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ヒトがいなくなればいいと思った話 キルケゴール

東京に雪が4年ぶりに降った翌日は七草粥を食べる日だった。
焼き芋も美味しい季節で、ホカホカでうれしい。

お正月に食べたものを消化するための日だから、私も消化出来ないものを消化する日にしようと思う。

今年日枝神社で初めてひいたおみくじは小吉で、
「覆いかぶさっている枝葉末節に心を奪われていては何事もなし得ない、拘束されていればいくらでも眼を苦しめ心を憂鬱にする。達観の芽生えが、運の芽となって前途は開ける。」と書いてあった。

達観の芽生えが必要なのは解っていた。
達観とは哲学の事だ。

だから、今日は哲学をすることにした。


なぜ生まれてきたのだろう

わたしの記憶に残っているなかで、初めて母親に発言した言葉は「生まれてきたくなかった」である。

両親は離婚していた。
だから軽自動車の中で、タバコを吸いながら悪態をつく母親に向かって投げた言葉は、今思えばとても酷い言葉だった。
この先起こり得る多くの不利益を"最悪だ"と感じ取って発言したことを覚えている。

人生で最初の絶望は4歳だった。
焦りと怒りと悲しみに満ちた当時の母親に向かって投げた残酷な言葉は、"こどもに悪霊が取り付いている"とお祓いをされて無かったことになった。

生まれを憎んだ次に憎んだのは、"大人の男性"である。

連れ子として生きるのは大変だったから16歳くらいまで大人の男性が嫌いだったし、近づきたくはなかった。
大人の男のヒトは皆いなくなればいいと思っていたし、そこにすがる母親を、当時の私は無責任にも最悪だと思った。
私が生まれなければ、母親はこんな思いをせずにすんだのにとも思った。

貧困地帯で"叫ぶ"と、だいたい同じような子が集う。
その子から発せられる歪みがわたしよりヒドイと、どうしていいのかわからなくなった。

だから嫌いである。
お金がないだけならなんとかなる話が、人が貧困になるとなぜか汚れてしまう。
すると残酷なことが起こる。

貧困地帯の友人の1人は、火傷を腕に負っていてとても痩せていた。
連絡が途絶えた今はどうしているのかと時々思い出すことがある。

歪んだ教室

お父さんが変わる度、だいたい2年に一度以上転校をするから、たくさんの地域の"教室"をみてきた。
その中で、1番の歪みを今日思い出した。

小学校4年生。
隣の教室にいた小頭症の女の子で、知能がおそらく遅れているのに普通学級に通っていた。
隣のクラスにその子はいたけれど、その光景は"最悪"だった。
その子に向かって投げつけられるゴミや罵声や暴力が日常になっていて、その光景の意味が私にはわからなかった。

その子は日常を薄ら笑いを浮かべて受け入れていて、時々隠れて涙を拭っていた。

集団を前にどうすることも出来ない担任と、1番後ろの席のその子が気がかりで、私は"好きだよ"とだけ手紙を書いてそっと机に忍ばせた記憶がある。

集団が暴走すると怖さを感じた。
だから私はなにもせずに、毎日繰り返される隣のクラスの惨劇を見なかった事にした。
友だちと談笑しながら足早にそのクラスの前を通り過ぎた。

そこで私は転校をしたのでその後その子がどうなったのかはわからない。

中学校では集団の憎悪が教師に向かうこともあった。
教師が高圧的な態度で粛清する。
今思えば"ツッパリ時代に窓ガラスが割られていた学校"で、生徒になめられては大変なことが起こると身に染みていた先生達が取り仕切っていた。

その粛清は気に入らない生徒を教室の外まで飛ぶ勢いで叩いたり投げ飛ばしたりする方法であり、子どもを極端に萎縮させた。
その先生への仕返しが"ゴミの入った給食"として提供されたことに、先生自体が気づいていたかは不明である。
そのゴミ入り、またはチョークの粉入り給食を先生が食べるのを見て喜ぶ歪んだクラスに私は馴染めなかった。

かといって殴る先生と歪んだ仕返しを"誰かへの告げ口"という形で止めることなどできる勇気もなかったから、勉強に逃げていたのかもしれない。
耳を塞ぐために本を読んでいた気がする。

そんな世界が嫌いだった。

好き

中学3年の夏に転校をしたから、人生で初めて男の子と手を繋ぐこととなった。
その人はタイからの帰国者で、私と同じ日にクラスに来た転入生だった。

彼はクラスでは特別な存在で、"あの最悪"が私の中で何故か蘇った。

"ショッカー"という謎のあだ名をつけられて、いじられて、ヘラヘラ笑う彼から危うさを感じたから、今度は手紙ではなくみんなの前で好きと言った。

その日からショッカーは私の彼となって、隣で手を繋いで帰ることとなった。

ショッカーはとても喜んでくれた。
隣のクラスの人達が私の元に、「本当か」と訊ねに来た。

テスト中に鉛筆の音だけが響く教室で、担任が少し大きめの声で
「ショッカーと付き合っているのか?」
と質問してきたことが印象深い。

なんと答えればいいのか解らなくて、テストに集中しているふりをしてはぐらかした。

机をコツコツと叩かれながらその質問を3回ほど無視したので、とても複雑だった。

そこで、"はい"と答えたらどんなことを先生は言うつもりだっただろう。
"付き合う"とは何を指す意味なのだろうか?
どこまでしたら付き合うことになるのだろうか?
"いいえ"と答えたらみんなはどう思うのだろうか。

少し難しい問題を解きながら、先生から突然受けたその質問の意図が分からずに沈黙した。

なぜテスト中に全員の前でその質問をしたのだろうか?

