は道路を進んでいく。文香は男性としては小柄なプロデューサーに言ってみた。
「プロデューサーさんは、車を運転する技術に長けているのですね」
「そうですね」
 とプロデューサーは前方を見たまま返事をし、言葉を続けた。
「私は昔から車が好きでした。そして自分でこの乗り物を運転したい! とすっと思っていたんです。だから自動車の運転免許が取れる年齢になったら教習所に直行しましたよ。そこでビシバシ練習して免許をゲットしました」
「車のどこにそれほどの魅力を感じますか?」
 文香の質問に、プロデューサーは少し間を置いて言った。
「そうですね……こちらの意図通りに挙動するからかな」
「と言いますと?」
「運転席でハンドルを切れば車は曲がりますしアクセルを踏み込めば前進する。私の操作を受け取って車は走行します。操作が意図したとおりに反映されるから、こいつは気持ちのいい乗り物だと思うんです」
「それはようするに、車がこう動くだろうと期待して運転しているということですか?」
 そう文香が聞くと、プロデューサーは苦笑いした。
「確かに期待しているといえばそうなんでしょうね。自分の思うとおりに動いてくれと、期待している。でもそれが裏切られることもときにはある。そういうときは車が嫌になったりします」
「車のようなマシンが期待を裏切ることがあるんでしょうか」
「走っているあいだに故障する確率はゼロではありませんし、こちらの運転に対して車がすぐに反応しないときもありますよ。そういうときはイラッとくる。車だってミスをします。人間もそうだけど」
 文香は黙ってその言葉を聞いた。期待をすることとそれが裏切られることはいろいろなところで発生するようだ。文香自身がいるところはどうだろう。なるべく期待通りの結果を出せる人間でいたい。だから翼を使いこなす力が必要なのだと思う。
「工場はここだそうです」
 そう言ってプロデューサーは小さな建物が並んだ工場に車で入っていった。駐車スペースに車を止めて外に出る。文香は辺りを見回した。もっと大規模なところだと思っていたが、中小企業の町工場、という感じの工場だった。静かだし、人の気配もあまりない。文香はプロデューサーと一緒に翼を持って工場の事務所に行った。
 中に入ると工場のリーダーが出迎えてくれた。
「鷺沢さん、プロデューサーさん、ウチの工場へようこそ。この度は粗悪品を渡してしまい申し訳ありませんでした。落としただけで壊れるなんて恥ずかしい翼を作ってしまった」
 そう言われて文香のほうも申し訳ない気分になった。頭を下げて文香は言う。
「いえ、私の不注意で壊してしまったんです。すいません」
「完璧な形に直します。なるべく早く修理したものをお届けしますね」
 その話を聞きつつプロデューサーはあたりを見回した。
「静かな工場なんですね。製造ラインがあまり動いていない。工作している音も聞こえない」
「ああ、ウチは自衛隊の装備を主に作っているところなんです。けれど特殊車両の製造なんて数えるほどしかない。だから工場の稼働率は低いんです」
 プロデューサーは好奇心を刺激されたらしくさらに質問した。
「おおう、自衛隊の装備を作っているとは……稼働率が低くても経営は大丈夫なんですか?」
 リーダーは硬い表情で答えた。
「かなり苦しいですよ。防衛のための兵器を生産するのには一〇〇〇社以上の企業が関わっています。その中には多くの中小企業が含まれているんです。我々のような、いわゆる町工場ですね。しかし防衛装備品の調達数量は減っている。それでは商売にならない。そこに降ってきた発注が鷺沢さんの翼です。これは我々にとってのボーナスでした。だから気合いを入れて制作したのですが……」
 文香はまた頭を下げた。
「すみません」
「いえ、我々もあなたたちの期待を裏切ってしまったんです。なんとしても、完全に修理したものをお渡しします」
 その一言から、この工場の人々も期待に応えようと思っていたのだと文香は理解した。翼を得た文香も周囲からの期待を満たすために努力したし、工場側も二度と期待を裏切るまいと努力する姿勢を見せている。いろいろなところに期待があって、それを達成するために自分も他人もががんばっている。期待は個人の中になくふたつのもののあいだにあるんだなと文香は思った。
 では期待に応えるということは自己と他者のあいだにある期待を、双方が満たすことだろう。互いにワルツを踊るようなものだ。文香が踊れば、相手も文香に合わせて踊る。ふたりともが踊って、結果としてワルツが成り立つ。期待はふたりがかりで形にしていくんじゃないかなと文香は考えた。
 なら己もベストを尽くそう、と文香は決意した。翼を背負う自分も辛いが工場の経営もしんどい。その中で自分ができることといえば最高の性能を発揮してミュージックビデオを完成させることだ。工場に勤める、翼の制作陣が見ても美しいと思えるビデオにしよう。

「鷺沢さん、ミュージックビデオ、評判いいですよ」
 文香は事務所でプロデューサーからビデオの評価を聞いていた。プロデューサーの持つタブレット端末には賞賛の声が並んでいる。SNSで文香のミュージックビデオの評判や感想について検索した結果だった。文香はそれを目でなぞる。
「私が天使に見える、という文言がたくさんありますね」
「最高の賛辞じゃないですか。翼ある鷺沢文香、イイですよこれは!」
 文香は言った。
「プロデューサーさん、私は、期待に応えられたでしょうか?」
「見事に期待を上回る成果を出してくれましたよ。今後もいろいろな仕事が回ってくると思います。それをこなすためにもレベルアップが必要でしょう。体力面も、ヴィジュアル面も、歌唱力のレベルも。一緒にがんばりましょう!」
「わかりました。一所懸命に働きます」
 レベルが上がれば期待される内容も高度になるだろう。しかし、文香は期待がどこにあるかを覚えた。それが重たかったけれども天使のように美しい翼を授かった文香が学んだことだった。もっと力強く羽ばたいて、より大きな世界を見ていきたい。きっとできるはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?