「私のことどれくらい好き?」「これくらい」「えーそれだけ?」「じゃこれくらい」と手を広げるやりとりはあながち間違ってはいないと思う。

好きの深さは計れない。
好きの大きさは計れない。
好きの重さは計れない。
でも私の好きの感覚は、深くて大きくて重いという自覚がある。
所謂女の子特有の「好き」「可愛い」を信用していないのと同じように
私の好きもそんな軽く思わないでほしいと思ってしまう。

ある飲み会での出来事。
知らない女の子が知らない友だちの友だちに誘われてきていて、その子はとても可愛かった。
はじめましてとの挨拶からその子は私と話すことはなかったけれど、誰かとの会話から「Perfumeが好き」という話題になったようで、それを聞いていた友だち(男)が「お前も好きだったよな?」と話を振ってきた。
「えーそうなんだー!」なんていい反応なんだと感心するほどの愛想の良さから話が弾むかと思ったら「ライブ行った事ないんだけどねー」という彼女の一言で、この会話は終わった。
浅い会話しか出来ないと思った。
私の好きと彼女の好きの違いをたったこれだけの会話でわかった。 その浅い好きを聞くより話をやめることを選んだ。

私の好きを吐き出す場所はここではないと心を閉ざしてしまうのはよくない癖だが、そんな人たちに私の好きをわかってもらいたくはない。
だって私の方が絶対好きだもん。
勝ち負けじゃないけど、同じくらいの好きを持っている人と話を共有したい。
共有出来なくても好きの深さを理解してくれる人と話がしたい。
そう思うようになってから、女の子とより男の子と話す方が楽しく思えた。
女の子は論理的な話が苦手でしょ?もっと直感的に出る言葉を信じてるでしょ?
だからなにも考えずに笑ってくれる、お前って面白いよなと言ってくれてる、男の子が心地よい。

なぜ好きなのか、どこが好きかと論理的に考えて好きを深めていく。すると不思議なことに、好きと好きが繋がることが多いのだ。その時に私は自分の好きが間違っていなかったのだと嬉しくなる。
好きを一つでも深く濃くしていくことで、その好きを自分の周りに置くことで、自分が形成されているような気がしている。より自分がわかっていくような気がしている。
自分のことが大嫌いで自分のことを愛せない私にとっては、好きなことをより好きになっていくことで擬似的に自分を好きになれていく。そんな風に外堀を固めていくことでしか感じられない自分。

自己分析をするのもよくない癖だ。
自分の意思も何もなかったあの頃を飛び出したくて逃げてきた結果がこうなった。
なんで自分は…と悲観的になるよりその状況を冷静に客観的に考えていく方が自分の逃げ道になれた。
そうしていた結果、変なところで自分を過信するようになり、また生きづらさを感じてはいるが、間違ったことはしていないと思うので、この感覚を赤裸々に話してしまう。自分をわかってほしくて、浅い会話からこのことに触れてしまうと大概は引かれる。男の子でも関わりが薄い相手だとこう言われる。
「おれの好きなことはそんなに語れないわー。」
いや、それは求めていないけどね。
共有はしなくていいから私を否定しないでと思う。
でもそこまでの理解なら関わる必要もないとまた心を閉ざす。なんて生きにくい世の中なんだろう。
やはり私は普通ではないなと思う。
自分があまりにもなく
自分を愛せなかった私は
誰に依存することで生きようとしてみた。
でもそれは苦しく、辛く、誰も想いやれなかった。相手も自分も。
なんとか自分を愛せる方法を探した。 好きを埋めていこうと行動を惜しまず生きてみた。
そしたら自分が強くなりすぎて共有されなくなった。
どうやって誰かと手を取り合っていくのだろう。
好きなことが増えても誰かの気持ちには触れられないのか。

目で観て耳で聴いて手で触れて足を運んで。
体に好きを流し込んでいく。
また今日も好きを自分に落とし込み納得し消化され吸収されていく。
あと何回この作業を繰り返したら
あと何回この感覚を味わったら
誰かに愛してもらえる?


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