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NFTアートは芸術として受け入れられるのか

もともと建築という芸術に近しき学問をしてきたので、昨今のNFTブームの中、どう見ても表層的なコンセプトのみが先行し、その背後にある思想が見えないものも少なくなく、オーソドックスな芸術教育を受けてきた身としては、当初はそのような状況に対して少なからず違和感を持たざるを得ませんでした

芸術に対する固定観念

この嫌悪感の正体について考えてみると、自身が大学及び大学院で受けてきた芸術教育が根底にあることに気づきました。

芸術教育で対象とされるものはほどんど、美術館に展示されたるような謂わゆるハイ・アートであり、そこでは絵の評価を論理的に説明することが可能です。それはキュレーターや批評家が作品を既存の芸術史と関連づけるからこそ可能なことであり、逆に既存の芸術史なしで絵の評価を下すことは不可能と言っても過言ではありません。

例えば、ピカソの絵は一見ただの落書きに見えるものの、その背景には写真という風景を精緻に切り取ることができる技術の登場があり、それにより従来の写実主義表現方法の価値基準が覆され、写真では実現できない絵画だからこそできることを追い求めた結果、1枚の絵画に複数の視点が同居するキュビスムという作風が完成しました。

このピカソの例のように、芸術史に結びつけることが可能な作品については、その作品を芸術として捉えることができますが、逆に言えば「芸術史に結びつけることができないもの=芸術ではない」という図式で捉えてしまいがちで、その結果として、今のNFT界隈で見られる作品に対して上述のような感情が生まれてきたのではないかと思います。

それはおそらく自分以外の高級芸術を専攻していた人、もしくは芸術を生業としている人にとっても同様ではないかと思います。

芸術史の多様化

ただし、そのような高級芸術自体も、改めて見返せば元々高級ではなかったものに価値が見出され、芸術史に組み込まれていくということが多々ありました

例えばモネやセザンヌ、ゴッホなどは、当時の芸術とは無関係の日本の浮世絵というオリエンタリズムに満ち溢れたものを作風としてとり入れ、それが今では19世紀後半の代表的な画家として芸術史にその名を刻んでいます。

バスキアに関しても、正規の芸術教育を受けていないにもかかわらず、路上でストリートアートをしていたのが徐々に評価されていき、今では一つの作品で100億円の値がつく20世紀後半の代表的芸術家の一人として広く認知されています。もちろん、その背後には当時硬直していた現代アートのシーンを打破するための戦略的な方法として、白人以外の作家及びストリートカルチャーを積極的に評価しアートの多様化を促進したという事実もありますが、それでもストリートカルチャーが一つの文化として評価されたことは、芸術史の1ページとして今後刻まれることになるでしょう。

芸術の大衆性

上記のような例は他にも挙げられ、長い歴史で見ても芸術は西洋かつハイソなものからグローバルかつ大衆に移行してきていることは明らかです(ただし、理屈ではそうでも依然として西洋が中心ではあるのですが)。ここにweb3.0の非中央集権的文脈が繋がることでその流れは加速度的に広まることが期待されます

そもそも中世以前は絵画といえば基本的に「神」に関するものがほとんどで、そこに「人間」が描かれることはありませんでした。ルネサンスになりそこに「人間」が登場したものの、そこで描かれる対象は王や貴族といった特権階級の人々で、絵のモチーフに一般大衆の人々が大々的に描かれるようになるにはさらに時代を下る必要があります。

それでも今、絵の所有という側面に関しては、芸術は依然として一部の富裕層のものであり、そこに大衆が入り込む余地はほとんどありません。ここに、NFTが突如として出現し、大衆が大衆の絵を評価し所有するという、極めて新しいアートの体験が今まさに構築されつつあります。

そのような文脈で考えると、誰が何を描いてもアートになり得る今のカオス的状況こそ、新しい芸術のあり方を示唆する萌芽的状況で、モダンアートの登場が芸術史における一つの大きな出来事として現在共通理解されるように、今の状況が将来それに匹敵するか、さらに大きい出来事として芸術史に刻まれることになるかもしれません。

そして、最初に感じていた違和感は権威的な芸術教育から起こる先入観であり、芸術史に絡めて今の状況を俯瞰的に見た時に、それを芸術における新たなムーブメントとして好意的に捉えることができるようになりました。

20世紀前半にモダンアートの登場で、古い権威がそれを評価できずにアートの主戦場がヨーロッパからアメリカへと移ったのと同じ図式で、今度はそれがさらにラディカルなものとして、アートの主戦場がグローバルかつ大衆へと一気に広がっていくのかもしれません。

以上のことから、「NFTアートは芸術として受け入れられるのか」という問いに対して、今では肯定的なスタンスをとっています。

NFTアートの評価

ここで、改めてCryptoPunksについて考えてみると、一見ただのピクセルアートに見えるものの、そこではNFTであることを最大限に活用し、作品そのものがトークン上に存在しています(フルオンチェーン)。データ自体をブロックチェーン上に載せるからこそ、データ量の削減のためにピクセルアートという形式がとられました。
そのNFT自体も作品の所有性に関する新しい技術として見ることができ、それが絵の表現と強く結びついている部分に新規性・独自性があるのであり、そのような概念を持つデジタル絵画として今後芸術史に組み込まれるかもしれません。
逆に言えば、CryptoPunksの本質をピクセルアートと見るのは誤りで、スマートコントラクト上にデータを保持することが主としてあり、それに対する手段としてピクセルアートという手法がとられたということには留意しておく必要があります。

そして、CryptoPunksの本質を除いた表層的作品は山のように溢れかえるこの現状の中、それにも拘らずそれが評価され購入されるこのカオス的状況こそ、特権性の排除を目指すweb3.0のあり方そのものです。

あらゆるものがそれぞれの視点で自由に評価し売買される。

これを胡散臭く、そして危険に思うこともできるのですが、別の見方をすれば、従来のように中央集権的にキュレーターや批評家と評価ゆえに絵の価値が見出されるのではありません。

そこでは(理論上は)誰もが等しく自由に評価し、自ら望むものを自発的に選択できる極めて透明性のある市場と言えるのです。

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