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サラリーマンは紅白戦

サラリーマンになって失われたもの


会社で働くというのは、永遠に紅白戦を繰り返すこと

サラリーマンになってはや2か月。私は、会社で働くことに違和感を覚えていた。その正体をようやく突き止めることができたので書き起こしている。この違和感に名前を付けるのに2か月もかかってしまった。

「アイデンティティの消失」とか「駒に成り下がる」とか色んな言葉で表してみたのだが、それとはまた違う。私はバリバリスポーツしていた人間なので、「永遠に紅白戦を繰り返す」という言葉がしっくりきた。

社内競争は、競争とも言えない何か


私がサラリーマンは紅白戦をしているだけと称した理由は

本番がなく、競争の本来の意義を失っていると思っているから。

どんなに結果を出しても「会社の優秀な駒であること」にとどまってしまう。そこに自分の名前はない。

スポーツの場合:身内での競争→対外試合→第3者から個人への称賛
会社の場合:身内での競争→結果を残す身内の評価が上がる

スポーツにおいては、身内での競争を経て、表に立つことができた。表に立つことで、初めて得ることができた競争の味があった。自分が知っている人や親・友人に褒められるのとは違う、もっと本能的な部分にある感情だ。

サラリーマンにおいては、成績も残してもその分の昇給があるだけで、そのまま成績分が反映されるわけじゃない(成果型の会社もあるだろうが)。
成績を残したら身内に褒められて、身内だけのランキングが上がって行く。その結果で名声を得るのは、社長とか役員とか表に立つ人間と会社そのものだけ。

第3者からの称賛がない競争というのは以下のようなものだ。
野球で例えてみる。

9番Pとして出場した巨人の選手が、完全試合+全打席ホームランを達成し、「10‐0」で勝ったとする。選手本人の名前が一切なく、ただ「巨人が10‐0で勝ちました」としか報道されなかったら。

これじゃあ誰もプロ野球選手にはならない。根本的には自分が活躍するためにプレーしているのだから。

別にスポーツじゃなくてもいい、音楽だって外に披露する機会があるから、競争する意義があるのではないだろうか。

紅白戦だってかっこいい


私は冒頭に「会社で働くということは紅白戦の繰り返しである」と述べた。

それは、紅白戦を悪だと決めつけている訳じゃない。紅白戦に意義を見いだして戦っている人間はかっこいいのだ。家族でもお金でもなんでも、何かのために戦える人間はかっこいい。

ただ、私は紅白戦で満足できない気がしている。競争の先がお金だけなら競う必要がないと思ってしまう。全てを自分の責任として、社会という大海原を泳ぎたい。競争の先に自分だけの価値が生まれるのであれば、失敗も厭わない。

そんな物語を夢見て眠りにつく。また明日も出勤だ。おやすみなさい

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