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ボクから僕へ

1996年(平成8年)8月7日 23:27

ボクは生まれた。それから24年。ボクの人生は平凡とまではいかないが、なにも胸を張って面白い話を語れるほどの生き方はしてこなかった。ただ、一つ言えるのは、ボクは”期せずして”少数派な行動を取ってきたということ。

ボクには二学年上の姉がいる。彼女の影響と(良くも悪くも)教育熱心な両親に勧められ、ボクは中学受験をし彼女と同じ中高一貫校に入学した。思えば、当時はそれほど中学受験をする人が多くなく、その頃から少数派だったのかもしれない。

中学生のボクは、他人に流され、自分で考えることをしていなかった。誰かが悪さをすれば、自分も悪さをする。授業中にガムを噛んだり、隠れてゲームをしたり、それらが見つかって親が学校に呼び出されることが何回もあった。

そんなボクに転機が訪れたのは、中学2年生の夏だった。姉が学校のプログラムでニュージーランドに行ったこともあり、ボクは親に短期留学を勧められた。あまり乗り気ではなかったが、オーストラリアに2週間行ってみた。これが、大当たりだった。

広大な土地、広い空、どこまでも続く地平線。東京の下町で生まれ育ったボクにとってはなにもかもが新鮮だった。

「もっとカイガイについて知りたい!」

そんな期待を胸に、高校2年生の夏、ボクはアメリカへ10ヶ月留学をした。しかしそこで待ち受けていたのは、もっと大きな世界だった。

目的地はジョージア州アトランタ。経由地のダラスで乗り継ぎ、合計18時間近くのフライトだ。

ダラスでは、初めて一人で入国審査をした。長蛇の列に一人並んだちっぽけなジャップは、イミグレーションでの問い詰められるような質問にタジタジだった。

何しに来たのか?どこに泊まるのか?どれくらい滞在するのか?

今では当たり前に答えられるような質問でも、当時のボクには、相当なプレッシャーをかけていた。

なんとかくぐり抜けたものの、21年連続で乗降客数世界一のアトランタでは、さらに大きな問題がボクを待ち受けていた。

連れ去られたボク...?

日本を出国する前に、ボクはホストファミリーとアトランタでの待ち合わせの連絡をしていた。当日はホストファザーが空港まで迎えに来てくれるはずだった。

しかし、到着ゲートを出てもそれらしき人はいない。困惑するボクに一人の黒人男性が話しかけてきた。

彼は留学団体の人を名乗り、彼曰く、ホストファザーは仕事で来られなくなったということだった。ボクはそれなら仕方ないと彼についていくことにした。

とは言ったものの、空港から出るなと言われていた手前、良いのか悪いのか不安だった。さらに、(これは当時のボクの完全な偏見だが)黒人だったこともあり、不安は倍増だ。言われるがままに車に乗せられ、空港を出た。いつ銃が出てきてもおかしくない、ボクは死を覚悟した。大袈裟に聞こえるかもしれないが、想像してみてほしい。知らない土地に一人放り出され、知らない人の車に乗っている。誰もボクのことなんて気にかけていない。本当に死ぬかもしれないと思った。

結局、ホストファミリーと留学団体間での連絡違いだったことがわかり、ボクは助かったわけだが、これはボクが唯一人に語れる記憶かもしれない。

壮絶な幕開けをした留学生活。最終的には日本に帰りたくないと思うまで楽しめたので、今では笑い話になっている。

怠惰な大学生活

楽しかった留学生活を終え、一年の浪人生活を経て(現役でも浪人時代も興味のある大学しか受けないという強行っぷりを発揮)、センター試験前までは1mmも考えていなかった某国立大学に入学。第一志望ではなかったこと、実家から通学するのに2時間弱かかったこと、東京から来たというだけでチヤホヤされる空気に嫌気がさし、最初の1,2年はなじめなかった。

それでも数人の友人と、バイト先での友人などとそれなりの大学生生活を送った。”それなり”の。海外旅行にも行ったし、朝まで飲んだ日もあった。朝から晩までバイトした日もあったし、クラブに行ったりもした。

3年生になり周りが就活を意識し始めた頃、ボクも同様に就活を始めた。「かっこいい自分」をテーマにボクは名の知れた大企業のインターンにひたすら応募した。結果はほとんど落選。というのも、明確にしたいことが定まっておらず、大学生活で頑張って打ち込んだこともなかったからだろう。

ボクは不思議に思っていた。なぜ就活が始まると友人が、いきなり「営業やりたい」だの「人事やりたい」だのと言い出すのだろうと。そんなことやったこともないのにわからなくないか?これがボクの考えだった。

某経営者が、「やりたいことは自分ができることの中から生まれるものだ」と言っていた。ではボクができること、やりたいことはなんだろう?

