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富山市豊田に遺跡アリ

古代、特に先史時代の富山は謎に満ちています。

 

ひとつは、縄文時代中期にヒスイ文化が花開いていながら、6世紀頃(奈良時代)には全く利用されなくなったこと。

約5,000年前のこのヒスイ文化は、世界的にみても最古で、同じくヒスイを利用したことで知られるメソアメリカのオルメカ文化(約3000年前)とマヤ文明(約2000年前)よりはるかに古い起源をもつとされています。それが、律令国家が整う奈良時代には姿を消す。そのことはイコール、正史には全く記述のない歴史(日本の正史と呼ばれる歴史は概ね大化(645年頃)から)を、ヒスイ文化はたどっているということです。

 

もうひとつは、弥生時代後期に四隅突出型墳丘墓と呼ばれる墓が築かれていながら、これもすぐに姿を消すこと。

古墳は前方後円墳が有名ですが、この四隅突出型墳というこの特殊な形態の墳丘墓(古墳時代より前の古墳は墳丘墓と呼ばれる・・・同じ名称にすりゃいいのに)は、山陰地方を中心とした地域で造られていたけれど、北近畿にはないのに北陸にはあり、しかも弥生時代後期後葉だけに登場するものです。このような共通の墓が築かれたという事実から、先史時代に日本海文化が発展していた証拠とされています。

 

先史時代の富山には、中央(畿内)から離れているからこそはっきりしない、正史には語られない歴史の痕跡が存在する。北海道や東北とはまた別の歴史がありそうだ。というわけで、非常に高い関心を寄せています。

 

その中で今回は、富山市豊田(とよた、と読む)地区に焦点を絞って、散策の結果を交えて、専門家には触れられない妄想にも踏み込んで、古代の富山を探ってみたいと思います。

なお「古代の富山は越中だろう」と言われそうですが、越中という国境は7世紀(672~692年頃)からなので(「越の国」も6世紀でそんなに変わらない)、あえて「古代の富山」と表記します。

(以下「富山市豊田大塚・中吉原遺跡発掘調査報告書」(富山市教育委員会、2013)の内容をベースに話します。)


およその全体位置図

いまはなき豊田遺跡

富山市豊田は富山駅から北北東3km強に位置します。豊田の北約4.5㎞に富山湾がありますから、富山駅と富山湾のだいたい中間あたり、国道8号線で富山市に向かって神通川の橋を渡って大きな信号があるところ、と言えば、県内の人なら「あーあー」とうなずくかもしれません。

この豊田周辺は「縄文時代晩期から近世に至るまで継続的に遺跡が営まれている」のだそうですが、てんで耳にしません。閑静な住宅街が広がる、どこにでもある(ようにみえる)地域です。

 

縄文時代といえば縄文海進、海岸線が大きく内陸部に及んだ時期で、そのとき一部で話題になった小竹貝塚などができたわけですが、それは縄文時代前期の話で(縄文時代は長いので)、後期には寒冷化に伴い海退します。縄文時代晩期後半頃には、四方埋没林(魚津・入善の方が有名ですが四方にもあります)の年代から海岸線が現在より200m以上沖合にあったようです。海退した神通川河口で、今は海岸線にある岩瀬天神遺跡などが発掘されていますが、その同時代の遺跡として豊田遺跡があります。

 

この遺跡、最近まで国道8号線にありました。ところが!

先日行ってみたらなくなっていました。いつまで経っても終わる気配のない国道8号線拡幅工事のためなのでしょうが・・・ショック!

豊田遺跡の跡。何もありません
前あった豊田遺跡。バッティングセンターのネットが目印

幸運なことにGoogle上に、解説板まで残っていました。Google投稿者に感謝!

豊田遺跡看板(今はない)

解説板によると、「縄文時代の遺構からは、(中略)穂摘み具と思われる石器(中略)が出土しました。縄文の晩期農耕を示すものとして注目されています」とあります。

しれっと書いていますが、少し驚きです。小学校や中学校で「縄文は狩猟採集、農耕は弥生時代から」と習ったように思いますが、ここ豊田では弥生時代が始まるより前に、農耕、特に(「穂摘み具と思われる石器」から)稲栽培が行われていたようです。もしかすると先進地域だったかもしれません。

冨居という地名

それにしてもなんでこんなところに縄文から続く遺跡が、と思いませんか。私自身、この解説板があった頃そう思っていました。

その疑問に対するヒントになることが、地名にありました。

 

