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「書けるけど読めない」はヤバい

これ、ツイートしようとして、あらためて文にしたほうがいい気がして、こっちに回しました。
いやはや、少し前にこういうツイートしたんです。

そして付け加えようとした文がこれ。ツイッターの下書きに残していたもの。

「書けるけど読めない」が始まると、すでに危機的な状況。植林しないのに伐採だけする山になってる。今書かねば書けないとか思ってどんどんやっちゃってハゲ山化していくという。私だけかしら、これ。

まあ植林=読むこと 伐採=書くこと ではないし、対のものでもないし、両方あってバランスが取れるとも思ってないのですが。読めないというのは余裕の無さを表しているというか、補充なしに資源を使い込んでいる感じがある。

私、過去にもこれ、やっていて。
なんで何度もやって気がつかない、と思いますがこれが気がつかないもの。気がつかない間に進行して気がついたらそうなっている。それから我が身を振り返ると、だいたい心身とても損なっている、というパターン。

そこに至るルートはいろいろ。過去にやっちゃった時は身の上にとてもショッキングなことがあり、ストレスなどから体調もメンタルの調子も崩して、全く読めない状況でした。それでもなぜか文章力を落としたくない一心でブログだけは毎日書いて、書けていた。その時はこんなものかと思ったものですが、回復してから変だと気づいた次第。

そして最近。数年前に短歌の賞を受賞してから、いただく短歌や文章など書き物のお仕事が増えたところに疾患のある家族のサポートが重なって。そこへ熊本地震の体験記と地震関連の作品を一冊にまとめた本も今出さねば、オリンピックに関わる短歌の論をどうしても東京2020前の今書かねば、とアクセル踏み込んでやっているうちに、「多忙で読まない」のか「読めない」のか区別がつかなくなり、前者と思ってやってきたら実のところ、「読めない」方になっていて、ものすごく心身を損なっていた、というところです。私としては非常に不本意。単に時期が色々重なって、どれもやりたいからやってきただけなのに。

なんでこうなるのか、どうしたらそうならないのかは正直わかりません。でも一つだけ言えるのは、「読めない」時はヤバい、ということです。気づいた時点でかなり悪くなってるはず。だから、読めないと感じたらすぐに心身いたわる方向にかじを切って欲しいのです。ちょっと時間的余裕をとるとか、よく寝ようとか。自分のことを後回しにしないとか。

私の「読めない」はこの3ヶ月ほど、時間が出来たので自分優先に暮らして、立て直せてきました。もういやだこんなの、と思いつつ、またやるだろうと思いつつの今です。

同好の士のみなさまの心身を保つ一助になれば。

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