経験する機会
最近葬式が多く、色々と感じたことを書いておきたい。
ちと言いづらいことも、ここなら書けるので、読むことに躊躇される方は、飛ばした方が良いと思う。
近所には、昔から「住人講」という葬祭互助会がある。今のように葬祭会社が無かった頃設立された。今では、活用されず、解散した所も多い。が自分の所属する会は、今だに年次総会や活動をしている。勿論、ここ数年は葬祭ができた時には、講ではなく、葬祭会場へ依頼する施主が多い。
なぜ、今だに有るのかというと、近所とは言え付き合いが薄くなり、総会でもないと、顔を合わせ話をすることも無いからであり、それ自体は良いことだと思う。
が、出席するメンバーは60^80歳台ばかりで、それ以下は皆無である。つまり、自分は最年少グループなのである…ちょほほ。
自分が、講に入ったのは確か40台だから、帳場・六道等色々と経験した。が、それでも、実際に色々な役を経験するとやってみて初めてその大変さや大切さを知ることが出来る。
先日亡くなった方は86歳で最長齢だった。子供は62歳?くらいかな、これから住人講には、入らないだろう。つまり、そんなことは、知らない訳で、講に入る意味も意義も知らない訳だ。「葬儀なんて、葬儀会社へ任せれば良いんだよ」という声を良く聞く。
果たして、そうだろうか。自分でやらないことで、経験出来ないことが失われることもあるということ。確かに実際やれば、その人間関係の煩わしらも当然出てきて、嫌な思いもするだろう。でも、それが社会ではないか。
ふと、葬儀に参列し、黙祷しながら、そんなことを考えた。
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