豊田本町の南側、豊田町の東側に「下冨居」という地名があります。この地名、読めますか?私はかつてこの地名が読めず、「しもとみい、かな?でも冨は富山の富と同じうかんむりじゃないし・・・」と思っていました。答えは「しもふご」です。

この地域では、水が湧き出す湿地帯を「フゴ」と呼ぶようです。だから下冨居(しもふご)だけでなく中冨居、上冨居もあるんですね。

NHKの番組「ブラタモリ」で、扇状地の扇部分では伏流水が湧き出す地帯がある、という解説を何度となく耳にしていますが、冨居と呼ばれる地域はまさしく、扇状地の伏流水が湧き出す湿地帯なのでしょう。

上中下があるんだから、上冨居が上流域、下冨居が下流域に違いない、と思いました。ところが・・・すぐ隣に北に向かって流れる神通川の上流は南か南南西、でも下冨居→上冨居は南南東・・・どうして?

冨居という地名

実は豊田は、神通川の扇状地であるだけでなく常願寺川の扇状地でもあり、常願寺川の砂礫の方が神通川より多く、伏流水も常願寺川が起源となります。だから下冨居→上冨居は常願寺川の上流に向かう南南東なんですね。

 

常願寺川の伏流水が豊富に湧き出る冨居という湿地帯のほとりで稲などの農耕を始めた、と考えると、豊田遺跡がなぜそこにあるかも合点がいくのではないでしょうか。 

豊田大塚・中吉原遺跡

 (今やなくなった)豊田遺跡の400m北東に、豊田大塚・中吉原遺跡があります。いまホームセンター(ジョイフルシマヤ)やパチンコ店(DSGアリーナ)などが建っているところで、ホームセンターなどを建てる前に発掘調査されたのが豊田大塚・中吉原遺跡です。

豊田大塚・中吉原遺跡

この遺跡で沼地が発掘されました。「なんだ沼地か」とがっかりするなかれ、その沼地に意図的に破壊された御物石器(ぎょぶつせっき)・石刀(せきとう)・土偶といった、豊田遺跡と同時代の縄文時代晩期の呪具が沼べりから見つかったそうです。

土偶の顔は平坦で、両耳と額に穴が3ヶ所あけられていたとか。

 

御物石器とは、用途不明の信仰上の石製品です。中央からやや片寄ったところに大きなくびれ部があり、長さ20~40cm。形態や文様から「枕石」や「猪頭形石棒」とも呼ばれていたものの、皇室に献上されて「御物石器」と呼ぶようになったそうです(個人的には「枕石」の方がまだしっくりくると思うのですが)。

分布は岐阜県飛騨・美濃地方に集中し、石川県・富山県での出土例も数多いとか。主な製作年代は縄文時代後期末から晩期ですが、岐阜県の集団墓地から御物石器と石冠が出土したことから、墓葬儀礼に使われていた可能性が指摘されているそうです。

どういう信仰でどのように使っていたのか、全然わかりませんが(個人的にはマヤの遺物のように見える・・・)、縄文時代晩期に岐阜県を中心とする地域と、信仰を共有する交流があったことは確かでしょう(参考:御物石器に託した祈りとは?)。

 

豊田大塚・中吉原遺跡は、豊田遺跡に比べて相対的に標高が高いので、沼だったからといって忌避されるのではなく、むしろ祭祀場などで積極的に利用されていたようです。

ただ地質を見る限り、この遺跡周辺は泥(シルト)層で、ということは特に水耕栽培には適さないので、利用するにしても水害を逃れるための住居か、やっぱり祭祀くらいだったのかなとも思います。 

ちょうちょう塚

豊田大塚・中吉原遺跡のあるジョイフルシマヤから西へ、セブンイレブンの前を通って少し行くと、通りより少し中に入ったところに「ちょうちょう塚」という石碑があります。

ちょうちょう塚

何だろう、と思って解説板を読むと、3世紀中頃の方墳だと書かれています。

「へー・・・そうなんだ」としか思わない、思えないと思います。付近の人も、あるということは知りながらも気にもしてないと思いますし、何なら存在すら忘れていると思います。それにしても、何もない扇状地の端の閑静な住宅街に、今や影も形もなくなった方墳がなぜこんなところにポツンとあるのでしょう?

