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資本主義の空間――アイザック・ジュリアン 『プレイタイム』

ベルリンのPalaisPopulaireで公開中の、アイザック・ジュリアン『プレイタイム』(2013年)についての考察。

展示の構成

本個展は二部構成で、手前の展示室にはタブロー的な写真作品、奥の上映室には3チャンネルのビデオインスタレーションが設置されている。

写真作品はビデオに登場する人物たちのポートレート。光沢のあるアクリル板にプリントされているため、表面には展示室の蛍光灯や観客がくっきりと映り込む。円形のポートレートは西洋絵画の伝統的な形式であり、また人物の後ろ姿が配された大判の風景写真はドイツ・ロマン主義の画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの風景画の引用である。さらに格子のコンポジションがモンドリアンを思わせるなど、美術史の文脈がふまえられていることが分かる。

Fig. 1:右の壁には登場人物たちのポートレート。正面の壁に掛かる大判の風景写真には、遠景を眺める人物の後ろ姿がとらえられている
Fig. 2:霧に沈む街並みを眺めるメイド姿の人物

ビデオは長さ65分。3つのスクリーンが観客を囲むように湾曲して配置されている。イマーシブ型ではないが普通の映画鑑賞とも異なり、観客には3つのスクリーンの間で自主的に視線を移動させることが要求される。

5つあるエピソードに登場する人物たちは、みなそれぞれの立場で資本主義の影響下にある:

  1. バンカーとヘッジファンドマネージャー:ロンドン金融街。高層ビルの上層にある広大な空っぽのスペースで、バンカーとヘッジファンドマネージャーが新たに立ち上げるファンドについて話し合う。二人は資本主義を神秘的なものと崇拝しており、話す内容には全く説得力がない。

  2. アーティスト(イカロス):2008年に空前の経済危機に陥ったアイスランド。霧に覆われた荒涼とした風景の中に建つ、インダストリアル・スタイルの住宅の廃墟。その中をアーティストが徘徊しながら、抵当に入れていた家だけでなく家族までも失ってしまった身の上を回想する。黄色い円形の窓の前に佇む姿は、太陽に近づきすぎたために墜落したイカロスを象徴する。

  3. アートディーラー:ロンドンのブルーチップ・ギャラリー(安定して高値で取り引きされる有名アーティストの作品を扱うギャラリー)。モダンなホワイトキューブの空間をアートディーラーが闊歩しながら、次はどの作品が高値で取引きされるかを推測する。

  4. オークショニアとテレビレポーター:ロンドンのオークションハウスPhillips de Pury & Companyの、カラフルなガラス板で仕切られた、洒落たオフィス。有名オークショニアであるシモン・ド・ピュリーが誇張された本人を演じ、マギー・チャン演じるテレビレポーターに、法外な金額が動くオークションの舞台裏を明かす。

  5. ハウスメイド:家族を養うためフィリピンからドバイへと出稼ぎにやってきたハウスメイド。アラビアの砂漠、超近代的な都市、超高層ビルの高級アパートといった空間が、孤独な女性の牢獄として描かれる。下町の教会だけが彼女にとって唯一の救いの場である。

Fig. 3:上段左から:アーティスト(イカロス)、ハウスメイド、オークションのハンマー、オークショニア、TVレポーター/下段左から:ヘッジファンドマネージャー、バンカー、バンカーの椅子、アートディーラー

作家について

アイザック・ジュリアンは1960年、ロンドンのイーストエンドでカリブ系移民の家族に生まれる。80年代にはロンドンの名門美術校セント・マーチンズ・スクール・オブ・アートで映画を主専攻とし、当時隆盛であった「構造主義的映画分析」ならびに「反-物語」的な映画論を学ぶ。マルチチャンネルのビデオインスタレーションを得意とし、黒人、ゲイ、労働者階級出身としてのアイデンティティと向き合いながら人種差別、移民問題、ホモフォビアといったテーマに取り組んできた。今作では、人々が故郷を離れ移民となる要因のひとつでもある「資本」をテーマとしている。

