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有楽町に岡本太郎 "若い時計台"

2024年能登半島の大地震に羽田空港の事故というショッキングなはじまりにしばらく何も書けずにおりました。被災された皆さまに何を言ってもつらいことだと思います。つらい事実を少しでも癒していただけますよう。お祈り申し上げます。

今日は銀座のライカにゾフォート2の液晶画面のヒビを見てもらいに行ってきました。

ふと、有楽町の東急プラザの北側出口を出た向かいに、「あれ?岡本太郎の太陽の塔みたいなのがある」

「若い時計台」というそうで、大阪万博より前の1968年に建てられたものでかつ顔の部分が時計になっています。

奥には、かの有名な泰明小学校の校舎が見てとれます。

実は、昔々、40年以上前に時より目にしていた記憶が蘇りました。

晴海通りを走るバスの停留所を降りる時に目にしていた記憶が蘇りました。

当時、排気ガスもかなり濃かった頃、朝日の中で見た記憶では雨風に打たれてまるで黒い涙を流しているような薄汚れた感がある塔でしたが、今は夜の照明もリニューアルしたのでしょうとてもキレイに見えました。

ちょうど、まだ昔の日劇があり、朝学校へ行く前に日劇の建物を眺めることを楽しみにしていた記憶も蘇ってきました。

色々な理由があって取り壊さざるを得なかったのだとは思いますが、昔の日劇の建物は残していて欲しかったです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/日本劇場

特に取り壊し期間に見た眺めは、まるでコロッセオか、はたまたバベルの塔のように悲しげに見えました。

そういえば、ルパン三世カリオストロの城は日劇で見たんじゃなかったか、それとも向かい側にもあった映画館だったのか記憶があいまいになっています。

銀座三越の地下食料品売り場はあまりの人の多さに人あたりをしてふらふらと銀座四丁目交差点に出ると、晴海通りで信号待ちするクルマがオモチャのミニカーに感じる程、人の波と、なぜか能登地震の募金をわめく政党に占拠された銀座の歩行者天国のものすごい人に囲まれ、さらに人あたりでクラクラするのでした。

小学生の頃は銀座の近くに住んでいたので学校帰りに銀座の街を「俺の街だ」という気持ちで歩き回っていました。とんでも勘違いな少年時代を過ごしていました。無知って、ある意味素晴らしいと思うのです。

GINZA SIXの前にはいくつもの椅子が置かれていました。ちょうど空いていた一席に座って、と思う端から他の人に座られてしまいましたが、ようやく一番端の席に座ることが出来て、しばらく休み、自分を取り戻しはじめると同時に周りの人が見えはじめました。

日本人よりも、ベトナムやインドネシア、タイのアジア圏からの旅行者が目立っていました。なぜか中国、韓国の人は少なく、きっと銀座は卒業して草津温泉とかの地方や北海道の先とかに行かれているのかもしれません。

様々な国からの旅行者で賑わっている銀座に、少年時代に感じていた「俺の街」感の時代はとっく変わり、世界中の人たちの街に変わっていることを思い知らされました。いや、そもそも「俺の街」が勘違いなんですが。

1971年の夏、日本に初めて出来たマクドナルドは銀座三越の1階銀座通り沿いにカウンターが並んでいました。

マクドナルドのハンバーガーが80円だった時ありませんでしたか?晴海通りの三原橋の側へ移転したり、

デイリークィーンのソフトクリームが食べられなくなったり、

吸っても上がってこないマクドナルドのシェーキが180円した一方で、銀座松屋と伊東屋の間の道にあったロッテリアの水っぽい氷のシャリシャリ感があるけど100円で飲めたので好きだったそんな時代がありました。

サーティワンアイスクリームのモアモアパンチとアイスで作ったシェークみたいな飲みものを飲むと口の中が着色料で紫色になったけど好きだった。
あの頃は全て体に悪いものが憧れでした。

普段、日本人ばかりの田舎に居るのでなんだか不思議な気持ちに包まれました。

不思議な気持ちと言えば、西銀座駐車場にクルマを止めたところ、右はベントレー、左はアストンマーチン、向かい側はロールスロイス。ポルシェは普通で、BMWの5シリーズは地味な普通車に見えました。

V12に乗っていないと人ではないみたいなかつての排気量ヒエラルキーがいまだ健在なのか?

私の古いクルマは肩身が狭いを通り越して、もはや、その他扱いみたいなもので車幅も押し出しもないのでとても小さく申し訳なく見えました。

それでも同じ駐車料金を支払っているんですね。これまた不思議な感覚でした。

すごいのが、西銀座駐車場のプリペイドカードです。2万円のカードがあり、購入すると23,500円分だか使えるという。なかなかのお得感ですが、そんなにいつも止めない。やっぱり銀座のママさんのベントレー用なんですね。

そんなことを考えていたら、妙齢の迫力のある女性が右手のベントレーに乗り込み、颯爽と走り出して行きました。彼女にとっては今でも銀座は「俺の街」ならぬ「私の街」なんだなと思うのでした。

おしまい

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