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通信 R030722 「手の綺麗なひと」

 手が綺麗なひとだ、と思ったのは初めてふたりで話をした日曜日のことだった。1年前。

 「日曜、わざわざ仕事場に来て寝るなよ。」

 違うんです、ただ今は日差しが暖かくて思わずウトウトしてしまったんです、さっきまではちゃんと仕事を...という言葉をわたしは飲み込む。このひとの理路のたどり方は正確で、わたしのちぐはぐな言葉が入り込む余地はない。言い返したところで「大前提として、今日は勤務日じゃないよなあ。」と言われておしまいだろう。

 隙の一切無いスーツから伸びた白い手が、わたしの机にある書類をぱらり、とめくる。わたしはそれを机に突っ伏しながらちらりと横目で眺めた。

 その手は何かを手折るためだけにあるようで、いつもおそろしく、そして酷く綺麗だった。

 仕事は完璧。周りに求めるレベルも高い。こわいひと。隙がなくうつくしいものは苦手だ。自分の愚図愚図さを認識してしまうから。

 先輩だって、スーツじゃないですか。日曜日なのに。

 おそろしくて言えるわけがない。


✳︎


 「んなことあったか、覚えてねえわ。」

 焼肉をつつきながら話す。先輩の仄暗い眼が、焼き台から出てくるけむりに隠れた。今は何色だろう。

 先輩は、わたしとの会話を覚えてくれることはない。そのことが感じられる度にすこしチクッとして、すこし安心する。誰かの前で限りなく透明でいられるという事実は、「軸がないよね。」「どれが本当なの。」という刃からわたしを守る盾となった。

 わたしはこの先輩をどんどん好きになった(恋愛的な意味ではなく)。

 わたしと先輩のコミュニケーションは、側から見るとインタビュアーとそれに応える芸能人という構図だった。わたしが質問をして、先輩が答える。たまに知らねーよ、言わない、と言われて、それは「お前が考えろ」というメッセージだと解釈した。

 それをひたすらに繰り返し、色々な話をする。恋愛、仕事のことから、ドラマ、YouTube、東日本大震災、社長、コミュニケーション、挑戦、サプライズ、宮城県、物理化学、ハライチのターン。

 繰り返し言うようだが、先輩はその会話をなにも覚えていないのだ。それが、良かった(幾らかは覚えているかもしれない、若しくは覚えていないフリをしているだけかもしれない)。わたしだけが知っている、たくさんの言葉。

 先輩に言葉を発することは、深く広い海にちいさな石を投げ込むことと同じだった。わたしは石から広がったうつくしい波紋を見て心を揺さぶるが、海は石を呑み込むだけ。なんの影響もない。


✳︎


 ごちそうさまでした。すみません。

 次、奢って。

 え、次があるんですか。

 いや、やっぱいいわ。

 ...

 お前、難しいよ。

 、難しい、ですか。どうして。

 言わない。


 車のライトがハイビームになる度、ハンドルを握る先輩の手が、白く、ひかった。


✳︎


 愚図愚図なわたしから、手の綺麗なあなたへ。

 水漏綾


 


 

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