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無神論者とアナキスト 冒頭

これはジェン鬱と話をしていた創作話の冒頭です。
タイトルは「無神論者とアナキスト」
登場人物の幸田のモデルがジェン鬱で神宮寺のモデルがワプイです。文豪とアルケミストみたいなパロディをやろうという話で当時盛り上がりました。
手元に残っているもので、未公開のものがあったので、遺作としてアップしたいと思います。

最終更新: 2022年6月20日


「神が死んだ」
スピーカー越しの声は震えていた。
六限後、課題を片付けるために部室にやってきた時だった。同じクラブの部員である幸田からの電話に出ると、それはそれは深刻そうに神の死亡を宣言された。
「はあ……、神は何もたった今死んだわけじゃない。そもそも最初から存在しないし、超自然的現象が科学的に否定されるようになって早百年以上……」
適当に煙に巻こうとすると幸田が舌打ちする。
「てめえはいっちいち小うるせえな……、いや仮に原義に忠実に話をするなら死んだのは神という概念だから神の実在不在は関係ないだろうが、人間が信じればそこに神が生まれる、人が信仰のフィルターを通して幻視した虚像が神そのものなんだからな。その点で全く正しく今この瞬間あたしの神は死んだわけ、あたしが信じるのをやめたから。迷える子羊を腹痛で苦しめる神はいません。あたしが殺します。殺しました。あ、あっ!あああああ!」
早口で捲し立てていたかと思ったら急に叫び声を上げたので、びっくりしてスマホを取り落としそうになった。何か事故にでも遭ったかと思って呼びかけても、返事はない。環境音すら聞こえなくなったが通話状態は継続しているので、恐らくミュートに切り替えたのだろう。妙に声が反響して聞こえていたが、今どこにいるのだろうか。
「もしもし?大丈夫?今何してるの?」
数十秒のち、ぷつりと幸田側のマイクが復活した。
「排便」
「糞してる最中に電話してくる人間この世に存在していいと思う?切るよ」
「待って!」
どうやら先ほどの絶叫は幸田のセルフ音姫だったようだ。頭悪いんじゃないの、というか心配して損した。そもそもトイレで電話するのは他の利用者にとっても迷惑なのではないだろうか。不快感よりも呆れが勝って、何もかもどうでもよくなった。電話を切ろうとすると幸田が必死さを滲ませた声で矢継ぎ早に叫ぶ。
「今四階東側のトイレなんだけどトイレットペーパーがなくなったから持ってきてほしいんだよ!頼む!今すぐに頼む!トイレットペーパーちょろっと残して補充しないアホ絶対許さんからな!も〜すっごい虚無!あんたが六限終わるまでケツ出して待ってたんだよ!虚無でしかないよ!神は死んだ!紙だけにってね、ワハハ」
「他に友達いないの?」
思わず溢れた疑問だったが、聞くまでもなく友達がいなさそうな女だ。図星だったのか、幸田はものすごい早口で他にも友達はいるという趣旨の言い訳を捲し立てている。



この無神経で恥知らずなクソ女、幸田との出会いは本当に最悪だった。トイレの中から電話で呼び出され、あまつさえ通話中に排便された現状も相当に最悪なので、出会い「も」最悪と言った方が正確かもしれない。

