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『ソーシャル・ネットワーク(2010)』分析

2010年に公開された『ソーシャル・ネットワーク』について。監督はデヴィッド・フィンチャー、脚本はアーロン・ソーキン。ハリウッドにおいては言わずと知れたスター作家の二人である。映画における作家性はおおよそ監督へと還元されていくのが通常的な批評の手続きであり、好むと好まざるとフィンチャーはその点において間違いなく現代アメリカ映画を代表する作家の一人であると言えるだろう。『ファイトクラブ』のような90年代の作品のMV監督出身らしいスタイリッシュな映像を元手にゼロ年代後半以降は徹底した潔癖な画面づくりを目指す作家へとモデルチェンジを果たした感がある。VFXで白い息を足し、テイクにテイクを重ねて完璧な映像、ショットのバランスを探り、ポストプロダクションにおいてはスプリットスクリーンと呼ばれる方法で、画面の左右の演技をコンマ単位でずらすのはそうした姿勢の極地であると言える。その一方のアーロン・ソーキンである。監督にこそ作家性を還元していく映画批評の方向づけの中で、このソーキンの脚本書きは異彩を放っている。アカデミー賞を中心に賞レースを賑わせていた本作だが海外エンターテイメントを取り上げる際のミーハー的な姿勢が目立つ日本の報道番組においてもその台詞量の異常な多さをフィーチャーする形での特集が組まれていた。彼のフィルモグラフィーを遡れば法廷劇『ア・フュー・グッド・メン』、本作ののちに手がける『マネーボール』『スティーブ・ジョブズ』等含め、俳優の限界を試すような大量のダイアローグでもって構成するドラマ作品を生み出してきた人物である。「あなたがモテないのはオタクだからじゃない、サイテーだからよ」という一説でミーム化が進んだ有名な冒頭の恋人とのシーンはそうした彼の作家性を如実に示すものだろう。わずか4分程度の会話シーンでありながら、10ページ以上の脚本が用意されるこのオープニングは、Facebookを立ち上げた孤高な天才としての色を強めていく主人公のマーク・ザッカーバーグが、必死に世界との接続を目指す絶望的な試みに映っている。その出来事に端を発する彼の青春の物語がこの『ソーシャル・ネットワーク』だ。この実際の人物を大胆に再構成し脚色することで、ソーキンが自身の方へと物語を手繰り寄せた印象で、本作で描かれる彼の人物像が創作であることを製作側もはっきりと認めている。本作は、そのことによって歴史修正的であるとの批判も時折受けながら、当事者の証言に乏しくザッカーバーグ本人の協力が得られないこと、というよりも得ないことで、この新世代の億万長者をどのように解釈したかという点において、本作は実に興味深いアンサーを示すものになった