ボクが旅人になった日

結局やりたいことがうやむやなまま、ボクは流されるように1年間就活を続けていた。ぼーっと海外で働きたい、かっこいいと思われるような仕事をしたいとか考えて続けていたけれど、ずっと違和感は拭えずにいた。

ボクの留学していた時の友人でビデオクリエイターになった人がいたのだが、その人は海外を飛び回り、色々な絶景に足を運び企業向けの動画やYoutube動画を作っていた。彼の投稿を見るたびに、胸がドキドキするというか、熱くなる自分がいたのだ。

「こういう生き方してみたい」

本心はそこにあった。ただ(良くも悪くも)教育熱心な家庭に生まれ、父は公務員、母は上場企業の職員ということもあり、大学を卒業したら就職。あわよくば大企業職員や公務員になってほしい。というなんとも安定志向なプレッシャーをボクは日々感じていた。

2019年6月末日

ボクはとある不動産会社の三次面接にいた。あとは意思確認だけだから、決心したら最終面接に来てほしいと。悩んだ。悩まずにはいられなかった。


本当にやりたいのか?一度きりの人生、俺はどう人生を歩みたいんだ?


本当はボクの気持ちはずっと前から決まっていたはずなのに、親からのプレッシャーと将来への不安で、ボクは一歩を、大切な一歩を踏み出せていなかった。

2019年7月6日

「就活辞めます」

僕はこう親に報告した。もちろん親からの反対は想像した通りだった。

「やめてどうするんだ?」「お金はどうする?」「少し働いてからでもやりたいことはやれるだろう」

説得に丸一日かかった。いや本当は今も納得していないだろう。ただ、僕は諦めたくなかった。こういう生き方をしたいという本当の自分を。

誰にも理解してもらえなくても良い。やってみて失敗したら、してから考えれば良い。それでも、今やりたいことをやりたいんだ。

その一心で僕は就活を中退した。親からの期待、買ってもらったスーツ、周りからの視線。すべてを投げ捨て、僕は"期して"少数派の道を歩み出した。

New Chapter

就活を辞めた当時、海外ですぐ働けるということで、ワーホリに行こうと思っていた。オーストラリアでワーホリして、グリーンカードを取って、自分で店でも出そうかなと。そんな淡い期待を抱き、今年の3月大学を卒業した。

しかし、周知の通り新型コロナウイルスの蔓延により、僕の渡航は無期限延期に。学生時代お世話になっていたバイト先にはコロナの影響で入れなくなってしまったため、地元でバイトをしつつ家にお金を入れ、カツカツの生活がここ2,3ヶ月続いた。

朝2時間バイトをし、朝食後にジムに行く。帰ってきたら夜は別のバイト先で3-4時間働く。そんな毎日を続けていた。僕は退屈だった。毎日はそれなりに楽しかったが、変わりばえのない日々に刺激を求めるようになっていた。

10月から冬の北海道へ。僕の新たな冒険が始まる。

お金がないときだからこそ、なんだか退屈な時期だからこそ、なにか行動しないと変わらない。なにか変えないと周りは僕のために環境を用意してくれない。逆に、人は環境を変えることさえ出来れば、いくらでも可能性は広がる。僕にとって、世界一周ゼミはこの上ない環境であると思う。僕よりもはるかに行動してきた人たちと切磋琢磨しながら、僕はこれからも大切な一歩を踏み出していきたい。

自分の今の生活に満足しているか。常に問うて生きていきたい。これは、人生を豊かにする唯一の方法であると思うとともに、否定的ではありながらも、僕の考えを受け入れてくれた両親への恩返しになると思うからだ。


僕を支えてくれる全ての人へ。

ありがとう。

この日記が、タイムカプセルのように数十年後に笑って話せるようになることを願って。願うだけでなく努力して。

大丈夫。きっと大丈夫。



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