銅像に関する誤解を通じて思うこと
『銅像歴史散歩 (ちくま新書)/墨 威宏』読了
人工物の切なさを改めて感じる。
勘違いされていることが多いが「銅像」が超オフィシャルで厳格な審査(監修)を経て産み出されている、とは限らない。
本書を読むとよくわかるが、いい加減な理由やプロモーションの一環で作られたものも多々存在する。
そういえば「嵐にしやがれ」で二宮金次郎像置き捨てられた話しを取り上げていたなあ。
人間は身勝手だ・・・
ふと思う。
「○○だけをやり続けて××年(件)」っていう肩書き、人生にとってプラスだろうか、マイナスだろうか?
相手からみた自分の見られるところが狭まることが想定されて、それはマイナスな気がする反面、まずは見られる(知られる)ことが大事だろう、ということもある。
うーむ、難しい。
ただ、一つ言えるのは「○○だけをやり続けて~」みたいな肩書きだからとって、それだけしか得られていない(知らない)なんてことは絶対にない。
銅像の話しでいくと、銅像、と一口に言っても銅像の歴史の他に、土地の歴史、周辺地域の情報などなど、その人はたくさんのことを得ているはず。
ただ、入り口が「銅像」だっただけ。
その代わり、何を得て、何が一番価値があるか、何を押し出すか、というところは本人の判断と力量。
そこは選ばないといけない。難しいとしたら、ここになりそうかな。
自分は何者だろうか。
少なくても、自身では考え続けなきゃいけない課題。ではある。
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