氷
「痛っ!」
ドアノブに人差し指が触れた瞬間、小さな破裂音と共に弾かれたような痛みが指先を襲った。
「あら、静電気?」
「昔からよく起こるんだ。話してたから油断した」
「我が家に入るのにも一苦労ね」
八尋は悪戯っぽく笑い目元を緩ませた。僕は小さく溜め息をついて鍵を開けた。
この部屋に住んで何年になるだろうか。女性を招くのも久しぶりだ。頭の中でシュミレートしてみたが、目に付く場所に“女性に見られてまずそうな物”は置いていないはずだ。
「ベッド、クローゼット、テーブル、本棚、本棚。簡素で、いい部屋ね」
「そりゃどうも」蔑むわけではなく、かと言って褒めている訳でもないような言い方をする。
「紅茶かコーヒー、どっちがいい?」
「ありがとう。じゃあコーヒーを」
やかんに火をかけカップを用意すると、やることがなくなってしまった。
八尋は本棚に並んでいる小説をじっくりと吟味している。まるでこれから長い航海に出る為に必要な道具を精査している漁師のように。
長い睫毛が瞬きの度に上下している。前髪の隙間から力強く整った眉毛が覗いている。はっきりした顔立ちのためか、華奢ながら沸々と生命力が溢れているような印象を受ける人だ。
八尋と親しくなったのはいつ頃からだろうか。きっかけは鰻屋の話で喧嘩となったのだった。お互い一番美味しい鰻屋として別の店を挙げて譲らず、結局2店舗回って食べ比べをした。その時勝敗は付かなかったが、それ以来美味しい物を見つけては自慢し合い、僕が車を出して実際に食べに行くようになった。八尋が薦めてくる店は、少なからず交通手段に乏しい立地に店を構えている。移動の間、比較的長い時間を車内で過ごすこととなり、八尋はよく掴みどころのない不思議な夢の話を僕にしてくれた。
「今朝はね、ポテトチップスの工場で働いている夢を見たわ」
「ポテトチップス」
「そう。とても大きな鍋を使って、薄くスライスしたじゃがいもを一度に沢山揚げてしまうの。私はその様子をじっくり観察して、丁度いい揚げ具合になったらスイッチを押して次の工程に進ませなくちゃいけないの」
「見極めなくちゃいけないんだね」
「そうよ。味と食感のバランスを決める、大切な仕事なの。私は揚げ具合をきちんと確認しなくちゃいけなくて、揚げたてのポテトチップスを何枚か食べてみるの」
「いいね」
「いいえ、そうでもないの。揚げたてのポテトチップスはとても熱くて、私はいつも口の中を火傷しているの。火傷が治る前に試食を繰り返さなくちゃいけないから、口の中はぼろぼろよ」
「交代することはできなかったの?」
「無理よ。私はそれしか仕事を与えられていなかったし、どういうわけかその仕事を強いられていたの」
「強いられていた」
「そう。何か理由があったのだと思う。逃げられなかったのよ」
そこで話は終わってしまった。僕はポテトチップス工場で働きながら火傷に苦しむ八尋を想像して、心底同情した。怒りさえ湧いてきた。
八尋はしばらく助手席の窓から街の景色を眺めていたが、口から言葉を零すように呟いた。
「助手席の人間とドライバー、二人きりの車内ではドライバーにイニシアチブがあるのよね。例えば、あなたが今から何も言わずエンジンをかけて、私からの質問なんか無視してしまってホテルに入ってしまうこともできるんだもの」
「そんなことはしないよ」
「例えば、ね」
「例えば」
「強いられるということは、そういう事なのだと思う」
僕は何て声をかけていいか分からず、黙って信号が変わるのを待った。赤信号はずっと道の先まで続いていて、このまま青に変わることはないのではないかと思えた。
「僕の読んだ小説の中に、パン工場で働く男の話がある。その男は毎日毎日クロワッサンばかり作っているのだけど、本当は他のパンも作ってみたいと考えていたんだ。カレーパンだとか、フランスパンだとか。でも工場長はそれを許してくれない」
「どうして?」
「男はクロワッサンを作るのがとても上手で、工場長はそのクロワッサンが大好きだったんだ」
「それでどうなるの?」
「男はそれでも他のパン作りを諦めきれず、色々努力するんだ。同僚に助けを求めたり、家でパン作りの練習をしたり、工場長に直談判したり。そういう小説だよ」
八尋は少し考え込むような表情を浮かべたあと、「その本読んでみたいわ」と言った。
こうして八尋は僕の家を訪れることになった。
2人分のコーヒーを運ぶと、八尋はまだ本棚の前に座っていた。
「あなた沢山本を読むのね」
「そうでもないよ。本当に読む人と比べれば」
「でも私よりは何倍も読んでいそうだわ」
僕はパン工場の男の話が載っている短編集を手に取り、八尋に渡した。
「あげるよ」
「悪いわよ。でも貸してもらえるなら是非貸して欲しい」
「もちろん」
コーヒーカップを差し出すと、八尋は両手で受け取った。
「熱いから気を付けて。口の中を火傷しないように」
「ポテトチップス工場で働く哀れな女みたいにね」八尋はまた悪戯っぽく笑った。
3秒、あるいは5秒程僕たちは見つめ合い、そしてキスをした。
「うっ!」
唇が触れた瞬間、小さな破裂音と共に弾かれたような痛みが唇を襲った。静電気。こんな時に。
八尋は目を丸くしていたが、顔を逸らすと声を上げて笑い出した。
「すごいタイミング!もう、笑わさないでよ!」
「ごめん。まったく」
「ほら、でもこれって、電気のバランスを取るために起こっている現象でしょう。同じように、私があなたとキスをするということは、私にとって心のバランスを取る為に必要なことなのだと思う」
八尋はそう言って僕にキスをした。
八尋の髪からは微かにお香のような匂いがした。
僕は目を閉じて唇と鼻に意識を集中させた。
このキスが終わったら、八尋のコーヒーに氷を一つ入れてあげよう。彼女がもう火傷をしないように。
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