資本の可視化

『プレイタイム』の発表は2013年。その5年前に起きた世界的な金融危機(リーマンショック)に対する反応である。「資本」は重力と同じで、その影響を通じてしか目で見ることができない。その目に見ることのできない資本を、ジュリアンは視覚芸術にどのように「可視化」したのであろうか。ここでは二つに分けて考える:一つは「社会階層の提示」で、ストーリーを通じて資本主義社会のヒエラルキーを説明することによる可視化。もう一つは言葉による説明ではなく、ビジュアルで資本主義的な「空間を提示」することによる可視化で、とりわけ都市の人工的な「建築空間」、そして人間を凌駕する荒涼とした「自然空間」を、資本を象徴するイメージとして見せている。

社会階層の提示

金融危機で膨大な利益を得る者、すべてを失う者、フリーライダー、オブザーバー、搾取される者。資本が生み出すヒエラルキーを提示するため、登場人物はわかりやすく類型化されている。勝者であるファンドマネージャー、アートディーラー、オークショニアの語る内容はひたすら荒唐無稽であり、そこに敗者であるアーティストやハウスメイドの悲壮な物語が加わることで、資本の不条理さがより際立っている。

空間の提示

本作は、フランス人監督ジャック・タチによる同名の映画『プレイタイム』(1967年)へのオマージュである。タチの『プレイタイム』は、鉄・ガラス・コンクリートでできた無機質な都市を舞台とし、近代的な労働の世界をユーモラスに描写する。

タチの『プレイタイム』にある箱形のオフィスを、ジュリアンは大型コンピューターに置き換えている。このシーンはタチの映画との関係において最も直接かつ示唆的な引用となっている(Fig. 4, 5)。

Fig. 4:ジャック・タチ『プレイタイム』1967年。箱のようなオフィスに閉じ込められ疎外される労働者たち(YouTubeからのスクリーンショット)
Fig. 5:アイザック・ジュリアン『プレイタイム』では、労働者がアルゴリズムに置き換わる

ジュリアンの映像では、ビル上層階のがらんどうのオフィス、未完成のまま廃墟と化したコンクリート造りの邸宅、モダニズム様式のアートギャラリー、ドバイの超高層マンションといった、資本の影響を示唆させるような空間が美しく展開される。建築空間をまず提示し、その中にうごめくものとして人間の活動や資本の流動を捉えようとするアプローチは、巨大なセットを主役とし、その中に無名の群衆を配置したタチの空間性とも共通する。

Fig. 6:ロンドン金融街のがらんどうのオフィス
Fig. 7:空前の金融危機後のアイスランドで、アーティストが徘徊する家の廃墟
Fig. 8:ハウスメイドが働く、ドバイの超高層マンションの部屋

さらにジュリアンのカメラは、地熱パイプラインや配電塔などのエネルギー網、ドバイのメトロや都市高速道路といった交通網、お金の流れを示唆する株式市場の電光掲示板などを追う。これらのイメージは、ネットワークを通じてグローバルに流動し、現代人の生活を加速させるもの――資本――を象徴する。

Fig. 9:ドバイの高速道路に重ねられてスライドする株価

内省にふける孤独な個人

本作では遠方を望む人物の「後ろ姿」のイメージが繰り返されるが、これはドイツ・ロマン主義の画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの風景画の引用である。

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ:左から『雲海の上の旅人』1818年、『朝日の中の婦人』1818-1820年

フリードリヒが荘厳な自然と対峙する人物を描くことで、自分の心の奥底を探り内省にふける孤独な人間を表現したのと同じく、アイザック・ジュリアンも廃墟を徘徊するアーティストや、広大な砂漠を彷徨い、教会で聖書を手に宗教的な瞑想に浸るハウスメイドを描くことで資本主義下の「個人の内面」に焦点を当てる。