正解が解らなくて躊躇った私の反抗的な空白を、皆はどう捉えただろうか。

私の公開処刑は不意に訪れたチャイムで終了した。

あの時余計な事は考えずに、ただ単純に"好きです"と答えればよかった。
タイ料理のヤムウンセンを食べながら好きな子の思い出話を楽しそうにする人をみてそう思った。

英雄のポロネーズ

好きな音楽をきかれると困る。
音楽はどれも一律好きだからだ。
花がどれも綺麗に見えるのと同じ感覚に近い。
音楽に込められた想いは作曲者の魂で、音を決める行程や詩の選び方、何度繰り返し楽譜とにらめっこしたのだろうと想像すると、優劣がつけがたくなる。


ショッカーが弾く英雄のポロネーズを何度も教室で聴いた。
彼はピアノがとても上手で、リクエストがあればマリオや流行の曲を混ぜて、"ハラミちゃん"のようにアレンジを加えながらなんでも弾けた。
何時間練習したからこれができるようになったのだろうと思うと、そんな彼をカッコいいと思った。

平和で面白い最高の時間が訪れた。
あのクラスはみんなが本当に仲が良くて最高のチームだったから、私はとっても幸せだった。

中学の卒業文集でショッカーは、いわゆる"縦読み"を使って私への愛を書いてくれた。

私は中学3年生の三学期という絶対にくる終わりを計算して好きだといったから、すごく申し訳ない気持ちになった。
そして私は、私の闇を彼にぶつけるだけぶつけて、彼をサンドバッグにしたことを後悔している。
彼は私の闇をただひたすらに聞いてくれる、とてもカッコいい人だった。

彼が弾いていた英雄のポロネーズは今でも一番好きな曲である。

それは彼がとても幸せそうに弾いていたから好きになったのかもしれない。

経験と真理

ヒトの醜さが狂気を帯びるのは何故だろう。
私はとても醜い感情になる時があった。
ストレスが由来なのかもしれない。

もしもヒトが極端に減った先は何が起こるのだろうか?
世界の醜さと憎悪と飢えと不幸は減るのだろうか。

"人口が地球の資源に対して増えすぎている"という思想は私が産まれる前から盛んだった。
技術の進歩によって世界は良くなったのか疑問が残る。


哲学者のデカルトは、この世界はもしかしたらすべて幻影が作り出しているものかもしれないといった。
今は夢に居るだけなのに気がついていないだけであると疑いだしたら、全てが無かったことになってしまう。
だから有名な"我思う故に我あり"が生まれ、思っている私がいることは真理であるとした。

だからヒュームによると疑えないものは私だけであり、私という存在は結局のところ快・不快の知覚の経験の継続で生じる擬似的な感覚にすぎないという。

経験が全てなのである。

みんながしているような経験の話でしか共感は得られない。
だから経験をすることが大切である。

快・不快。
その感情は線虫にもみてとれると「Cell Reports」に2015年に公開されたが、カントによると、概念はヒトの共感(共通の経験)にのみ真理であり、ヒト以外の生物とは共通の経験の形式が一致しないために、真理を共有できないとした。
つまり線虫の世界とヒトの世界は、同じ世界をみても感じ方が異なるから、世界の真理とは私がヒトであるなら、ヒトの間のみで共有されることとなる。

火の中にでも入って助けられる人を考える

自分が火の中に入って助けてあげられる人、火の直前まで行けるくらいの人、遠巻きに見ているだけの人
に振り分けてみると面白いらしい。

私は確実に自分の子どもが火の中にいたら飛び込むだろう。命と引き換えに助けられたら喜んで飛び込むだろうし、引き換えにならなくてもそれは有意義な決断だと思う。

逆に私が火の中にいたら誰も来て欲しくないと思うと同時に、来る人はいないのかもしれない。
それでいい。

個人がそのために死ねるもの
それこそが真理だ

私にとって真理だと思えるような真理
私がそのために生き、そのために死ねるような真理
そういう真理を見つけることこそが重要とキルケゴールは説いている

大切な人の話をしているヒトの顔を見るのが私は好きだ。

あなたは火の中に飛び込めるだろうか

おまけ

雪が降ると思い出すことがある。
小学校低学年の頃に首から提げていた家の鍵をなぜか家に忘れてしまった。
安いアパートの1階の玄関の前でいつ帰って来るかわからない親の帰りを座って待っていたら、雪が降ってきたからとても寒くなった。
ただ待つだけしかできない私は、ランドセルを横に置いて本当にただ外で座って待っていた。

すると知らないおばあちゃんがどこからか現れて、おばあちゃんの家で暖房の前に座らされて焼き芋をご馳走になった。

そのお芋は今でも記憶に残るくらい美味しくてボロボロ泣いてたべた。


私の美味しいお芋ランク1番の話。

哲学の世界ではヒトのことだけを考えることが真理となる。

神という"ヒト以外の超越したもの"はヒトと真理が違うから見えている世界が違うのだろう。
そしてその世界は神にしか解らなくて、だからヒトは祈るしかない。

深淵をのぞく時、深淵もまたこちらを覗く
私は小さい頃に深淵を覗いてしまっているのかもしれない。

選別されたヒトが暮らす社会は平和になるだろうか。
魔女狩りや戦争、アウシュヴィッツ、コロナ、自然。
今までも選別されたヒトが生き残ってきた。

神はなぜヒトを助けないのかという疑問に対して、地球を守っているからと答えた友人は、36歳だけど毎日楽しそうにスプラトゥーンをして過ごしていて羨ましい。

ヒトはヒトの繁栄のためにSDGsを作ったけれど
SDGsはヒトが全滅すれば解決する

今日のお賽銭は100円にした。

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