クロワッサンの男

クロワッサンの男

「君、クロワッサンの作り方を知っているか」

仕事を早めに終え、お気に入りのバーで夕食ついでに軽く飲んでいると、突然2つ離れたカウンター席に座っている男に話しかけられた。冴えない服を着た冴えない顔の男だった。

「はぁ。作ったことがないので分かりません」

冴えない男は手に持ったビールを飲み切って、店員を呼んで同じものを頼んだ。

「僕はね、パン作りが仕事なんだが、いや、正確に言うとクロワッサンを作ることが仕事なんだが、君はパンが好きかい?」

「はぁ、まあ」

パンが好きか、だって。そりゃあ朝食はパン派という位には好きだけれど、なんだってこんな小洒落たバーで冴えない男とパンについて話さなくちゃならないのだ。

「クロワッサン以外のパンは作らないんですか?」

「作らないんじゃあなく、作れないのさ」

「なぜ?」

「簡単なことさ。僕の職場はパン工場なんだけれど、工場長が僕にクロワッサンしか作らせないのさ」

男は小さくため息を吐いてからピーナッツを口に放り込んだ。

「どうして?」

「工場長は僕の作るクロワッサンに狂っているんだ」

「クロワッサンに狂っている」

「そう、狂っている。毎朝工場長の為に10個は焼いておかなくちゃならない。それから販売用に90個」

「あまりパン工場の事情というものは知らないけれど、90個というのは少ないように感じるのだけれど」

「そう、少ない。工場としては、ね。でも当たり前なのさ。なんせ他のパンは殆んど機械で作られているのに、クロワッサンだけは最初から最後まで僕が作ってるんだから」

「工場なのに?」

「そうさ。小麦粉をこねるところから、焼き上げまで。全部だよ」

パン工場で働く男を想像してみると、大きな機械の周りで分業している他の従業員から離れて、一人クロワッサンの生地をこねている姿が浮かんだ。汗をかき、巨大な生地の塊を何度もテーブルに叩きつけ、成形している孤独な姿が。

「何だか可哀想ね」

男は目の前の空になったビール瓶を見つめながら、「そうだね」と小さく呟いた。その瞳は憂い以外の全ての感情を排除し、ずっと遠い、別の恒星の光を宿していた。私はこのぶっきらぼうで冴えない男の事が少し気になり始めていた。

「君、名前は?」男は思い出したように名前を尋ねた。

「吉河」

「下の名前は?」

「気が向いたらまた教えてあげるわ」

「そうかい。なぁ、もし良かったら場所を移して少し話せないか?」

「場所を移す?」怪訝な顔を見せると、男は少し恥ずかしそうに笑った。

「何だか腹が減ってね。ここは良い店だが腹一杯になるものは出ないだろう。近くに美味いピザを焼く店を知ってるんだが」

私は大して空腹でもなかったけれど、男に付いていくことにした。その店は歩いて5分程の、少し入り組んだ住宅街の真ん中にあった。

「あそこに看板が見えるだろう。俺の知り合いの店なんだ」

振り向いて私に説明しながら信号を渡り、突然男は、私たちは、強い光に包まれた。光の中から男の大きな手が伸びてきて、私を強く押した。私は思わず目を瞑り、バランスを保っていられず、思い切り後ろに倒れ込んだ。肘を強く地面に叩きつけ、右腕の感覚が麻痺してしまった。目を開けると男はそこにはおらず、ただ、ピザ屋の看板が煌々と赤く光っているのが見えた。なぜだか巨大なパン生地をテーブルに叩きつける男の姿が連想された。倒れ込む直前、巨大なパン生地を叩きつける、その音を聞いたのだ。耳の中で、聞いたことのないはずの音が何度もリフレインされた。光の中から伸びてきた大きな手でこねられた巨大な生地が、テーブルに叩きつけられる。衝撃でテーブルは揺れ、何度も繰り返す内、耐えられずテーブルは折れ曲がってしまう。首を少し右に向ければそこには現実がある。私はじっと、じっとピザ屋の看板を見つめていた。光から伸びてきた大きな男の手を思い出した。ああ、明日から、クロワッサンは。

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