ロマン主義とは18世紀ヨーロッパに興った文化・精神運動で、個人の主観を重視し、自我の解放と確立を目指す。その背景にはフランス革命後の市民階級の台頭、産業革命後の資本主義の発展があり、それ以前の貴族的な社会・政治規範への反発、ならびに産業革命の進行による科学的合理主義や理性主義への反発を原動力とする。つまり資本主義的な近代社会がもたらすあらゆる要素を源としているのがロマン主義であるといえる。

ジュリアンの繰り出すイメージでは、ドバイの超近代的な街に対する砂漠、レイキャヴィクのモダンな現代建築に対する荒涼とした自然などから、一見、都市と自然とが対立項を成しているかのように見える。しかし実のところ、それらは現代人にとって二項対立的に分離されるものではなく、同じ事象――資本主義――の表と裏なのである。

Fig. 10:アイスランドの自然に対峙するアーティスト
Fig. 11:アラビアの砂漠をハウスメイドが彷徨う
Fig. 12:教会。ロマン主義的な瞑想空間、あるいはマルクスの言うところの疎外された世界における「大衆のアヘン」としての空間?

自己言及性とアート批判

作品には、全エピソードを通じて「アート」への言及がみられる。ドバイの高級アパートにはアート作品が所狭しと並べられており、またアートディーラーやオークショニアはアート市場がいかに荒唐無稽な原理で動いているかを饒舌に語り、とりわけアートディーラーは、ビデオアートこそが次の商機であるとまで言い放つ。このようにビデオアートが批判的な自己言及をすることで、作品は作者の手を離れ、自律性を獲得する。

展示にまつわる外的要素も興味深い。会場のPalaisPopulaireは資本を操るメガバンク、ドイツ銀行が運営するアートスペースである。ここでは、ドイツ銀行が収集する現代アートコレクションでの企画展が行われることが多いが、本作『プレイタイム』は、ドイツの企業家ハイナー・ベムヘーナーの個人コレクション(Sammlung Wemhöner)からの貸出しである。ベムヘーナーといえばベルリン・ノイケルン区の古いダンスホールを買い取って改装し、自身のコレクションを展示するための個人美術館を設立しようとしている人物であるが、コロナで工事が遅れ、完成まであと2年ほどかかるとされている。この空いた期間にベルリンの一等地にあるドイツ銀行での展示の機会を得たのだろうか。一般的にコレクターは自身のコレクションの価値を高めるため、作品を好んで外部機関に貸し出すともいわれる。

またジュリアンはインタビューで、自身もビデオアーティストとして完全に資本に依存した存在であると告白する。文筆家であれば紙とペンさえあれば作品を生み出せるかもしれないが、映画には多くのスタッフや高価な機材が必要で、原資、つまりコレクターやパトロンからの支援がなければ制作できず、ビデオアーティストとして存在することすらできない。

作品を取り囲む、作家の操作が及ばないような周辺の事象までもが、作品が訴えるアート批判に包含されてしまう。このように、あらゆる矛盾を取り込んでしまうことのできる技量こそ、アイザック・ジュリアンが一流たる所以なのであろう。

↓ ベムヘーナー・コレクションのキュレーターによる作品解説(PalaisPopulaire公式チャンネルより)

展覧会情報
Isaac Julien "Palytime"
PalaisPopulaire, Unter den Linden 5, 10117 Berlin, Germany
2023年3月8日〜7月10日
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Header: "Isaac Julien, Palytime, 2013", photographed by the author
Fig. 1 -3, 5-12: "Isaac Julien, Palytime, 2013", photographed by the author
Fig. 4: a scene from "Playtime" (1967) by Jacques Tati (screenshot from YouTube)

追記:アーティスト(イカロス)のエピソードは、滴り落ちる水、妻の幻影、宇宙ステーションの丸窓といったイメージ、そして人物の動きを交錯させ時空を歪ませるように繋がれたカットから、アンドレイ・タルコフスキーの映画、とりわけ『惑星ソラリス』を強く想起させる。このタルコフスキーとの関連について確信が持てず、今回のテキストにうまく組み込むことができなかったことを、忘備録として記しておく。

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