[闇の話]合理と非合理の境目

関東の、おおよそ治安の悪い地区の公立の中学校で、さして勉強が好きではないような集団の中の私は、真面目なハーマイオニーだった。
その気質は小学生時代から受け継がれていたので、だから体育と美術を除いた成績がオール5であったし、当時のわたしはそれがとても気に食わなかったのを覚えている。
体育は諦めがついたけれど、美術だけは納得がいかない。

中学生の頃の美術の成績の判断基準がわからなかった。

美術は主観である。
先生の主観がわからなかった。
思うに先生は、"外見の美醜"で成績を決めていたのではないかと疑いたくなるような、喩えるならばホグワーツのスネイプのような人であった。
そして当時の私は家庭環境のとても大きなストレスと思春期で、外見が優れてはいなかった。

だからどうすればいいか考えて、色彩検定を受験した。
中学生でそんな資格を取ろうとする生徒はいなかったし、簡単だったのですぐ取得できた。
受かった月から先生の態度が変わり、3だった成績がいきなり5となった。

たった数千円で成績が買えた。
非合理のなかの合理をみたはじめての経験である。

前回は贈与論を読んで恋愛を考えた。
今回は、私の過去の闇と出会いたい。

合理の行き着く先


豊かさとは、一見して無駄と思える行為の中にあるものだ。
合理的でないということは、とても贅沢なものである。
それは、たとえばロッカクアヤコも、京都も、ラデツキー行進曲もそうである。

しかし、合理的な社会も悪くはない。
なぜならば少ない労力で多くのものが手に入り、人生の"時間"を有効活用できる。
東京はとても合理的な街である。

そうして私は合理的な決断を連続して行った結果、そうしてできた時間を使って、物心ついたときより好きだった非合理が、今ではより好きになったといえる。

この決断は中途半端ではいけない。
非合理で生きる時間はとことん非合理に
合理の時間は、突き抜けて合理的でなければならない。

合理的な行動は、物質的に豊かになる。
非合理的な行動は、人の心を豊かにする。

物質的に豊かになれた人は非合理の社会に惹かれる人が多い。

恋愛という非合理の社会の住人になる時もまた、非合理でなければならない。
何か素晴らしい資格を持っていない限り。

ここから先は私の過去のどうしようもない闇と呪いの話。すごく個人的だから鍵をかけるという意味で100円がかかってるけれど、そのお金は子ども食堂に寄付してます。

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