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『紫に還る』 第六話(Ⅱ-1)

【章の二 ユリシアの王女】
 
好奇心旺盛な少女は父親が大切にしまっていた箱を開けた。
期待した綺麗なガラスの球も、愛くるしい人形もなかった。
そこには線や文字が書き込まれた、黄ばんだ一枚の紙が入っている。
それは少女の部族に代々受け継がれてきた系図だった。
興味を失って紙を戻そうとした時に、微かな黒い染みに気がついた。
光の加減で見える透かしは、まだそれとわからぬ竜の形をしている。
「リー、その部屋には入っちゃいけないって言ったでしょ」
「ごめんなさい、母上」
慌てて閉めた箱の奥で、小さな白い棒がかたんと転がった。
 
  1
 
 三人と別れてからは力の限り走った。竜に踏まれて倒れた草が起き上がろうとするところを、カンターの足が再び地面に押し付けていく。草がまばらになりごつごつした岩場が始まる。息を整えながら、周囲を注意深く見渡した。小さい頃から野山を歩くのが好きだったカンターも、部族の裏山にあたるこの辺の地形にはほとんど馴染みがない。
 
 いた。右前方の険しい岩場を竜が跳ねるように降りていく。長い尾でバランスを取っている。
 間に合った。大きく息を吸い込んで慎重に足を踏みだす。カンターは突起のついた黄色い背中を見つめた。身体が燃えるような焦りを感じる。
 あの竜を追わなければいけない。
 その単純な衝動が自分を突き動かしていた。
 
 岩の陰を利用しながら回り込むように竜の後を追うが、竜の周りに連れは見当たらない。やがて岩場を下りきった竜は林に入っていった。カンターが追いかけてきていることには気がついていない様子だ。充分ついていける。
 竜は何かあると寄り道をして長い鼻面で匂いを嗅いでいる。鳥がかん高い声を発して頭上を飛び去ると、しばらく放心したように空を眺める。竜の普段の習性などカンターは聞いたこともないが、少なくとも警戒しているようには見えない。これなら竜の住みかまで悟られずに行ける。
 
 竜は下生えを踏んで林を出るようだ。カンターは歩調を速めた。次第に大きくなる水音で予想したとおり、林の終わったその先は川が流れていた。林が切れてから川までに平坦な河原がありカンターの身を隠す場所がない。カンターは歩を止めて身を伏せた。竜は躊躇せずに水に入っていく。
 対岸に行かれたらどうする。カンターは唇を噛んだ。泳いでいる時には隠れようがないし、潜水して対岸まで行けるほどカンターは泳ぎが得意ではない。部族を貫く川で遊ぶことはあるが、目の前の川はずっと広く、水の流れも速い。
 
 竜は対岸に渡る気配などなく、流れを遮るように突き出ている大きな岩のかげに落ち着いた。そしてカンターの心配をよそに腹を見せてぷかりと浮かんだ。あれはどう見ても水遊びだ。
 しばらく水からあがりそうもないのを見て、カンターも身体を休めることにした。カンターはひどく腹が減っていることに気がついた。
 今朝シークの家でパンをもう一枚もらっておけばよかった。腹ばいのまま周りを見渡すが手近に食べられそうな果実もない。葉っぱにそっくりな虫が目の前を通り過ぎていく。胸の下に何かあたるものがあった。
 昨日長老からもらった小さな白い棒。これは一体何なのだろう。肘をついて右手の指でつまむ。目の前でじっくりと見た。何の変哲もない小枝のような棒だが日にかざして良く見ると、ごく小さな穴がいくつか開いている。そう言えば長老は笛と呼んでいた。
 カンターは口寂しかったのもあって、紐のついていない方を唇に挟んでみた。少しだけ息を吹き込んでみる。スーというかすかな音はするので穴は棒の中でつながってはいるようだが音が出るわけではなかった。
「あれっ」
 思わず頭の後ろに手をやった。棒が口を離れてまた首にぶら下がる。頭を軽く小突かれたような気がしたのだ。木の実か何かが落ちてきたのかと思ったが、そうではなさそうだ。もちろん周囲に何かを投げ付けるような者もいない。
 そもそも今まで味わったことのない変な感覚だ。頭の内側で何かがことりと動いたようだ。
 そう、頭の中の入ったことのない部屋のドアが開いた気がする。そこで自分ではない誰かが驚いていた。
 カンターは当惑しながらも頭の中に訪れたその感覚を、何とかして手繰ろうと躍起になった。それは頭蓋骨の中に収まった脳の表面を手で撫でて確認するようなもどかしい作業だった。指で頭のそこかしこを押しながらふと目を上げた。
「しまった」
 竜に注意を払うのがすっかりお留守になっていた。川の中で水浴びしていたはずの竜がカンターの方をじっと見ている。竜もカンターも凍り付いたようになって、睨み合ったまま時が流れた。身を起こして一歩踏み出そうと思った瞬間に、竜がくるりと後ろを向いて、頭から水中に姿を消した。
 カンターは河原を一気に駆け抜けて、竜が残した波紋が消える直前に水に飛び込んだ。肌を刺す水を必死で何度か掻き分けた時に、濁った水の先に竜の身体がちらりと見えたような気がした。その刹那、カンターは激しい水の流れに身体を引っ張られた。
 
 だめだ、流れが強すぎる。辛うじて水面に浮かび上がって喘ぎながら大きく息を吸い込む。岸の樹木や空、目に映る全ての風景が恐ろしいほどの早さで動いている。どこか流れの緩やかな所まで泳がなければ、このままでは竜を追いかけるどころか溺れてしまう。今まで追う立場だったカンターは初めて身の危険を感じた。
 しかし川幅はどんどん広くなり、カンターはいつのまにか川の真ん中に吸い寄せられていた。これまで泳いだ事のある川や池とは水の勢いが違う。どちらの岸も最早絶望的なまでに遠い。水を飲むたびにむせ返り、涙を流しながらカンターは無我夢中で手足を動かすが、水面に顔を出しているだけで精一杯だった。
 
 激流に身体を揉みくちゃにされながらカンターはひたすら流されていく。
 本当にもう駄目かもしれない。そう思った時、流れが緩やかになり、カンターは慌てて肺に新鮮な空気を詰め込んだ。しかし浅瀬を探す間もなく、やがて水という水が猛々たけだけしく震え始め、地鳴りのような音がカンターを慄然とさせた。
 
 再び勢いを取り戻した流れが情け容赦なくカンターを運ぶ先には、白い水煙の幕が待っていた。
 滝壷だ。
 轟くような水音の中、カンターは最後の抵抗を試みたが、腕も足も、もはや一滴の力も残していない。
 一人で竜を追うなんて馬鹿なことをどうして考えたんだ。こんなところで死にたくない。その思いは一瞬のことだった。
 
 白い幕に突っ込んだカンターは次の瞬間、虚空に放り出されていた。

<続く>

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