親の反対を振り切って地元を出て大学に進学した私は、入学当初とにかくお金に困っていた。新しい土地での新しい生活にいっぱいいっぱいですぐにはバイトを始められず、奨学金の振込を待つ間なにも持たない私が切り詰められるものは食費だけだった。教科書も暫くは図書館で借りることで凌いで、書き込むことができない代わりに必死にノートを取ったものだ。
水だけで腹を膨らませて寝た夜もあったが、幸いに新歓コンパでタダ飯を食らうことで私はなんとか食い繫いでいた。人が集まる場所は元々苦手だし、酒が入って爆裂にイキり始める大学生を相手にするのもかなり苦痛だったけれど、文字通り背に腹はかえられない。女子学生を狙う危険なサークルと注意喚起がなされていたものを除いて、近隣の大学のサークルが主催する新歓コンパに手当たり次第参加していたとき、私は奴と出会ったのだった。
四月半ば、私の第一志望だった国立大学の、あれは確かスキーサークルかマジックサークルだったと思う。いや、なんかよく分からないイベントサークルだったかもしれない。まあとにかく私が落ちた大学主催のサークルだ。掘りごたつの宴会場で左隣に座った男があれこれと話しかけてきて鬱陶しくて、私は逃げるように右隣の女の話を積極的に聞いているふりをしていた。その女が幸田だった。
黒髪のワンレンボブは、お洒落に気を遣っているようにも無関心なようにも見えた。濃いリップと赤みが強いアイメイクは、この女は何か軽薄なサブカルチャーに傾倒していそうだなと感じさせる。ヴィレッジヴァンガードに行けば、大きなメガネに派手なスカジャンを羽織って内臓モチーフのアクセサリーを物色する幸田によく似た女がいくらでも見つけられるだろう。
第二言語何とったとか、オススメのバイトだとか、サークルの男を交えてあれこれ話している様子に相槌を打ちながら、みんなが酒に夢中になって放置している大皿の料理を胃に納めることに専念していたので当初の幸田の印象は薄い。酔っ払ってきた隣の男Aからひっきりなしに話しかけられるのを何とか交わすのに必死だったというのもある。「まりあちゃんて福岡出身なんだ〜!博多弁喋ってよ〜!」じゃねえんだよ。近畿出身の人間が関西弁喋ってよ〜と雑に絡まれた時に「イヤイヤうちはナントカ弁で……」と内心断りを入れたく思っているという話が関西あるあるとしてポピュラーな言説になりつつあるように、福岡出身者が全員博多弁を喋っているわけではないし、だいたい方言を喋ってよと言われて喋ったところで微妙な空気になるものだ。そして、気に入っていない名前を、それも初対面の男にちゃん付けで呼ばれるのもかなり気に触る、が。
「え〜!何ば喋ってよかかわからんばい〜」
「おお〜!ネイティブ博多弁だ〜!やっぱ可愛いね〜」
わあっと机が小規模な盛り上がりに包まれた。媚びたように上擦った声を出して、私はいったい何をやっているのだろうか。サークル探しでもなく男探しでもなく、ただただ純粋に食事にありつくためにこんなことをやっている。そう考えるとすっと胸の奥が冷えて、錆びついた何かが軋むように痛んだ。
それじゃあ心理テストやりまーす!と私の対面に座る男Bが元気よく手を挙げた。幸田は気持ちよさそうにビールのジョッキを空けている。
「ブレーキが効かなくなったトロッコがあります」
まさか経験人数が分かるみたいな低俗なやつではなかろうな、と少し身構えていたが、予想は全く外れた。いやそれ心理テストちゃうやん!と男Aが大きな声を出してひと笑い取っている。安い笑いだ。
「トロッコがそのまま進めばその先の線路上にいた五人が轢き殺されてしまう。線路は分岐していて、もう一方の線路の先には一人がいる。その線路の切り替えをできる分岐器が自分の目の前にあるとき、何もしないで五人を見殺しにするか?それとも自分の手で線路を切り替えて、一人を犠牲にする代わりに五人を救うか?……って問題」
何度も聞いた思考実験だ。飲み会を盛り上げる話題に適しているとは思えないが、そういう知性アピールなのかもしれない。俺は操作しないなぁとポテトをつまみながら男Aが答えた。
「自分で一人を殺すのは後味が悪すぎるだろ、それで放置して五人が死んだとしても俺は悪くないし。まりあちゃんは?」
「私は切り替えます。命は平等なのだから、一人の死で五人が助かるなら必要な犠牲だと思うので」
クールかよ〜、お酒飲もうよ〜とワンワン言っている男Aを、無理に飲ませちゃうと問題になるぞと男Bが軽くいなしてくれて助かった。お酒を飲むとすぐ気分が悪くなってしまうので、と断っても酒を勧めてくる人間の多いこと。周りの未成年がどれだけ飲酒しようと知ったことではないが、浮かれた大学生と一緒にその場のノリで飲酒するのは勘弁だ。
続いて幸田が大きな声でいちゃもんをつける。
「ていうか、トロッコ問題って問題自体がガバガバじゃないすか、分岐の前にいる自分が暴走トロッコに気付いてたら線路の上にいる奴も絶対気付いて勝手に逃げられるでしょ」
元も子もないことを言うなよと思いながら黙って聞いていると、まあ問いたいことを問うための問題だからねと男Bは苦笑を滲ませた。
「五人を救うために人ひとりを殺せるか、自分の手は汚さずに五人を見殺しにするかだ。ええと……」
「幸田です」
「幸田ちゃんならどっちを選ぶ?」
「あたしなら自分が行きますね」
は、何言ってんだこいつ、と空気が凍りついた。面倒な人が訳の分からない事を言い出したな、という表情で男Bは焼酎の水割りを口に含む。話が通じない人の話をこれ以上広げるのは厳しいものがあるのでひとまず私は静観することにした。
「分岐器を操作する暇があるなら自分が突っ込んでトロッコ止めますよ、他人の命を操作するなんておこがましい。それにあたしは6人全員救いたい」
「まあまあ!自己犠牲で誰かを助けるとかさ〜、正義のヒーローみたいなの?憧れちゃうけど実際はね〜、絶対無理だよね〜」
なんとか空気を持ち直す方向で口を開いたのは男Aだった。そうだなとにこやかに男Bが相槌を打って和やかなムードが取り戻されかけたのを無視して幸田は声を張る。
「やりますよ」
唐揚げを咀嚼しながら茶々を入れた男Aを見据えて、目を見開いた幸田が言う。三白眼かつ目が大きく、加えて酔っ払って充血しているので大変目力のある幸田に凝視されて、男Aはたじろいだ。
「あたし、高校の頃道路に飛び出してきた子供を助ける代わりに車に撥ねられて足折ったことあるんすよね。だからもし暴走トロッコがいて、その先に人がいたら、あたしはきっと考えるより先に飛び出して行きますよ」
男Aを見つめたまま、幸田はグイグイとレモンサワーのジョッキを開ける。身を呈して人の命を救うという極めて道徳的な宣言にも関わらず、どうしてかナイフ片手に「いつでもお前を殺せるからな」と凄んでいるような迫力があった。
オッ幸田ちゃん勢いいいね!次は何飲む!?と男Bが強制的に話を切り上げてなんとかその場の空気が回復した後、あの子なんか目がいっちゃってて怖いね、と男Aに耳打ちされた。

