年末年始の振り返り

年が変わり、2024 年が始まった。このお正月は久々にお正月感が強かった気がする。去年の末はあまりにも忙しくてストレスが強まっており、年末年始のワクワク感は薄かった。卒論が納得のいく形に全然なりそうになくて研究の果てしなさを感じ、とても仕事としてできる気がしないと思った。友人たちと忘年会をしたことでかなり元気を取り戻せたので今は落ち着いている。人と会うこと、話すことのポジティブな威力を改めて実感した年末年始だった。

年末は紅白歌合戦を録画だけした。録画しているなら全く生で見ようとしない。両親はあまりにもいつも通り、何もないように自分の部屋にひきこもって早く寝るものだから、年末感が薄かった。でも親は年だからそういうものなのかもしれない。年末年始の雰囲気を全力で醸し出して楽しみたいのは私だけらしい。私は電子年賀状を数十枚書いていた。喋らなくていいので簡単だ。疎遠になってしまいそうな友人が何人かいて、新年の挨拶くらいしておかないといけないと思った。夜ふかしして、日付が変わったらなるべく早く年賀状を送れるようにした。

年始は祖母の家へ行った。親は行く気が無かったそうだが、私が行こうと言ったから行くことになった。正月は祖母の家にいとこたちも来ると聞いていたので、行きたかったからだ。いとこは年上が多く、長らく会えていない。昔は正月に祖母の家に親戚一同が集って新年会をするのが当たり前だったけれど、コロナの流行を機にそれが当たり前でなくなってしまった。親は私に「いきなり行くのは失礼やから事前連絡しろ」と言っていたが、ふらっと集まることの何が悪いのかぜんぜんわからないし、ご飯のことなら私はいくらでも手伝うしええやろ、と思って連絡なしで行った。いとこたちに会えなかったらそれはそれで仕方ないな、くらいなノリだったし。私は計画性はなくてその時のテンションで動く生き物なんだなと改めて思った。ちょっとした違いを怒るのって、命もかかってないのにおおげさやなと思う。違いを楽しむことはそりゃ難しいと思うけど、そんなにムカムカするのもなんかなあと。

祖母の家にはやっぱりいとこたちもいた。いとこたちの到着は私の到着より遅かったものの、長時間話せてすごくよかった。おせちやお雑煮を食べ、旅行や音楽の話をした。私は祖母の家での新年会で、年始感をめちゃくちゃ味わえた。嬉しい。年なんて人が勝手に作り上げた区切りのひとつにすぎないといえばそのとおりだけど、そもそも区切りとはそういうものだと思うし、知らぬ間につくられた概念の中を誰しもが生きているのだから、こういうことでテンションがあがるのはおかしなことではないと思う。こういう区切りがあることで生きてる実感をもらうことも大いにあるから、私は年末年始感を感じたいのだ。

料理して、食べて、話して、散歩して、ゲームして、またねって挨拶した。真面目に生活しているだけ、そういう状態って生きてる感じがほんとうに強まる。いきなりどでかい地震が来て、飛行機もぶつかって大変な年始だが、私はできる限りのいい元日をしたと思う。

今日からは、日常をまた始めていく。できることはやっていきたい。


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