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姫野カオルコ著「彼女は頭が悪いから」(文藝春秋)を読んで

読後の後味の悪さが、「問い」となって我が身に返ってくる。「悪気のない悪意」にどう立ち向かったらいいのか。自分にも「加害性」はあるのか

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「いやらしい犯罪が報じられると、人はいやらしく知りたがる//まず言っておく。この先には、卑猥な好奇心を満たす話はいっさいない」

冒頭、「プロローグ」のアイロニーを含んだ文言にぐいぐい引き込まれた。この小説は、実際に起こった東大生の強制わいせつ事件をモデルにしている。平成31年の東京大学入学式の祝辞の中で社会学者の上野千鶴子さんがこの小説の話をされて話題にもなった。

なので、この小説は読む前から、終盤には強制わいせつ事件が起こることは予想できていた。ページをめくる速度は自ずと早くなる。どうして強制わいせつ事件が起こったのか、知りたいという気持ちがこの小説を読むモチベーションとなった。

物語は、事件の起こる数年前から始まる。被害者となる美咲と加害者となるつばさの視点を交互に、二人が出会う前からと出会ってから、そして事件へとストーリーは続いていく。もちろんこれは、作者の創作だ。

「本書は現実に起こった事件に着想を得た書下ろし小説です。作中人物の行動や心情等は作者の創造に基づくもので、実在の人物、団体と関係はありません」と巻末にはことわり書きがある。ノンフィクションではなくフィクションである、と肝に銘じながらも、リアルに感じながら読み進めていった。

二人のどちらの学生生活に感情移入ができたかと言えば、わたしはやはり美咲の方だった。自己肯定感が低めで、引いてしまうタイプ。これは、自分にも身に覚えがある。不器用でいじらしい片思い。小説を読んでいるうちに、もしかしたらわたしも似たようなシチュエーションになったら、回避できず、事件に巻き込まれてしまったかも知れないと思えてしまい震えた。

一方でつばさの、「悪気のない悪意」には胸が悪くなった。悪気がない、というのは、悪気のある悪意よりも何が悪いのかわからない分、残酷である。この小説で描かれている東大生たちは、みな悪気のない悪意の持ち主であり、自分たちは悪くないと信じきっている。小説の中で、彼らが次々と自分は悪くないと主張している言動がたまらなくいやだった。

東大生たちの強制わいせつ行為は、飲み会を盛り上げるための冗談でしかなかった。決して、性的なことを目的としていない。そもそも美咲に性的な魅力は感じていない。強姦目的は皆無だから逮捕されるのは遺憾である。洋服を脱がせて全裸にし、ふざけただけだ、と言う。

これは、いじめをする人が「これはいじめではない。場を盛り上げる為にいじっただけです。いじられて、相手も笑って喜んでいました」と真顔で言っているのに似ている。そこに被害者の人権はない。美咲には何をしてもいいという加害者たちの見下し方に嫌悪感が沸く。

小説には、やたらと「東大生だから」というマウンティングの話が出てくる。もちろん、東大生が、全員そのような考えの持ち主ではないことは言わずもがなだ。でもここでいう「東大」的なものは他にもあるかもしれない。自分は〇〇だから、と、いう優位な視点で、他人を下に見たり、傷つけたりを無意識にしてしまっていることが、わたしにもあるかも知れない。この小説を読んでいるうちに、そのような自戒を促される気分にもなった。

もうひとつ、この小説で警鐘が鳴らされていると感じたのは、SNSによる被害者への中傷だ。

「インターネットが危険なのは、すべての文字が、均一の電子活字であることだ。対象となる事物事件等についての専門家からの意見も、多角的視野から熟考できる社会人の意見も、若年というより幼年といってよい子供からの、幼さゆえのヒステリックな意見も、すべてが同じ電子活字で、あたかも公的見解であるように表示される」

身につまされた。断片的にしかわからないのに、匿名をいいことにインターネット上で誹謗中傷をするひとたちは、毎日のようにいる。彼等もまた「悪気」はあまりないのだろう。

とにかくいろいろなことを考えさせられた小説だった。もっとも、読後感は爽快とは言えず、いつまでもやもやする。でも、このもやもやこそ、大切にせねばと思う。

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