 

豊田付近では、縄文時代晩期から弥生時代前期になっても遺跡は散発的に確認される程度だったのに、弥生時代中期中葉以降になって遺跡数が増加するそうです。

豊田遺跡でも緑色凝灰岩、ヒスイ、管玉などの玉作り関係遺物が出土したといいます。御物石器もそうですが、冒頭に書いたヒスイ文化もここにきて拡大してきたということでしょうか。人口が増え、農耕に続いて宝飾工場も担うようになっていたのかもしれません。

豊田大塚・中吉原遺跡では、沼地の岸辺を大きくえぐりとった湧水地が作られていたといいます。イメージ的には人工的な水辺公園でしょうか。竪穴建物や掘立柱建物もあったらしいです。

 

ちょうちょう塚は「3世紀中頃の方墳」とありました。3世紀中頃というと弥生時代終末期から古墳時代前期にあたります。ということは、玉作り工場や水辺公園を作って利用していた人たちが、古墳を築いたと考えることができるでしょう。 

標高差からみえる姿

 実は私は2020年まで5年くらい仕事で豊田にいたのですが、周辺を歩いていると、扇状地の端なのにどうしてこんなに高低差があるのかなとずっと疑問でした。もっとなだらかでもいいはずなのに。

特に国道8号線から豊田本町あたり、海に向かって徐々に標高が下がっていってもいいはずなのに、むしろ上がったり、複雑な町割りになっているのはどうしてなんだろう、と思ってました。

 

そこで、国土地理院の地図(こちら)で調べてみました。今の国土地理院の地図は便利ですね。

標高5m未満を深青色に、10m以上をオレンジ色に、その間をグラデーションで色分けしたものがこちらです(誰でもできますので興味のある方はやってみてください)。

豊田付近地図(色なし)
豊田付近地図に標高ごとに色を付けると・・・

驚きました。西(北西)と中央付近(南東)で標高が全然違うなんて。まあ違うといっても5mしか違わないのですが。

下冨居が常願寺川伏流水の湿地帯というのも合点がいきますし、何よりちょうちょう塚は、微高地の中心にまるで灯台のような場所にあることがわかります。有名な大仙陵古墳や五色塚古墳も海に面していて、海からくる船の目印になっていたといわれますが、このちょうちょう塚もそうだったのではと推測できます。

 

いや、ちょっと待て。標高5m未満を深青色にしたからそうみえるけど、弥生時代から古墳時代にかけての海岸線は現在よりやや沖合か、あるいは現在とほぼ変わらないはず。いくら豊田が微高地といっても北4.5kmの海岸線は遠すぎるでしょ。

確かに。でも待ってください。船が航行するのは海だけではありません。そう、川でも航行できます。海からくる船が、神通川の流れに沿って南下していたのではないでしょうか。縮尺を小さくすると、よりはっきりわかります。

富山市北域に標高ごとに色を付けた

神通川下流域はなだらかで、うろうろ蛇行して流路がよく変わっていたといわれるし、それに明治期に馳越線工事によって流路が変わったこともよく知られるところです(神通川の歴史(国土交通省) 参照)。

神通川馳越線の旧流路の出口、呉羽丘陵の北端に、およそ同時期に築かれた百塚古墳群があります。そしてその呉羽丘陵北端で神通川の流路が北東に曲げられた直線上に、豊田(=ちょうちょう塚)があります。推測ではあるものの、神通川が現在よりもやや東寄り、深青色で示したところ(中島~豊島町~犬島あたり)を流れていたかもしれません。

 

つまり豊田という場所は、南西からの常願寺川の扇状地が広がる中にあって、豊田のすぐ南側で伏流水が湧き出し(=冨居)そこが相対的に速く浸食されたために、取り残された自然堤防である、と考えることができます。さらには、南西から流れてきた神通川によって、北西側が削られて残った台地、と考えることができるでしょう。 

豊田台地の実際の姿

実際に行ってみました(2023年7月)。

写真の位置図
豊田写真1

「豊田写真1」は城川原公園あたりからセブンイレブンやジョイフルシマヤのある方向をみたところです。

手前(西側)から豊田台地に向けて急な高低差がありますが、写真左側の道路はその高低差を補っています。かつては、この低いところに神通川が左方向(北向き)に流れていて、高いところには古墳(=ちょうちょう塚)が築かれていた、とみることができます。

