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コーヒーが飲めるようになってしまった

不本意ながら、コーヒーが飲めるようになってしまった。

私は昔から苦いものを避けていた。克服したいと思ったことがない。社会人になった今でも同じように思っている。

これまでの20数年間、コーヒーを嗜む同年代を横目に紅茶を飲み続けていた。私は7歳の頃から、お砂糖とミルクをたっぷり入れた紅茶が好きだった。おばあちゃん家に行くと、いつも甘い紅茶を入れてくれた。まだ19時のNHKニュースが放送されている時間。当時の私にとっては夜更かしの部類に入る時間だった。

私は長男だったから色々特別扱いされていた。電気が消されてしばらくすると音を立てないように布団を抜ける。既に布団で寝息を立てている兄弟たちを横目に、おばあちゃんがいる居間に出向いた。僕が「まだ起きてたい」と言うと、「しょうがないわね」と言って紅茶を入れてくれた。ファミレスにあるような筒状のお砂糖とミルクを一つずつ。それに加えて、瓶の中に入っている中ザラ糖を何杯も入れて飲んでいた。

今思えば紅茶が好きだったというより、紅茶の底に眠る溶けかけのお砂糖が好きだったのかもしれない。苦みの先のご褒美みたいなものだ。最後はお砂糖を噛み砕いて甘みを舌に転がした。苦みが全て消えれば、もう一度歯を磨いて眠りにつく。

当時は、紅茶を飲むことで大人になった気がしていた。


やっぱり大人が正義とは思わない


年を取るにつれて、紅茶を飲む理由が変化していった。
大人に憧れて飲んでいた紅茶は、次第に大人を拒む手段になっていた。例え同級生たちがコーヒーを飲むようになっても、私は自分を曲げなかった。

あんなに憧れた大人に、なってたまるかと思ったからだ。

徐々に変化していく心と体。それに耐え切れず塞ぎこんだ時期もあった。

「どうして大人にならなくちゃいけないんだろう?」

そう思いながら紅茶を飲んで一日が始まった。

でも味覚は正直だった。
始めは甘いお砂糖たっぷりの紅茶だったのが、午後の紅茶ストレートティーに。高校生になると午後の紅茶無糖を愛すようになった。大学生になると、ホットのアールグレイティーを好むようになった。

徐々に崖際に追いやられていることは理解していた。
ついに崖際に追い詰められたと悟ってからは、意図的にコーヒーを避けるようになった。

「次、口にしたら...…」

何が起こるかなんて考えたくもなかった。


気づいたら境界線を越えているもの


それは突然やってきた。

社会人になって2か月が過ぎた頃。
仕事柄、私はお客様と面談する機会が多かったので、簡単なおもてなしを受けることがしばしばあった。

ある日の面談こと。私の目の前にブラックコーヒーが並んだ。

「私飲めないのだけど......」

くだらない意地を突き通したというより、
単純に苦いから味覚が受け付けないと思っていた。口に残る絶妙な酸っぱさと苦みが気持ち悪くて、コーヒーを飲む度に嗚咽していた記憶があった。

でも、飲まなければいけない状況だ。

私の中で葛藤はあったものの、我慢して一気に飲み干すことにした。

ストローに顔を近づけると、独特な匂いが鼻をくすぐった。こんな異物を口に入れるのかと囁かれた気がした。そんな忠告を無視して一気呵成に飲み干した。

「苦くて嫌いだ。コーヒーの何が好きなのか」

「なんでこんな物を飲……」

そんな心の声はまやかしで、グラスの中で氷が踊る音だけが響いた。
私の心はシーンと静まり返っている。

予想外にも、何も感じなかった。

私はいつの間にかその境界線を越えてしまっていたらしい。



改めてもう一度。

コーヒーが飲めるようになったのは不本意である。

大人になってなりたくないし、ずっと虫網を持って田園を駆けていたい。

コーラで満足できる渇きのままでいたい。

今はこんな記事をコーヒーを飲みながら書いている。

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