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安全と安心とは違うか

よく「安全安心」という言葉を耳にします。それを聞くたび私はどうも違和感を抱いてしまいます。
安全と安心って別のものじゃないんでしょうか?なのに最近は四字熟語のように表されています。30年前、いや20年前くらいは一緒にされることはなかった気がします。安全と安心、なぜ一緒にされるようになったのでしょう。

前から気になっていたこの「安全安心」について、まず安全と安心の関係を探りたいと思います。具体的には安全と安心とは①同義(同等)か②因果関係なのか③内包関係なのか④重なる関係なのか⑤別義なのかを考えます。その後に、なぜ一緒にされるようになったのかも考えたいと思います。

ハードかソフトかの違い? 

人に尋ねてみました。一人は「安全とはハード面、つまり風雨に晒さずに鍵をかけるなどして危険がないようにすることであり、安心とはソフト面、人が笑顔で接してくれることではないか」と答えてくれました。別の一人は「責められないとか否定されないとかも安全に入ると思う」と答えてくれました。
なるほど。安全にはソフト面も入ることもあるけど主にハード面で、安心はソフト面ということでしょう。
この段階では安全の中に安心が内包されている、つまり安全があって初めて安心がある/安全なしには安心なしの内包関係、と考えられます。

安全と安心の反意語 

反意語は何でしょうか。「安全」の反意語は「危険」、「安心」の反意語は「不安」または「心配」です。危険と不安の関係がわかればその裏返しの安全と安心の関係がわかるかもしれません。
では、危険と不安はどう違うのでしょうか。

例えば暗い山道を考えてみましょう。
雑草が分けられた平坦な道がはっきりとある。友人にも安全だよと言われた。迷うことはない、でも「何かが出てくるかも」と不安になります。でも危険はありません。
このようなとき「危険はないけど不安」といえます。
では「危険だけど不安はない」ことはあるのでしょうか。
例えば工事現場で危険とされているのに不安ではないことがあります。危険と表示されているから「あぁ気をつければいいんだ」と安心するでしょう。
でも逆に、危険箇所を目の当たりにして怖さを感じるかもしれません。

危険と不安の関係 

危険と不安の関係を検証してみましょう。

危険と不安の関係はどれ?

①  危険と不安は同じ意味(同義)
危険があってもなくても関係なく、不安はあるし、ないこともあるので①は言えません。

②  危険だから不安だ または 不安だから危険だ(因果関係)
前者は一見言えそうですが、危険が明示してあれば不安はあまり感じません。また後者は、不安が重なった結果ありふれたものでも過剰に危険に見えてしまうことはあるかもしれません。なので②も言えません。

③  危険があって初めて不安がある または 不安があって初めて危険がある(内包関係)
危険なところに身を置いている、その中で不安になることがあることもあるがないこともある。これは言えますが、危険がなければ不安になることはない、これは言えません。反対に不安な状態では、危険がないわけではないけれど、(先に言いましたように)ありふれたものでも過剰に危険に見えてしまうかもしれません。なので③も言えるとは言えません。

④  危険と不安は重なることもある(重なる関係)
危険だけど不安はない、逆に不安だけど危険じゃない、でも危険だし不安なこともある。これは言えそうです。

⑤  危険と不安は別の意味(別義)
危険だし不安なこともあるので、全く別とは言えません。

以上から、危険と不安の関係は ④危険と不安は重なることもある(重なる関係) かと思います。

安全と安心の関係 

もしかするとこういう意見を抱いている人がいるかもしれません。「恐怖と不安ならともかく、危険と不安は全く別の言葉なんだから、関係を考えること自体無意味なんじゃないか」と。
では、「危険と不安の関係」と同じように、本題の「安全と安心の関係」を考えてみましょう。

安全と安心の関係はどれ?

