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「同調圧力」について考えた


先日(2022年7月23日)、Ziba Platform主催のオンライン哲学カフェ「同調圧力を感じるのはどんなとき?」に参加しました。参加後にいろいろ考えたことをまとめます。

同調圧力を感じるのはどんなときか

まず「同調圧力」なるものをどういうときに感じるか、ですが、オンライン上でおよそ次のようなものが挙がりました(正確ではありません、すみません)。
1) コロナ禍でマスクをつけるとき
2) 喫煙する場所がないとき
3) 原動機付自転車(いわゆる原チャリ)で二段階右折しなくてはならないとき
1)はオンライン上で主催者が皆に尋ねたところ、何気に「同調圧力を感じる」人と「感じない」人に分かれました。「感じない」人はコロナ禍の前からつけていた人が多かったようです。
3)が何気に象徴的かなと思いました。というのは、ルールにせよ暗黙のルールにせよ、自分が苦痛だ(イヤだ)と思ったときに同調圧力を感じるのかなと思ったからです。
もっとも、はっきり「イヤだ」と思わなくても、「え、そうなの?別にいいけど」と思っても「これって同調圧力かな」と思うかもしれません。なので、「要求と同じ思いを持っている人以外が同調圧力を感じる」と、およそ言えるのではと思います。

どういう人が同調圧力をかけるのか

ところで「同調圧力をかける人」はどうでしょう。敵意や悪意をかけている自覚はあるのでしょうか。
オンライン上では、マスク着用について「自分が納得している人は他人に圧力をかけることなんてないんじゃないか」という意見がありました。なるほど、そうかもしれません。
そうだとすると、次の5グループに分けるとして、同調圧力をかける人はどのグループになるでしょう。
A:「当然だろう」
B:「ちょっと意外ではあるけれど、まあいいか」
C:「ちょっと嫌だけど、まあいいか」
D:「イヤだけど、仕方ない我慢する」
E:「イヤだから私は従わない」

同調圧力

私は、先の「同調圧力を感じる人」がB/C/D/Eなのに対し、「同調圧力をかける人」はA/Dになるんじゃないかと思いました。
特にDの人が熱心に「同調圧力をかける人」になるのではないでしょうか。コロナ禍初期に話題になった「自粛警察」なる人たちは「自分もイヤで我慢しているのに、未だ従わない人は許せない」と思い、嫌がらせを行ったように思います。
Aの人はどうでしょうか。初めは「圧力をかけない人だろう」と思っていましたが、本人が意識している/していないに関わらず、「当然だろう」と思っているからこそ「同調圧力をかける人」になっているのではないでしょうか。
それに対してEの人は、同調圧力をひどく感じてはいるけれど、(納得できずに?)要求に従わない人なので、「圧力をかける人」にはならないように思いました。D/Eとも「イヤだ」と感じているのに、同調圧力をかけるか否かで逆転するのは何となく不思議ですね。

もっとも、オンライン上では「(マスクに対して同調圧力を)感じていなかったけど、みんながマスクをつけだすと、つけていない人に対して「お前もマスクしろよ」と言いたくなる」という意見もありました。
これは、上の例に沿えば、Bの人がAに(あるいはCの人がDに)移ったのかもしれません。というのも、以前は「個々の意見と行動だから」と思っていたものが、社会の中で同調する人が増えたと感じることにより、「同調側」に立って結果「圧力をかける人」になったのではと思うためです。

同調圧力はどのように発生するか

ではこのような同調圧力はどのようにして発生するのでしょうか。
おそらく、3人以上の集団があるとき、その中のリーダーがある一定の価値観/価値基準を強い、それに対して違和感を抱いたら、めでたく「同調圧力」誕生、となるのではと思います。もっとも、集団の規模が小さかったり規範が緩かったりすることにより、上の例でいうEの人がやたら多くても問題がなければ、同調圧力は起こり得ないかと思いますが。
同調圧力を生み出すリーダーとは、権威のある人あるいは権力者、あるいはいわゆる「声の大きな人」であって、そういう人が同調圧力の方向を決定させるのではと思います。

ではリーダーが不在の場合はめでたく同調圧力から解放されるのか。いや、リーダーがいなければ代わりに「多数意見」が台頭するかと思います。特定個人ではないため、この方が厄介ですね。
より広く国内で見ると、メディアの影響力が非常に大きいでしょう。またそのバックに「行政の意向」も見え隠れしているかと思います。

でもメディアや多数意見よりも大きな同調圧力になり得るケースがあると思います。それは「昔からやっていることだから」です。昔からやっていること=当然のことだから従って当然、という考え方は、上の例でいうAの人ですね。
これは危険でもあり見直すべきと思います。「伝統・文化を否定するのか」と言われそうですが、伝統文化でも「昔ながら」でも、せめて今の形としておかしくないかを点検することは必要ではないでしょうか。例えば「いけにえの儀式」が「伝統だから」といって続けてよいわけはないでしょうね。これは極端な例ですが、「嫁が炊事場に立つのは当たり前」といったことも、伝統だから文化だからと存続させるのではなく、見直す必要があるかと思います。
「昔からやっていることだから」と思考を停止するのではなく、とりあえず一度考えた上で続けるならば、それでよいかと思います。


以上、「同調圧力」について考えました。皆さんはどう思われたでしょうか。
なお、上の例では「XさんがAグループだろう」などと半ば固定的に話しましたが、同じXさんでもテーマや事象によって変わり、また時と場合(空間)によっても変わるだろうことは付け加えておきます。
私は、上の例でいうCのケースに安住していることが多いような気がしていますが、できればEの人のように、流されないようにしたいなと思っています。


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