そんな会話も十数回以上繰り返されたコンパの他愛無い一幕で、そのまま何もなければ私は最後まで粘って皿の上の遠慮の塊を食べ尽くし、自転車を買うお金がないので六畳一間のクソボロアパートまで歩いて帰って、寝て、明日学校に行く頃にはどんな会話をしたかなんてすっかり忘れていたはずだったのだ。
コンパも終わりに近づいた頃、隣の幸田はだいぶ酔っ払っていた。だいぶどころではない、相当回っている。
幸田の隣に座っていた男が肩や腰に手を回し始めたが幸田は全くそれどころではない様子で、真っ青な顔で虚空を見つめて水を飲んでいた。他人がどうなろうが知ったことではないが、同じ新入生として同じ女性として、彼女が本意でない接触を受けているのは見過ごせなかった。
「気分悪そうですよ、お手洗いに行った方がいいんじゃないですか?わたし、付き添いますから……」
声をかけると幸田はキュッと口を一文字に結んだ虚ろな表情で頷いて、幸田の隣の男に不満そうな表情で見送られながら座敷を後にする。
私より頭一つ分は身長の高い幸田を支えながら、だいぶ苦労してトイレまで幸田を連れて歩いた。幸田が飛び抜けて高身長というよりは、私がかなり背が低いというだけだ。今日も男ABその他から小学生みたいと笑われ、酒の代わりにオレンジジュースを所望すれば子供子供と揶揄われた。
「そこ、段差です」
肩に回させた幸田の腕が熱い。ピッチの早い呼吸と拍動を聞きながら、私が酔っ払いを進んで介抱してやるなんて間違ってお酒でも飲んだかしらんと奇妙な離人感を味わっていた。

いよいよトイレにたどり着いて、個室に送り込んでやろうとしたところで幸田がウッと呻く。そこからはもう断片的な記憶しかない。えっ、と困惑している間に、気付けば私は吐瀉物に塗れていた。
後のことはほとんど覚えていない。いや、思い出さないようにしている。二発目を今度こそ便器に吐き出してスッキリした幸田はワンワン泣いて謝り、クリーニング代と言って財布の中の札を全部引っ掴んで握らされた。

幸田から貰ったカーディガンを着て、トイレの洗面所で幸田が泣きながら洗ったブラウスを入れたビニール袋を下げて歩く帰り道、もう何もかもめちゃくちゃに嫌になって人気のない道の真ん中で座り込んでしまった。なかなか泣き止まない幸田を宥めてもういいですからと言っている間は逆に冷静になれたが、一人になるとだめだった。
もう制服を着れないのだから服を買わないと、周りから浮かないような服を、とファストファッションの店で相当な時間をかけて選び抜いた1980円のブラウスがビニール袋の中でじっとり濡れている。わざわざクリーニングに出すまでもない、安い布切れだ。でもまだおろしたてだった。ピンクとオレンジでかなり迷ってピンクを選んだ時の自分が、実家であれば何か言わずにはいられない親に一言ちくりと刺されていたであろう可愛らしい服に袖を通して浮かれていた自分が、何もかもが馬鹿馬鹿しい。コンビニのゴミ箱にビニール袋を乱暴に突っ込みながら、幸田から貰った8000円のことを思った。これでしばらくは食べていける、あるいは惨めな自分を慰めるために豪遊してしまおうかと一瞬考えたけれど、すぐにそんなこともどうでもよくなった。

この金で買い残していた考古学の教科書がやっと買える。
尊厳とブラウスを売って、教科書が買えた。結構なことじゃないか、と笑いながら帰途についた。



幸田と再会したのは、それから十日も経たない四月下旬の昼休みだった。同じキャンパスなのだからどこかですれ違えるかもしれないと思い幸田から借りたカーディガンを毎日持ち歩いていたのをやめて、すぐのことだ。
中学と高校では親に言われるがままにバレー部に入り、惰性で五年半続けたが、大学では今までとは趣向を変えて文化系のクラブに入りたかった。大学のパンフレットを取り寄せて見ていた時から気になっていた、プロレタリア文学研究会。幸田と出会った新歓を主催していたサークルのような大学が認めていたりいなかったりのインカレサークルではなく、大学内部の公式クラブだ。
新歓情報を探してもプロレタリア文学研究会は見つからず、学内のサークル情報を載せた冊子のいちばん小さな掲載枠に丁寧なペン字でたった二行、「昨年度、部員が全員卒業してしまいました。A棟403研究室で説明会を行います。」と書かれているのを見て、安息の地が手に入れられそうだと沸き立つ気持ちが体表を撫でた。

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