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Twitter上でも有名なこちらのシーン

ここまで前置きが長くなったが、シーンの分析へと話を映すことにしたい。事実関係を確認するまでもなく、はっきりと脚色が施されているのは中盤、振られた腹いせにブログで誹謗中傷を重ねたエリカへと謝罪する場面だ。2分程度の小さなシーンであり、パッと見ると何もないようなシーンにもフィンチャーの技巧は光っている。サイトの立ち上げで一定の成功を手にしたマーク一行はグルーピーを手に入れ、ひとまずの承認欲求を満たすのだが、あろうことかその場でマークは元恋人のエリカを発見してしまう。明らかに作為的な遭遇であり、現実にこのような出来事が起こっていないことは想像するに難くない。だがつまりはこのような作為が施される瞬間にこそ作家側の解釈が顕在化するのであり、この場面においては、グルーピーを持つことで満たされる欲求とは本質的に別種の何かが、マーク・ザッカーバーグを突き動かしているというその解釈を強めている。望遠レンズでその姿を遠くにとらえ、すかさず不格好に立ち寄っていくマークとそれを見つめる親友のエドゥワルドのショットが挟み込まれる。声をかけられたエリカの反応は冷ややかだ。エリカがマークへと気づいて振り向く場面、比較的に広角のレンズが用いられていながらも、彼の顔がフレーム内に立ち入ることは許されない、胴体だけの存在として切り取られ、全身をエリカによって下から一瞥されるに留まるのみだ。めげずに心底どうでもよさそうな小話から気まずく会話を始めるマークの切実な思いは届かない。見下ろすようなカメラワークの機械的な働き−すなわちカメラがより高位なら被写体は弱者、より低位なら被写体が強いという通常的な映像演出における文法を指すことにしたい−を瞬時に覆してしまうほどの、エリカの軽蔑を表出する態度は、それを演じるルーニー・マーラのカメラと被写体の位置関係を逆転させてしまうような仰け反った姿勢によって支えられている。一方下から捉えられている−それは強者の記号となり得るはずのものだが−マークが見せる佇まいは一貫して弱々しい。ボカされていても逐一鑑賞者の注意を刺激する程度にははっきりと画面内に呼び込まれている友人のグループを奥に従えているエリカ、そしてそれとは対照的にマークのショットにはピンボケした高い屋根の建造物が虚しく映り込むにとどまっている。

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奥に映る友人がいちいち気になるこちらのショット

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下から捉えられる怯えたマークの表情が印象的

二人だけでどこかで話をというマークの願いははっきりとその意思を強化したクロースアップのエリカによって退けられ、その後、何度にも渡って拒絶される。謝罪のニュアンスを匂わせても、エリカは取り合おうとはしない。会話がいよいよ不穏な雰囲気を帯び始めると再びマークの背景から捉えられた広角のエリカとその友人を従えたショットが示される。その背景の友人たちがじわりじわりと二人の輪の中に浸食を始めているのだ。ここで再び遠くから見つめるエドゥワルドのショットである。会話の一端すらも聞こえない位置で見つめているはずの彼にも、その雲行きの怪しさは届き始めている。ショットがテンポ良く刻まれることで、爆弾には火がつけられた。ソーキン脚本全開の、ルーニー・マーラによる早口の応酬が始まった。エリカがブラのサイズへ言及するとついにその友人へとショットが割り与えられ、軽蔑の表情を見せる。こうしてマークは更に苦しい立場へ立たされ、そしてついに友人によって口が挟まれる、「エリカ、大丈夫か?」と。ゲームオーバーである。切り替わったショットで見せるジェシー・アイゼンバーグの目を細めた表情が、実に雄弁だ。友人が会話に侵入してくるか否かという些細な事象にサスペンスを委ねこのマークにとっては一世一代のスリリングな会話シーンを展開させきったのである。この辺りの技巧はやはり監督のフィンチャーに一定のクレジットを与えるべきであろう。この場面はグルーピーを従えて一旦の成功を勝ち取ったマークは再び挫折させられ、事業のさらなる拡大を決意するという方法で、物語のさらなる展開を導いている。このエリカとの物語はエンディングで再び繰り広げられ、Facebook上でエリカを見つけたマークは友達申請を送り、ひたすらページを更新し続ける中で映画は幕を閉じる。実はエリカ自身の登場時間は冒頭と、この取り上げた場面だけであり、極めて少ないものになっている一方で、Facebook創立に至る物語全体の展開をこのエリカという人物に依存しており、そのことから本作で彼女がマクガフィン的な役割を背負わされていることを指摘できるだろう。そしてそれは制作チームによる、おそらく脚本のソーキンによるところが大きいマーク・ザッカーバーグという人物解釈の現れでもある。それははっきりと認められているように創作であるかもしれないが、その大胆な解釈によって導き出された、世界一巨大なオンラインコミュニケーションプラットフォームを立ち上げた氏の達成を、いち若者の気まずい関係、そしてそれを掴もうとする切実な試みへと揺り戻す筋書きは、同時に少なくとも、極めて優れたそれであると言えるだろう。


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