豊田写真2

「豊田写真2」は豊城新町公園付近で、上から下をみたところです(写真中央に小さく豊城新町公園が見えている)。

左側が豊田台地で、右側の奥に従い低くなっています。写真ではわかりにくいですが、右手の道路から左側を見上げると、人ひとり分、およそ2mの高低差があります。神通川の削った崖、と言えるでしょう。

豊田写真3

「豊田写真3」は国道8号線から豊田台地に登るところです。自動車で通るとけっこうな急坂とわかります。

坂の上の自然堤防を残して、常願寺川伏流水が東から西へ削った谷、とみることができます。なお手前(低いところ)のすぐ近くに豊田遺跡がありました。

 

いずれも実際に行ってみると、写真でみるより高低差がはっきりわかると思いますので、ぜひ行ってみてください。 

古墳の規模

 豊田の地形や成り立ちはだいたいわかってきました。それを踏まえて、ではちょうちょう塚とはどのような古墳だったのでしょうか。
ちょうちょう塚を解説するWebページ(こちら)にはこう書かれています。

 「調査の結果、本来は一辺が20m前後の方形墳で、高さ3.5m、墳頂は一辺13m四方の平坦面であり、いわゆる頭角錐形(台形)であった」
「さらに旧地割図との対比から、墳丘の周囲には幅6mから8mの周庭帯あるいは周溝がめぐり、これを囲って東西130m・南北100mにおよぶ方形の大区画があるということがわかりました。」

 この記述をもとに、こんな感じかなと地図に当てはめてみたのがこちらです。

ちょうちょう塚の推定規模

ものすごくでかい、わけではありませんが、思ったより大きい、というのが私の印象です。

ちょうちょう塚が築かれたという弥生時代終末期から古墳時代前期は、弥生時代の墳丘墓から古墳に変わる時期で、方墳でしかも一辺20mの規模となると、時期からするとけっこう大きいと思います。それに高さ3.5mっておよそ人の二倍ですから、麓に立つと見上げる高さです。

何より墳丘はともかく周溝が約100m、その合間も樹木を刈り払っていたでしょうから、船の目印としては申し分ない施設だったのではないでしょうか。

 

ちょうちょう塚は方墳ですが、およそ同時期に作られたであろう四隅突出墳丘墓と比較してみましょう。

四隅突出墳の杉谷4号墳は一辺が25m、高さ3m(溝を含めた一辺は50m)。富山の四隅突出墳の中では一番大きいとされる富崎3号墓は一辺22m、高さ3.9m。ですから、ちょうちょう塚も形は違えど規模としては決して見劣りするようなものではありません。

四隅突出墳丘墓とちょうちょう塚は、およそ同時期に作られたことから、同じ神通川流域で同目的で作られたのでは?と考えてしまいます。(なのにちょうちょう塚はあまり取り上げられていないような・・・)

 

ただ、ちょうちょう塚って名称も、何なのか、どういう由来なのか、よくわかりません。

とはいえ、遺跡調査は何か新しく建てたくて(工事したくて)建てる前に発掘したらとんでもないものが見つかった、というのがふつう?と思いますが、跡形もなくなっていたにせよ、「ちょうちょう塚」という名称だけでも現地の人々に残っていたというのも、豊田の地に住む人が、古代から脈々と続いていたことを物語っているように思います。 

終わりに

 今は富山駅周辺が栄え(でもないか?)、江戸時代は富山城あたりが栄えていたといわれます。でも、それよりずっと前は富山駅はもちろん富山城もありませんでした。かつて玉作り工場や水辺公園もあったといわれている豊田こそ、富山平野で人々が生活を営む拠点の一つになり続けていたのかもしれません。

 今回は古墳時代までしか触れませんでしたが、豊田の地にはまだ興味深い歴史が眠っています。機会があればまた取り上げたいですし、富山の考古学関連の方も、もう少し豊田という地に関心をもってもらえたら嬉しいなと思います。


参考資料:

富山市教育委員会「富山市豊田大塚・中吉原遺跡発掘調査報告書」、2013

富山県公文書館編「とやまの歴史」、1998

富山市「豊田大塚・中吉原遺跡

富山市「ちょうちょう塚

富山市「百塚住吉遺跡

国土交通省「神通川の歴史

富山市「神通川と遺跡(2)-縄文時代晩期の海岸線を探る-

地理院地図

御物石器に託した祈りとは?

「古墳」と「墳丘墓」の4つの違いとは?時代や大きさまで解説

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