①  安全と安心は同じ意味(同義)
例えば将来何か事故に遭うかもしれない、今は安全だけど今後も安全かわからない、だから保険をかけて安心を得る。これは「安全だけど安心ではない」(から保険をかける)ケースといえます。
このように、危険を取り除き安全を確保しても、不安の要素があれば安心にはなりません。なので①は言えません。

②  安全だから安心だ または 安心だから安全だ(因果関係)
前者は一見言えそうです。安全が確保してあれば安心は概ね感じます。でも①で言いましたように不安の要素があれば安心にはなりません。また後者は、安心しているからといって安全なわけはないでしょう。なので②も言えません。

③  安全があって初めて安心がある または 安心があって初めて安全がある(内包関係)
前者は、安全なところに身を置いている、その中で安心になることが、あることもあるがないこともある。これは言えます。でも「安全がなければ安心になることはない」とは言えるでしょうか。例えば屈強な男性がいて、あらゆる危険から守ってくれることを保証されているなら、安全でないけど安心、と言えるかもしれません(あまり現実にはなさそうですが・・・)。
また後者は②と同様、安心しているからといって安全なわけはない。なので③も言えません。

④  安全と安心は重なることもある(重なる関係)
安全だしそれで安心なことが多いのですが、でも安全だけど安心はないこともある(①)。逆に安全じゃないけど安心ということもある(③)。これは言えそうです。

⑤  安全と安心は別の意味(別義)
安全で安心なこともあるので、別義とは言えません。

以上から、安全と安心の関係は、③安全があって初めて安心がある(内包関係)にかなり近いとはいえ ④安全と安心は重なることもある(重なる関係) と言えると思います。

私は、「安全」は客観的な状態であるのに対し、「安心」は心理的で主観的な状態のように思っています。

「安全安心」の登場

では、別の概念なのに最近なぜ一緒にされるようになったのでしょうか。
思い起こすに初めは食の安全性が脅かされる事件が相次いで報道されたことがあると思います。「この食品は安全ですよ。だから安心して食べてください」と声高にアピールしたばかりに、「安全安心」という言葉が市民権を得た形となったのではないでしょうか。
それだけなら「安全安心ってヘンな言葉だなあ」で終わっていくはずが、厄介なことにその言葉が独り歩きしたように思います。まず「安全→(だから)安心という因果関係」という解釈(誤解)を生み、いつからか「安全と安心は同義語である」かのような解釈にまで至ったように感じます。
 
もっとも、日本語は日々刻刻変わっていくものなので、もしかしたら10年後、いや今もう既に過半数が変化を許容しているかもしれません。古語が現代語に置き換わるのは時代の変化だと受け入れてきましたが、実際の変化を目の当たりにするのはゾッとしませんね。

「安全安心」の危険性 

でも、そもそも「安心かどうか」を他人が口を出す、ましてや決めるものではないように思います。客観的な状態である「安全」を確保するのは当然としても、「安心」かどうかは本人の主観によるし、本人の意思に委ねるべきです。にも拘らず、広告媒体を中心に広く使われている。これは少し憂慮すべきことではないでしょうか。
NHKテキスト「100分de名著 ル・ボン 群衆心理 武田砂鉄」の中にこうあります。

ワイドショーが愛用する「悲痛!」「歓喜!」といったテロップも「心象を呼び出す押しボタン」といえるでしょう。ニュースの内容を表すわけでもなく、このニュースを観て「こういう感情をもちましょう」と定めてくる。何をどう感じるかは人それぞれのはずなのに、感情的なフレーズを一つ用意することで、別の選択肢を剝奪している。

NHKテキスト「100分de名著 ル・ボン 群衆心理 武田砂鉄」

「安全安心」という今や馴染んだ言葉の裏では、「安全だから安心だよね」という感情を知らず知らずのうちに植え付けられているのではないでしょうか。そう考えると、気軽に「安全安心」という言葉を使っていること自体、背筋が寒くなるような恐ろしさを感じます。
以下、前掲書の引用です。

心理的奴隷となる危険性はつねにあります。とりわけ、意義や不満を表明することに一定の勇気を要する社会において、世の中の「空気」に抗う意識は、自覚的に鍛えていかなければなりません。さもなければ、次第に群衆にとりこまれ、誰かに隷属するようになっているかもしれません。

NHKテキスト「100分de名著 ル・ボン 群衆心理 武田砂鉄」

結び

安全と安心とは違うのか、どういう関係なのかから出発して、「安全安心」という言葉の危険性までたどってきました。
私にできることは、せめて私だけでも、「安全安心」という言葉を意地でも使わないこと、もし使わなくてはいけなくなったら、せめて「安全・安心」とナカテンをつけること、もし機会があるようなら安全と安心は違うのだということを伝えること・・・くらいでしょうか。
我ながら無力ですが、微力ながらも抵抗していきたいと思います。

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